明日、僕は、永く眠る

赤羽九烏

第1話 いつもの朝は

 僕は、8時間の眠りから目覚めた。今日もカラスがうるさく鳴いている。明日の朝にも鳴くのだろう。カラスは意思疎通のために鳴いているのかもしれないが、そう思ってはいない人間もいる。想像力が豊かなのだ、人間は。感性も。それ故に、苦しんでいる人もたくさんいるし、僕も例外ではないのだろう。


 世の中には、こんなことを言う人がいる。

「虫の声に、趣を感じる」

 孤独な老人は、よく、虫の鳴き声を聞きながら、酒を飲む。ついでに、月が酒に浮かんでいればまた、趣を感じる。酒を揺らして、月をゆがめてみたりする。そんなことが出来る人は、孤独であっても、心が苦しさの渦でぐちゃぐちゃになっていても、美しいと思う。

 だから僕はたまに、趣を探しに出かけにゆく。それがなかなか見つからない。隣町の公園の草むらにまで、探しに行くこともある。けれど、趣を探し出せたことはなかった。

 今日こそ、趣を見つけられるのだろうか。だけど、他に、やりたいことがある。だって、ほら、僕はもう、今日しか生きることが出来ないのだから。


 僕は、今日限りの命しかない人間が、どのようにその今日を過ごすのかについて個人的に興味があった。いつも通り過ごす。腹一杯ご飯を食う。家族に会いに行く。片っ端から告白する。もしかしたら、逮捕されてみたい、という人もいるかもしれない。ただ、今はそんなこと考えている場合ではない。だって、明日、僕は、永遠に眠る、のだから。まさか自分がこんな状況になるとは思ってもいなかった。ある人の命が今日まで、というのを考えたことはあるが、自分の命が今日まで、というのは考えたことが無いのだ。ただただ恐怖と絶望と、希望しかない。


 今自分がいるベッドを、ゆっくり時間をかけて感じてみる。寝ているときに身体から発せられた熱を毛布が蓄えている為か、生温かい。身体は寝ているときも生きていたのだ。一つ一つの鼓動が、身体全体に生々しく血液を巡らせる。指一本ですら忘れてはいけない。全部に届ける。だけどそんな肉体の神秘を、抵抗を、明日は笑う他ないのだ。


 お尻がどうやら、ベッドを大きくへこませている。僕の質量は、お尻に集中しているようだ。自分がこの世界に存在していることを感じるためには、いろいろな方法があると思う。罵詈雑言いわれ、落ち込む。他人に殴られて、痛む。ちょっと褒められて、微笑む。人と意味の無い会話をして、笑ったり、怒ったりする。ぼーっとしていて電柱にぶつかる。まだまだある。そして、ベッドが自分の質量で沈んでいる。これも、自分がこの世界に存在していることを確かめるのには、十分な事象である。他者、若しくは他の物が、自分と関係を持っている、持っていたということを確認できるとき、僕は存在していると感じることが出来る。だから、意識さえしていれば、基本的にいつでも自分の存在を確認できる。


 そんなことを意識している時間が無い。意識せずとも存在を感じることが出来る。そんな人生を歩んでみたいと思っている。だけど、いままでの自分では、叶えることが出来なかった。ベッドがへこまない夜は、いずれどんな人間にも訪れてしまう。無慈悲な世界のルールに従わざるを得ない人間、動物、生物の結末なのだ。抵抗しようものならば、親友にも笑われてしまう。


 そっとベッドから立ち上がり、暖房をつける。ちょっと贅沢して、22度に設定する。昨日までは18度に設定していたから、上矢印の刻されたボタンを4回押す。不気味な機械音が、4回鳴る。


 そのまま、シャワーを浴びてしまおうと、全裸になる。まあ、このあたりまでは毎日のルーティーンをこなしているだけなのだ。

 パジャマを脱ぐ時に、服が擦れる感じがまた気持ち悪い。服についた垢が、もう一度肌に認識される感じも気持ち悪い。僕にとって生きるということは、徹底的に気持ち悪くなることなのかもしれない。44度に設定してあったお湯は、湯気を盛んに立てて、僕の体を襲ってくる。そして、僕の体に当たってちょっと冷えたお湯が、ユニットバスの狭い空間にこだまする。もしかしたら、隣の部屋に住んでいる人を起こしてしまったかもしれない。僕らを引き裂くアパートの壁なんて、形式だけのものなのだから。


 このまま温かい湯に打たれているのもいいが、思考がふくらみ、どうやら長居してしまいそうになるので、さっさと上がる。使い古したバスタオルで、体に頑固に張り付く水滴を剥がす。僕がシャワーを浴びている間に、暖房が仕事をしてくれていたおかげで、冷えずに済んだ。22度は、僕にとって最適な温度だった。


 このバスタオル。大学一年生の時に買ってもらってから、ずっと使っている。かれこれ、2年だ。たった二年の仲だけど、僕はこいつにいっぱい愚痴を聞かせていたな。こんなに、ボロボロに、黄色くなっちゃって。申し訳ないという気持ちが沸いてやまない。だけど、僕は明日死ぬのだ。愚痴を聞かせてやれるのも、今日で最後なんだよ。


 クローゼットから、セーターと、その下に着るシャツ、そしてパンツと、見るからに温かそうなズボンを取り出した。ほかほかした肌に、キンと冷えた人工物が擦れる。そんなとき、暖房は、22度よりも暖かい方へと、盛んに火を焚いていた。僕の命令を無視しているのだろうか。それとも、僕にもうちょっとだけ贅沢をさせてくれているのだろうか、僕の未来を知って。だが、そうはいっても、ちょっとだけ暑くなってきた。暖房のボタンを二回押す。それに従って、機械音も二回鳴る。20度だ。

 

 そうこうしているうちに、大学の授業が始まる時間が迫ってきた。授業が始まるまで、あと15分しかない。今日もいつものように授業に出た方が良いのか?専門的な用語を高らかに並べ、自分が偉いことを生徒達にお金を払わせて教えようとする。僕が受けている授業はそんなものばかりだった。明日死ぬのに、大学なんか行ってもしょうが無い。知的好奇心をくすぐるような授業に出るのなら、話は別なのだけれど。


 パソコンを開き、大学のサイトにログインする。そこからメールを開き、送信した。


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戸渡山教授


お世話になっております。水曜日2時限目に流体力学を受講しています三年理学部の昔川ふるかわ 潤です。本日の講義なのですが、激しい頭痛と咳の為、欠席させていただきます。直前の連絡になってしまい、申し訳ありません。


よろしくお願いします。

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○○大学理学部物理学科3年 

学籍番号203451

昔川 潤

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 パソコンを閉じると、目一杯息を吸って、吐いた。ふと甘い香りが、鼻腔をとらかす。どこか懐かしい、それでいて本当に甘い匂いがした。中学の頃、通学路でよく遭遇したあの匂い。秋にしか香らない、特別な匂い。


 金木犀だった。


 シャワーを浴びているときは気がつかなかったが、そういえば今日から、「金木犀の香りのするシャンプー」に変えたのだ。今は冬だが、それでも金木犀は香る。化学の力で。つくづく、化学に感謝せねばならないと思う。秋に、一週間の命しか持たない金木犀の香り。それを無理矢理に引き延ばし、無味無臭の冬に楽しもうとする人間。なんと、まぁ、強欲なことだよ。でも最期に、金木犀を楽しめてよかった。僕に次の秋は、来ない。


 そして、机の上のペンケースに収まっていたシャーペンを取り出した。付箋も取り出した。そして、上の方に、濃く、強く。


 



 ─── 今日は何をしようか ───

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