第1話 断罪の庭

二〇二四年二月五日 月曜日 午前


 黒い制服を着た三人の男女と六人の市民が席につくと、厳粛な空気が広い部屋の中に張り詰める。事件番号が読み上げられ、時間は動き出した。

「それでは、開廷します」

 三人の黒い制服のうち、真ん中に座った女性が静かに口を開いた。喋る予定もないだろう誰かがどこかで咳払いをする。

「草鹿さん、分かってると思いますが、今度こそ余計なことは喋らないで下さいよ」

 長い髪を後ろでまとめた若い女が緊張の面持ちで、卓の前の長椅子に腰かけているうだつの上がらない男に小さく声を掛けた。眉間に刻まれた小さな皺が信用の程度を物語る。

 棘のある言葉を背中で聞き流して、草鹿と呼ばれた男は力なくうなずいた。無精髭が生え、疲れ切ったようなその表情のせいでいくぶんか老けて見える。彼の隣に座る男が素早く手錠を外していくと、草鹿は、ほぅ、と一息ついて両手首をさすった。

「被告人は証言台の前に立って下さい」

 さきほどの女性に指示されると、草鹿はゆっくりと腰を上げ、視線の真っ只中に猫背気味に立った。その背後、腰高の柵を隔てて左右五列のベンチに葬列のように並ぶ人々がまじまじとその背中を見つめる。ついに始まるのだ、というような固唾を飲んだ沈黙が溢れ出す。

 制服の女性が柔らかな瞳を草鹿に向ける。

「これから色々質問をしますけど、公判に必要な手続きなので正直に答えて頂ければ大丈夫ですからね」

「僕はやってません」

 草鹿は開口一番にそう返した。

 後ろの席がさざなみのようにざわめく。さきほど草鹿に声をかけた若い女が頭を抱えると、その反対側で向かい合う卓についたスーツ姿の男女が微かに含み笑いを浮かべて顔を見合わせた。

「あのですね」制服の女性が苦笑いする。「あとで説明をしますけれど、法廷での発言は全て証拠になりますから、注意して下さいね」

「じゃあ、証拠にして下さい。僕はやってない」

 頑なな草鹿の口振りに、聴衆は小馬鹿にしたような笑いを漏らした。制服の女性は誰にも気づかれないように溜息をついて、髪をまとめた若い女の方にチラリと目をやる。ちゃんと話し合いしたの? とでもいいたげだ。

「とにかく今は質問されたことに答えて下さい。あなたの名前を教えて下さい」

「草鹿京一です」

「生年月日はいつですか?」

「一九九五年三月一三日です。何の意味があるんですか?」

 再びどこかから微かに笑いがこぼれる。

「あなたがこの事件の被告であるということを確認しているんです。一九九五年は和暦でいうと……?」

「平成七年ですね」

「住所はどこですか?」

「プライバシーなのでいえません」

 今度こそ、聴衆から笑いが起こった。制服の女性がすかさず手を挙げると、すぐに静寂がやって来る。

「草鹿さん、法廷ではあなたが問われている罪状について円滑に話し合う場です。こうして裁判員の方々もお忙しい中出席しています」彼女はそういって、三人の制服の両隣の卓についた六名を指し示した。「度が過ぎる場合は制裁が科される可能性があるので気を付けて下さい」

「すいません。住所は千葉県船橋市南本町五二‐二‐五〇五です」

 大見得を切ったわりにはすぐに降参する草鹿に、この場所で唯一の味方ともいえるさきほどの若い女が物申したそうな視線を投げつけている。

「本籍地はどこですか?」

「ええと、千葉県だと思います」

「資料では千葉県松戸市となっていますが、間違いありませんか?」

「ああ、松戸市上本郷四六〇〇‐三です」

「職業は」

「フリーランスのライターです」

 制服の女性は草鹿に向かって左手に置かれた卓の方へ目を向けた。

「では、検察官は起訴状の朗読して下さい」

 勝手に席に戻ろうとする草鹿だが、すぐに咎められる。

「被告人はそのままで」

 聴衆から、ふふ、と笑みが漏れる。

 指名されたスーツの男が立ち上がる。そして、書類を手に取ると、それに目を落としながら明朗な声で音読を始めた。

「被告人は、第一に、

 二〇二三年七月一二日午前十時四〇分頃、神奈川県三浦郡葉山町長柄七〇八番一二四号奥野夢人方に、金品窃取を目的に侵入し、同所に同年八月一〇日にかけての二九日間、不当に滞在し、また、その頃に、奥野夢人の財布から一六二万六七八一円を窃取したものである。

 第二に、

 二〇二三年七月一二日頃から同年八月二日頃、神奈川県三浦郡葉山町長柄七〇八番一二四号奥野夢人方で、奥野夢人(当時二九年)を、殺意を持って殺害したものである。

 第三に、

 二〇二三年七月一二日頃から同年八月二日頃、神奈川県三浦郡葉山町長柄七〇八番一二四号奥野夢人方で、奥野夢人(当時二九年)の遺体を、証拠隠滅のため、同所にて、鋸、包丁、ミキサー等を用いて解体し、その遺体を排水溝に遺棄し、さらに証拠隠滅のため、奥野夢人の許可を得ないまま、浴室を改装するようリフォーム業者『島内創建』に依頼し、これを改装させたものである。

 罪名および罰条は、

 住居侵入、刑法第一三〇条。窃盗、刑法第二三五条と刑法第二四五条。

 殺人、刑法第一九九条。

 死体損壊、刑法第一九〇条。建造物等損壊、刑法第二六〇条。

 以上です」

 朗読を終えて、彼は席に腰を下ろす。

「では、これから審理を始めるわけですが、被告人はよく聞いて下さい。あなたには黙秘権がありますので、この公判を通じて最初から最後までずっと黙っていることもできますし、答えたい質問にだけ答えて、答えたくない質問には答えなくても問題ありません。そして、さきほどもいいましたが、この法廷で発言したことは全て証拠になります。それによって、あなたが有利になることも不利になることもあります。理解できましたか?」

「はい」

 草鹿は今度は素直に短く返事をした。

「今、検察官が読み上げた公訴事実に間違いはありますか?」

「僕はやってません」

「具体的に何をやっていないんですか?」

「全部です。奥野の家にはあいつに誘われて行ったし、金だって自由に使っていいといわれたんです。それに、あいつが不倫相手と過ごすからアリバイを作ってくれといわれて、あいつの家に居ただけです。だから、あいつは今もどこかで生きているはずだし、戻ってくると約束しました」

「奥野さんの家の浴室をリフォームしたんですか?」

「それも、あいつにいわれてその通りにやっただけです。僕は殺してない」

 制服の女性は、今度は草鹿に向かって右手の卓へ顔を向ける。

「弁護人の意見はどうですか?」

 問われた彼女は、ふーっ、と息を吐き出して立ち上がる。

「被告人と同様に、公訴事実はなく、無罪だと考えます」

 真っ直ぐな眼を受け止めた制服の女性はゆっくりとうなずいた。

「分かりました。では、審理を始めますので、被告人は席に戻って下さい」

 聴衆の間に仄かに熱が帯び始めた。

 公訴事実を認めないということは、起訴されればほぼ有罪といわれている刑事事件で、弁護側は逆転無罪を主張しているということだ。劇的な結末もあり得る裁判には、聴衆の期待感も高まるものだ。

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