第39話 信じること




 誰もいなくなったオフィスに、しばらく呆然と立ち尽くしていた。


 頬にはいつの間にか涙がたくさん流れていて、顔中ぐっしょりと濡れていた。


 どこから整理すればいいんだろう。何から考えればいいんだろう。


 それすら分からないほど、自分の頭がパンクしている。


「透哉さんが、森さんと……?」


 今日、彼がホテルの一室で森さんと会っていたのは間違いなさそうだ。どうしてそんなことになったんだろう。やっぱり、あんな可愛い子に誘われたら、いくら絶食系でも行ってしまうんだろうか。そもそも彼は学生時代は彼女がいたというし、女性に全く興味がないわけでもないだろう。


 そんなわけない、と思いたくても、今までのことがフラッシュバックする。元カレだって、三田さんだって、みんなあの子を好きになっていた。それに元々、透哉さんと私は付き合ってなんかいない。


 だからショックを受けるのもおかしな話だ、私が彼を責める理由なんて何一つないし、透哉さんが誰かと深い関係になってもおかしいことではない。


 でも、でも――彼がそんなことをするなんて、やっぱり信じたくないーー


 その場でただ棒のように立っている自分の背後から、足音が聞こえた。ハッとして振り返ると、そこに見覚えのある顔があった。


 心配そうにこちらを見てくるのは、三田さんだ。


「え、三田さん? なんで……」


「ごめん、忘れ物を取りに来たんだけど、二人の話聞いちゃって」


 申し訳なさそうに言ってくる彼に何も言えない。何かを言う気力もないのだ。しばらく二人で沈黙を流す。


 少しして私にさらに歩み寄り、恐る恐る声を掛けてきた。


「聞いてたよ……俺もびっくりした。まさか森さんが、あんな」


 そう言いかけて、彼は一旦口籠る。私の涙をそっと拭いた。


「俺が何か言える立場じゃない……岩坂をさんざん傷つけて、本当にごめん。でも、柚木のことは許せない。森さんだって、あんな理由で岩坂に嫌がらせしてたとか……いや、それに見事に引っ掛かったのは俺か」


 彼は苦しそうに顔を歪める。私は彼の手から逃れるように顔をそむけた。それでも彼は続ける。


「どうするの。今から柚木のとこ怒鳴りこみに行く?」


「……」


「それをする資格はあるんだよ」


 本当は、ない。私と透哉さんの間に恋愛関係はないのだから。彼が誰に惹かれたとしても、私に責める権利などあるはずがないのだ。


「岩坂。俺本当に反省してるし、本当に岩坂が好きなんだ。もう一度、チャンスをもらえないかな」


「……え?」


「会社辞めるなら止めないよ、ごたごたがあって傷ついてるのは岩坂だから。もう森さんと一緒に働きたくないだろうし……再就職先探すなら手伝うし、その間収入で困るなら支える。付き合って、なんておこがましいこと言わない。ただ、岩坂の力にならせてほしい」


 彼の瞳は真剣そのものだった。私はただその光景を見上げている。


「ここにいるのは辛いだろう。岩坂は優しいから、周りへの負担とか考えてるだろうけど、心配しないで。俺がちゃんと全部フォローする。全部捨てて一からやり直したいっていう思いを、俺は応援できるよ。俺は本当に最低な人間だったから……でもこれからは迷わない、絶対に岩坂を裏切らない。そばで支えたい。だから、お願いだ。俺にもう少し寄りかかって」


「……いえ、私は」


「岩坂はもう俺に興味ないって分かってるから。それでもいいから」


 そう言って彼は、私の右手をそっと取った。熱い体温が伝わってくる。


「岩坂、頼むから……」




 懇願するように言ってくる彼の顔を見上げ、その体温を感じていると、ふと自分の頭が冷静になった。


 私、本当はこうしてほしかった。ずっと三田さんのことが好きだったから、いつか付き合えたら、って心で思ってた。


 でもそれは過去の話で、私が今そばにいてほしいのはこの人じゃない。体温を感じたいのはこの人じゃない。


 今三田さんの体温を感じても、私の心は何も踊らない。この前、透哉さんの家で少し近づいただけで、手が触れただけで死にそうなくらい胸が苦しかった。


 三田さんへの失恋で落ち込む私に居場所を作ってくれて、励まして、悲しむ暇もないくらいそばにいてくれたのはあの人だった。


 私が見てきたあの人は、私をこんな形で傷つけたりなんかしない。




 手をゆっくり払った。涙をグイっと自分で拭き上げ、私は低い声を出す。


「すみません、混乱していました。でももう落ち着きました。あんなの何かの間違いです」


「え? さっきの話? でも写真だって」


「確かにホテルにはいたけど、話してる様子だったし」


「森さんが嘘ついてるっていうのか?」


「……どっちかが嘘をついてるっていうなら、私は透哉さんを信じたいです」


 言葉に出せば出すほど、自分の乱れていた心がまっすぐしてくる。だが、三田さんは納得してないようで、顔を歪めた。


「さらに傷つくだけかもしれないじゃん。信じて裏切られるなんて辛いだろ。ホテルで二人きりでいたなら、もう真っ黒だろ」


「片方の話だけ聞いても分かりません」


「俺が言うなよって感じだろうけど、あの子が言ってることは合ってる。男は好きでもない子でも手を出せるし、あれだけかわいい子に誘われたら揺らぐのはオスとしてしょうがない。そういう風に出来てるんだよ男は」


 必死に言ってくる彼を、私はただじっと見つめた。私の揺るがない様子に、三田さんもついに黙る。


 そうかもしれない、そういう男の人は多いのかもしれない。だって、三田さんがそうだった。


 森さんは私より可愛くて愛嬌もあってスタイルもよくて、あんな子に言い寄られたら気持ちが揺らぐのは、女の私だって安易に想像がつく。


 でも、もし透哉さんと森さんがそういう関係になったら、いくら嘘の恋人関係といえども、私がショックを受けるのは分かり切ったことだし、また職場で憐れまれ、居場所がなくなることを、彼は分かってるはずだ。


 透哉さんは私を傷つけたりしない。そう信じたいのだ。


「三田さんはそうだったかもしれませんが、透哉さんは違うと思ってます。あなたのことが好きだった期間はそれなりに長かったけど、私は見抜けなかった。見る目がないと言われればそれまでです。でも今回は本当に違う。透哉さんは違うって確信してるんです」


「……なんでそこまで」


「三田さん、よく覚えておいてください。人は成長出来る。私は透哉さんと会って、ほんのちょっとだけど成長できたんです。まだまだ自分はダメなところがたくさんあるけど、でも一歩ずつ進めてる気がする。自分を正当化するために必死になるより、自分を変えた方が絶対にいいですよ」


「……え」


「自分に胸を張っていられるようになりたい」


 きっぱりと言い切ると、彼はハッとした顔になった。私は置いておいたカバンを急いで手に持つ。三田さんが引き留めるように慌てて私の肩を掴んだが、それをすり抜けて走り出した。


「岩坂!」


 声には振り返らなかった。

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