夜に咲く花が朝を迎えれば。
夕藤さわな
前編
朝に咲く花、昼に咲く花、夜に咲く花。
私は夜に咲く花として育てられた。
約一年の机上訓練の後、半年の実地訓練を経て独り立ちをする。その実地訓練が始まってからというもの先生と共に約一年暮らした部屋から目的の場所近くまで先生の車で送ってもらっていた。
私が根を張るべき場所。摩天楼の足元で
「お前は強い」
車の音。窓の外を流れて行く街の灯り。人々の声。信号の点滅。先生の隣。車の助手席で嗅いで、聞いて、見たもの全て。
「お前は美しい」
好きな色。好きな音。好きな匂い。
「お前は私の一番優秀な教え子だ」
好きな言葉。
そして――。
「大切な存在だ」
好きな人。
大きくて骨張った手に撫でられてぎゅっと目をつむってはにかむ。左手の薬指に光るものは見ない振り。
車を降りたら決して振り返らないように、早足にその場を立ち去り目的の場所に向かうように、と何度も先生に言われた。私と先生が一緒にいるところを見られてはいけない、記憶されてはいけないから、と。
だけど、私はこっそりその言い付けを破っていた。
夜の匂い。車の音。街の灯り。人々の声。信号の点滅。先生の車が走り出す音。耳を澄ましてその音を確認して――。
参、弐、壱。
心の中で唱えて先生を見送るために振り返って――。
「なんて
冷ややかな声と銃口の感触に凍り付く。
***
「~~~っ!」
声にならない悲鳴をあげて飛び起きた。
聞きたくなかった言葉。火薬の匂い。遅れて認識した発砲音と視界を染める赤色。
次に意識を取り戻した時に感じた土の匂い。息苦しさ。浅い呼吸音と心臓音。視界を塞ぐ黒色。
いまだにそんなものを夢に見て毎日のように飛び起きる。爽やかな寝覚めなんてこの十年間、一度として経験したことがない。
『帝国崩壊から十年。帝国時代の軍幹部ら十一名の死刑が執行されて明日で一か月が経とうとしています。現在も逃走中の帝国派の動向に政府や警察は警戒を強めており――……』
消し忘れたまま眠ってしまったのだろう。夕方のニュースの内容にため息をついてテレビの電源を切った。
窓から見える空は夜へと落ちて行く途中の黄昏色。悪夢のせいでぐっしょりと
「
そんなことを呟きながら私は勢いをつけてベッドから起き上がった。
***
「ねえ、おにーさん。隣いい?」
「……〝おにーさん〟ではないけど」
〝隣いい?〟という質問に対しては〝構わない〟と首を縦に振る。
「ありがとー。はじめて見る顔だから話してみたいなって思ってさ」
少女の左耳で揺れるのは純金製のピアス。可愛らしい色で塗られた爪にはラメが散りばめられている。上品な香水を選んでいるけれど少女と呼んで差し支えないだろう目の前の女の子が
雑踏を彷徨って行き着いた路地裏の闇の中、息衝くように明滅するネオン。それがこのナイトクラブの入り口。
十代後半、よくて二十代前半だろう少女はこの空間に実によく馴染んでいた。少女の体に大人に見せるためのアイテムを
そして、私はと言えば――。
「この傷、怖くないの?」
「傷よりもビジネススーツでこんなところにいることの方が気になっちゃうよ」
「……そっか」
この空間に全く馴染んでいないようだ。ケラケラと笑う少女に苦笑いしてみせる。
「せめてネクタイを緩めたらどう?」
そう言いながらもう少女は私のネクタイに指を掛けている。これが少女の〝距離の詰め方〟なのだろう。媚びるような笑みを浮かべて私を上目遣いに見つめている。その笑みをじっと見つめ返していると少女は瞬きを一つ、二つ。
「その傷のこと、そんなに気になる?」
私の視線をどう解釈したのか、そう尋ねた。
右目を手のひらで覆う。顔の四分の一を占める赤紫色に
でも――。
「ここにいる人たちみんな、そんな傷なんて怖がりもしないし気にもしないよ」
耳を澄まし、目を凝らせばあちらこちらで小競り合いや痴話喧嘩が起きている。だけど、気付いた様子も気にした様子もなく踊り続けるシルエットたちを見て、なるほどと右目を覆っていた手を下ろした。
「傷ができた理由によっては怖くて逃げだしちゃうかもしれないけどね。だから、そこんところは内緒にしておきなよ、おにーさん」
ケラケラと明るい声で笑いながら少女は冗談めかして言った。みんながシルエットになるこの場所で自分を語るのも相手に深入りするのもタブーだという忠告だ。
その忠告に気付いた上で――。
「キミの名前は?」
「アイリって呼んで」
「イチカ、ではなく?」
気付かない振りをして尋ねる。途端に少女の目が鋭くなった。
「は?」
「イチカ。ニシノ、イチカさんではなく?」
「……誰、アンタ」
野良猫のように身構える少女に警戒しないでほしいと両手をあげて降参のポーズをしてみせる。
「家賃回収代行業者だよ」
ネクタイを締め直して名刺を差し出す。受け取った少女は〝家賃回収……?〟と口の中で呟いて再び私の顔を見た。睨みつけるような視線から値踏みするような視線に変わっている。ほんの少しだけど警戒が解けたようだ。今すぐに逃げ出そうという気配もない。ほっと息をついてカバンからタブレット端末を取り出した。
「この通り、今日時点で滞納している家賃が半年分」
「アタシを探してこの店まで来たの?」
タブレット画面を見もしないで少女は尋ねた。結構な額を滞納しているという事実を受け止めて慌てるなりバツの悪そうな顔をするなりしてほしいところだけど少女にそんな様子は少しもない。
「大家さんとか不動産屋さんとかから電話や督促状も来てたと思うんだけど」
「あー、電話番号変わってるかも。とくそくじょー? は……どうだったかなー」
「ここ一か月、私もほぼ毎日のように部屋に行ってたんだけど」
「あー、しばらく部屋に帰ってなかったかも」
悪びれた様子もなく言う少女に私は引きつった笑みを浮かべた。
「……えっと。そういうわけなのであちこち聞いてまわってキミが現れそうな店を探して、ようやく今日会えたっていうわけ」
「すごーい。おにーさん、探偵みたいじゃん!」
「……えっと。そういうわけなので家賃を」
「アタシに払えると思う? 無理無理!」
ひらひらと手を振ってあっけらかんと笑う少女に私は引きつった笑顔のまま天井を仰ぎ見た。
目の前の少女の見た目は十代後半、よくて二十代前半。入居した二年前に提出された書類にも当時十九才でサービス業でアルバイトをしていると書いてあった。そのアルバイトも入居直後に辞めたようで現在、働いている様子はない。
予想していた答えではあるけれど、ここまで悪びれることなく言われると反応に困ってしまう。
「借りるときもその後もぜーんぶヒトが払ってくれてたからアタシ、その辺、よく知らなくて」
「……えっと。それじゃあ、その人の連絡先を教えてもらえるかな?」
でも――。
「最近、メッセージ送っても既読にならないんだよねー」
少女はまたもやあっけらかんとした様子で言った。
「あ、もちろん家も職場も知らないから聞かないでよね。……わかるでしょ?」
そう言って少女は左手の薬指を右手の薬指で撫でた。何もつけていない左手の薬指を、真新しい指輪が光る右手の薬指で。
相手には大切なものがあって、少女は決して一番ではなくて、でも、それをわかった上で、自分の立場も
右手の薬指を左手の薬指で撫でながら私は少女の横顔を見つめた。私の視線の意味に気が付いたのだろう。少女は慌てて笑顔を浮かべ直すと照れ隠しに揺れるピアスを撫でた。
「家賃を払ってくれてないってことはクレジットカードも止められちゃってるかな。それはちょい困るかも」
「もう止まってるよ」
「……あれ?」
「困ってなかったの?」
「んー……。ほら、ご飯もホテルも向こうが出してくれるからさ」
〝向こう〟というのは毎晩変わる〝おにーさん〟のことだろう。困り顔で黙る私に少女はやっぱりあっけらかんと笑う。
「あの人が行きそうなところを探してみるからさ。ちょっとだけ待ってくれない?」
「手伝うよ」
「いい、いらない。私を探し回ったときみたいにあちこち聞いてまわる気でしょ? それはダメ。困る。そんなことしたらあの人に迷惑が掛かっちゃうから」
だから絶対に余計なことはしないでと念を押して少女はやってきたとき同様、私の隣からするりと離れていく。
「探しに行かないの?」
音楽に合わせて揺れるシルエットの群れに戻ろうとする少女を慌てて追いかけようとして――。
「もうベッドの中だよ、あの人は! こんな時間に探しても見つからない!」
音楽に掻き消されないようにと大声で答える少女に足を止めた。
家賃の当が付いたら連絡するからと言い残して少女は人の波に消えていく。少女の背中を見送って私は伸ばした手をネクタイに持っていくと緩めて呟いた。
「なるほど」
***
人でごった返すナイトクラブを出た私は電柱の影に隠れようとして隠れ切れていないゴリラみたいな図体の男を見るなり額を押さえた。深々とため息をついた後、大股で年上の同僚である高山の元まで歩み寄るとじろりと睨み上げた。
「目立つから来なくていい。ていうか来るなと何度も言った気がするんだが」
「だから、店の中にはついていかなかっただろ」
「ここに立ってるだけでも十分目立つし、印象に残るし、作戦の邪魔」
「じゃ、邪魔って……目立たないようにお前と同じビジネススーツ姿で来たんだぞ!」
額を押さえて先程よりも深く深くため息をつく。
私がビジネススーツを着たのはむしろ目立つためだ。縄張りに見知らぬ人間が、それも場にそぐわない格好をした人間が現れれば
ちょっとショックだったけど、それはさておき――。
「私と同じスーツを着て似合うわけないだろ、ゴリラ」
「ちゃ、ちゃんとサイズは自分サイズを選んだぞ!」
「そういう問題じゃない。中性的美青年風の私とゴリラ風のゴリラじゃ似合う服が違うって話」
「……ゴリラ風のゴリラ」
ガックリと肩を落とす高山を小突いて大股でその場を離れる。高山も小走りについてきた。
「それで? 大丈夫だったか?」
「もちろん。ちゃんと接触できた」
「じゃなくて。ヨーキャなヤローにナンパされたりとか絡まれたりとか」
大真面目に心配しているのだろう。暑苦しい顔を見上げて鼻で笑う。
「ないよ。彼女にすら〝おにーさん〟扱いされたよ」
「そう、なのか?」
困り顔で尋ねる高山をもう一度、鼻で笑ってひらりと手を振る。その話はおしまい、という意味だ。
「彼女は明日……もう今日か……の、昼頃にでも動き出すだろう。私が張り付く」
家賃の当てがついたら連絡すると少女には言われたけど大人しく待っているつもりはない。
「よし、俺も一緒に行くぞ!」
「いや、いい。来なくていい」
「そんな食い気味に言うなよ!」
「女性客メインのカフェなんかに入るのに高山みたいなゴリラと一緒じゃ目立つ」
そうかぁ、と呟いて項垂れた高山だったが、いやいやいや! と勢い良く首を横に振った。
「お前は彼女に
「バレないよ。そのための男装と
長めの前髪を掻き上げて火傷痕を露わにする。顔の四分の一を占めるこの傷は嫌でも人の目を引く。その分、それ以外の印象が薄くなる、記憶に残らないという利点があるのだ。
「私の特殊メイク張りの腕前は知ってるだろ。この火傷痕だって綺麗さっぱり消して、陽の光の下でも目立たず人の記憶に残らない姿に変身してみせるよ」
やっぱり心配そうな顔をしている高山の肩を拳で小突いて私はニヤリと笑ってみせた。
「イメージは二十代後半、キャリア層の綺麗めなおねーさんってとこかな」
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