第20話 サーカス
「そうだ、雪間くん、スマホのパスワード変えた方がいいよ」
「もう変えました」
「それがいい。それにしても合気道やってたなんて意外だった。駿介を押さえられるなんてすごいね」
「駿介も一緒に習ってたので。彼の動きには慣れてましたから」
駅前の広場には大道芸人がいて、ジャグリングをやっていた。取り囲む人々から時折、歓声が上がる。高いビルに囲まれているから、山間の谷に小さなサーカスが来ているみたいだ。
もう少し先に行けば、観覧車もあるはずだ。昔あった遊園地はなくなってしまったと聞いた。雪間くんにはロープウェーも観覧車も似合わない。何となく高所恐怖症のような気がする。
雪間くんが何か言ったが、周囲の音にかき消されてよく聞こえなかった。
「聞こえなかった、何?」
「駿介と何の話をしたんですか?」
相変わらず、耳を澄まさないと聞こえないくらいの声量である。腹式呼吸を教えてあげたい。歌声喫茶とか行ったらどうだろう。
「雪間くんのあだ名がシンシンだって聞いた」
「それは忘れて下さい」
雪間くんの顎にはうっすらと髭が生えていた。寝癖のついた髪といい、とるものもとりあえずに駆けつけてきてくれたことが伺える。仕事も大変だろうに、貴重な休日に疲労を蓄積させてしまった。来てもらって私はとても助かったが、疲れた横顔を見ていたら何だか気の毒になってきた。
「疲れてるでしょ? 帰ろうか?」
「駿介は、小さい時からスポーツが何でもできました。ハンドボールでは高校生の時、県大会優勝しています」
暗い声でぽつぽつと喋り出す。
「すごいじゃん」
「はい。女性にも昔からもてました。あのとおり、体質にハンデがあるのに、臆さずに堂々と社会に入っていって、周囲から好かれている。勇気があって尊敬します。僕とは全く正反対のタイプです。僕にはあんな勇気はない」
それは勇気なのかもしれないし、単にあまり深く考えていないのかもしれない。
「まあ、人には性質があるから」
「駿介は女性にも積極的に行動しています。外見も魅力的だし、相手を楽しませる話ができる。人とは違うからとか、言い訳ばかりして、中々動けない僕とは違う。僕が女性でも、恋人にはああいう人間を選ぶと思います。羨ましい限りです」
「分かりやすい魅力じゃないかもしれないけど、そういう風に弱音を素直に口に出して言えるのは、雪間くんの良いところだと思うよ。言えない人の方が多いんだから。それだって勇気じゃない」
「そうでしょうか」
「うん」
夕暮れの空をロープウェーがゆっくりと動いていく。ちぎれた雲が淡い茜色に染まり、反対側の遠くの空は水色と紫が混ざっている。薄闇が周囲の輪郭をぼやかしていく中、淡い影のような手をつないだカップルが何組も前を通り過ぎる。ロープウェーの方向に向かう人も多かった。
「観覧車といいロープウェーといい、高いところに行く乗り物には何でカップルが多いんだろう」
「というか、一人で乗るものじゃないんじゃないですか」
「確かに。高くて不安定な場所に一人だと心細いかもしれない。高い展望台に、もし自分一人しかいなかったら怖くない? 景色が綺麗だと余計に空恐ろしいかも。世界から切り離された感じがするじゃない」
「草野さんは地に足の着いた生命力があるので大丈夫そうですが」
「また人を雑草みたいに。あのロープウェー、駿介に乗らないか誘われたの。ちょっと乗ってみたかったけど、駿介と乗ってもねえ」
「乗りたいなら、乗ったらどうですか」
「一人で?」
顔をしかめた私を見て、雪間くんは柔らかく笑った。
「一人で乗りたいなら止めませんけど」
「嫌だよ」
「じゃあ一緒に乗りますか」
「えっ」
聞き間違いかと思った。つい大きな声が出てしまった。
私達は長く伸びるビルの影の中にいた。薄暗くて彼の顔色が読めない。戸惑ったように目をそらされたけれど、その真意も分からない。
「高所恐怖症じゃないの?」
「違いますが」
「意外。絶対そうだと思ったのに」
「勝手に人の設定を作らないでください」
「血圧は? 低くないの?」
「血圧は低いです」
「それは良かった」
「何で良いんですか」
「あ、そういう意味じゃなくてね」
「……乗らないならいいんですけど」
不貞腐れた子のように爪先で道を蹴る。私は慌てて手を上げた。
「乗る! 乗りたいです!」
目を細めて破顔する。まるでそれまで緊張していたかのように息を吐いた。私の気の所為だろうか。
ふと、さっきお店で見かけたうさぎの栓抜きのことを思い出す。
帰り際にあのお店に寄って、買って帰ろう。雪間くんにも見せてあげたい。多分好きだと思うから。
<第二章 スリーピングフレンド 了>
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