僕が嫌いなもの:日本のおもてなし精神

とある古本屋の話だ。

その古本屋は有名なチェーン店であり、古い貴重な古書というよりは、主に比較的新しい本を取り扱っていた。

その店に入ってくる本の量は凄まじく、質の良いものから悪いものまで様々なものを売買していた。


当然、古本であるため多少の傷や汚れはある。

その程度で売り物として出せるかどうかを判断し、売買する。それが古本屋というものだろう。


その店では値札というものがなかった。

とはいっても、値段がわからないわけではない。

通常、古き良き古本屋は本の一番後ろに値札を貼る、あるいは挟んでいる。

ところがこの店では値札という形ではなく、シールを裏表紙に貼って値段を明記していた。

チェーン店では大抵この手法をとる。


さて問題は、このシールのせいで本の全貌がわからなくなるということだ。

もちろんこの問題は大したものではない。

シールの裏にだけ汚れや傷があったという話はそんなに多くはない。

ただし、たまにそういうこともある。

他のチェーン店が同様に裏表紙にシールを貼る手法をとっているならば、その剥がし痕がシールの裏に残っていることもなくはない。

これからの話はそのシールの裏の傷にまつわるものだ。

ただし、これはかなり事実をデフォルメしたものであり、そのまんま実話ではないことは留意していただきたい。



ある日、その店に憤激した老人がやってきた。

その手には一冊のコミック本が挟まれている。1980年から2000年にかけて流行った少年マンガだ。

彼は店の自動ドアをくぐるや否や、すぐ目にとまった、買取台で査定をしていた女性の店員を呼びつけた。

彼女は内線通話機で他の店員を呼び出した。

しかし、老人は「早く来い」と声を荒らげる。


女性の店員はうろたえながら老人に歩み寄る。

すると彼は「責任者を呼べ」と言い放った。

彼女は「少々お待ちください」と言い、店内放送で店長を呼んだ。

「ただいま参りますので少々お待ちください」と彼女が老人に伝える。

「なんで椅子も出さないんだ」そうすると今度は椅子を要求してくる。

「椅子は出していません」

彼女がそう言うと、老人は何だかよくわからないことをわめきながら、入口近くの買い物かごを3個ほど取り、それをひっくり返して床に置くや否やそれに腰をかけた。

彼女は激しくうろたえた。人とは果てしなく常識知らずの人間を目の前にすると何も言えなくなる。


そこへようやく店長がやってきた。とはいっても30秒も経っていない。この店では移動がスピーディだった。

店長は女性の店員に何があったのか聞き、横暴な老人に歩み寄る。


「お待たせしました。どうかされましたか?」と店長は尋ねる。

老人は何も言わず、怒りの表情のまま手に持っていた本の裏表紙を見せて突き出した。その持ち方は乱暴で、本が結構曲がっている。

「こちらはご購入なさったお品ものですか?」

「こういうのってせこいと思うんだよね」老人は何も説明せずにそう言う。

「何か不備がありましたか?」

「何かって、見ればわかるだろ!」老人は大声を上げた。

店長は老人の持つ本を見つめた。しかし、特段目立つものはないように思えた。

「ここだよここ!」老人は再び声を荒らげ、2つあるバーコードの下の方(日本図書コード)を指し示す。そこには小さな破れがあった。

「はぁ……」店長は、それがどうしたのかとうろたえた。この程度の破れは問題にならない。

「シールを剥がしたら破れがあったんだよ。比較的に綺麗だなと思って買ったのに、シールで隠すようなまねをして、せこくないか?」

「せっかく購入なさった商品に破れがあって、がっかりされたんですね。このたびは大変申し訳ございませんでした」店長はハッとし、すぐに頭を下げた。この点、さすがは店長である。商品の傷は問題にならない。しかし、彼は客の気持ちを汲んで、決して反論はしなかった。「すぐに同じ商品がないか確認してきますね」

「同じものはなかった」

「では、返金ということで対応させていただいてよろしいでしょうか?」

「いいや、返品はしない」

店長は虚を突かれた。ではこの老人は何をしに来たというのか。


その後、老人は長い説教を店長に聞かせた。

その内容は要領を得ない。

しかも言っていることは同じことばかりで、「せこい」「ずるい」「卑怯」という言葉が何度も繰り返された。

店長はかごに座る常識知らずな老人に対して何度も頭を下げる。

ドアを出入りする人々は奇異を見るような目を老人に向ける。

初めに対応した女性の店員は気まずそうに自分の仕事(買取の査定)を続ける。

他の店員は、何かまた厄介な客が来たと呆れた目で一瞥しては、自分の作業に戻っていく。


ひとしきり説教を終えると、最後に老人は「誠意を見せろ」と言った。

最終的にサービス券を渡すことで、老人は帰られた。



繰り返すがこれは実話ではない。

断片的な実話と架空の話を織り交ぜたフィクションだ。

これは自分のことだと憤慨する者がいるならば、それは自意識過剰というものだ。

そもそも自身を省みたほうがいい。


さて、このフィクションについて皆さんはどう思うだろう?

老人は正しいと思うだろうか?

もしそうであれば、僕はあなたを軽蔑せざるを得ない。

はっきり言おう。この老人はまともではない。


なぜまともでないと言えるかというと、まず彼は器物損害罪を犯す可能性があったからだ。

彼は買い物かごを椅子代わりにした。

その際にかごが壊れたら器物損害罪になる。

壊れなかったとしても、床にひっくり返して置かれたかごを、他の客は使いたいと思うだろうか?

きっと思わないだろう。

拡大解釈すれば、この老人はかごを使い物にならなくしたと言える。

そのような行為をする人物をまともと言えるだろうか?


第二に、交換も返品もする気がないのに何をしに来たんだという話だ。

ただ単に不満を晴らすために騒ぎ立てているようにしか思えない。

他人を巻き込んでまでしないと自分の感情をコントロールできない者がまともと言えるだろうか?

それに、これは店長の業務を妨害していると言えるのではないだろうか?

つまり、この老人は威力業務妨害罪まで犯している可能性があるのである。


第三に、「誠意を見せろ」と言うものは総じてまともではない。

もはやこれは相場が決まっている。

誠意というのは、店側が進んで見せるものであって、客側が要求するものではない。

また、基本的にサービス券というのは返品・返金した際に渡すものだ。

返品もしないのにサービス券を要求するに準じた言動をとることは、恐喝罪に該当するのではないだろうか。


以上のことからこの老人はまともじゃないと言える。


それにしても、世の中にはなぜこのようなまともじゃない客が湧くのか?

それは日本の過剰なまでのおもてなし精神が原因だと僕は考えている。


僕は海外に行ったことがないため、他人の話を参考にしての話だが、日本の接客レベルは世界的に見ても最高峰らしい。

確かに海外のニュースを見ていると、接客の態度が悪いように感じる。

しかし、それは僕たちの国が異常に丁寧なだけであって、海外のほうが基準なのではないだろうか?


あるコメンテーターは日本のホテルの従業員は賃金が低いのに、やっていることは高級ホテル並みだと言っていた気がする。

事実はどうかわからない。

しかし、ほとんど確信に近いものは、日本は接客に求められる水準が高すぎるということである。

確かに接客の質が良いことは良いことに思われるかもしれない。

ただし、それは思わぬ弊害を生んでいる。

それは、客の自己愛を過剰に満たしているということだ。


人には共通して、他人から認められたい、良くしてもらいたいという欲求がある。

簡単に言うとそれが自己愛だ。

だから人は頑張って仕事をするし、人に優しくもする。

ところが、なかには何もしないのに他人から認められようとしたり、良くしてもらおうとする者がいる。

今回の老人がそれに当たるだろう。

多少の傷があるからこそ、それなりの値段で買える場所でそれを買い、実際に不備があれば誠意を見せるよう要求するのは、まさに自己愛に囚われたそれだ。

傷に不満を持つのなら新品で買えばいい。

それなのにそうしないのは、自分は大した金を払わなくても最高級のサービスを受けられると思っている肥大した自己愛があるからだ。

そして、日本の接客は歪んだ自己愛を満たすのにちょうどいい場所と言える。

そうして日本の接客は客の自己愛を肥大化させる。

まさに悪循環だ。


ご存じの通り、アメリカにはチップ制度がある。

支払う金とは別に、親切にしてくれたお礼にチップを渡すという暗黙の了解が海外にはある。

つまり、良いサービスを受けるにはそれなりの対価を支払うというのは普通のことなのだ。

それなのに日本は無償で良いサービスを提供するのが普通になっている。

むしろ、今回の老人のように不当に搾取していこうとする者だっている。


現在、自己責任論という言葉が問題になっている。

これは自分が関与したことの結果はすべて自分の責任とする考え方だ。

問題点としては、自分だけでなく他人にも厳しくなるだったり、強者の論理だったりすることが挙げられる。

ただし、僕はこの論は正しいと思っている。

何かを得るためには何かをしなければならないのは当たり前だ。

対価を支払っても求めたものが手に入らないことはあっても、対価を支払わずに求めたものが手に入らないことはないはずだ。

ただし、この簡単な法則が日本ではおもてなし精神によって破られている。


だから僕は日本のおもてなし精神が嫌いなのだ。

謙虚な者ほど損をし、傲慢な者ほど得をする仕組みが、おもてなし精神なのだ。

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