閑話 この世のすべてを手に入れるかもしれない男
西園寺と飲み明かしたその足で共に大学に上り二限の講義を受けた後、僕は文芸サークルの部室に昼食を食べに赴いた。ただでさえ大学がちょっとした丘陵の上に建っているため坂道が辛いのに、二日酔いで身体がぼろぼろなので歩くのも億劫だ。
普段は学食で昼食を取ることが多いのだが、特定の個人とふたりだけでいることを避けるため、せめて不特定多数の中に紛れて会話を分散させようと図った次第である。
別に西園寺個人を嫌っているわけではない。やばい女であることは疑いないが、昨日今日の会話でそれなりに話せるやつだということはわかっている。ただ、長い間サシで会話をしたことに僕が疲れを感じただけが理由だった。
……まあ、当の西園寺は用事があるとか言ってどこかへ去ってしまったのだけれど。西園寺対策のための提案だったのに、肩透かしもいいところだ。
部室へ行く理由はなくなってしまったが、西園寺にそのことを伝えてしまった手前、別の場所でかち合うと気まずすぎるので仕方なくコンビニで買った昼食を片手に部室の扉を開いた。
部室の中央には長机がふたつ並べて設置されていてひとつの大きなテーブルのようになっており、そのテーブルを囲む形で四方に長椅子が設置されている。
昼休み中であるためか部室にはそれなりの人数がいて机の上に昼食を広げていた。
「よう、お前が部室に寄るなんて珍しいな。昨日の飲み会後はお楽しみだったみたいじゃないか」
扉の正面奥に座っていた新垣先輩は、入ってきた僕に真っ先に気がついて面白い玩具が入ってきたと言わんばかりの表情で声をかけてきた。
……別にお楽しみした覚えは一切ないので、耳をそば立てている皆さんも気にする必要はない。
先輩に返事をしつつ、周囲で僕に注目していたサークル部員の方々を見回すと、皆わざとらしく明後日の方向に目を逸らした。
僕は内心舌を打ちながら、それを顔に出さないように意識しつつ手前の長椅子に腰掛けた。
「そうか? 俺はさっきまで寝てたから目撃してないが、ふたりで仲良く大学に上ってきて、一緒に講義受けたって聞いたぞ? お前がみんなを出し抜いて西園寺をモノにしたって大騒ぎだ」
にやにやと笑い、からかうような新垣先輩の言葉に僕は今度は表情を隠すことはできず、顔をしかめた。
二日酔いで頭が働いていなかったとはいえ、周囲の目など気にもせず西園寺と肩を並べて登校してきたのは迂闊だった。文芸サークルなんかに入るやつなんて、たいていは僕や西園寺のように文学部に在籍しているような人々だ。行動範囲も僕たちと似たり寄ったりだろうから目撃者もそれなりにいたことだろう。
しかし、だからといってこの短時間で新垣先輩の耳に入り、大騒ぎなんて言われるほど広まるとは思ってもいなかった。
それだけ西園寺が注目されやすいということなのだろう。酒クズのくせにやっかいな女である。
「いやあ、俺は嬉しいよ。サークルにもなかなか馴染めてなかったお前が、一晩で
そんなもの、欲しけりゃくれてやりますのであまりからかわないでもらいたい。こっちは変な女に絡まれたせいで酷い目にあったのだ。
飲兵衛につられて飲みすぎたせいで二日酔いで、昼になっても胃腸が回復しないからお昼ご飯は野菜スープである。
「おいおいおいおいおい。そいつは聞き捨てならないぜえ?」
僕がぼやきながら買い物袋からスープを取り出していると、部屋の隅から声が上がった。見ると、昨日の飲み会の主役であり西園寺に潰された被害者のひとりである佐川君だった。
彼はいつ見ても黒シャツ黒ズボンという出で立ちなのだが、今日はそれがよれよれであるし、髪の毛もぼさぼさだ。やはり新垣先輩宅での飲み会で西園寺に潰されたせいで家に帰れなかったらしい。
佐川君は腕を組み、瞑目したまま静かに語り始める。
「昨日は俺を慰める会って趣旨だったわけじゃん? 寝取られは辛かったけど、みんなに慰めてもらって有り難かったし、阿呆ほど飲んで過去は忘れて明日を生きようと思ってたのよ」
そこまで言い終えると、カッと目を見開き僕に鋭いまなざしをくれながら叫んだ。
「けどさあ! 主役を差し置いてその場で唯一の癒やしをお持ち帰りした上、彼シャツ着せて同伴登校なんて、そんな暴挙あるかよ! 許せねえよなあ!」
佐川君の主張に、部室にいた部員たちからそうだそうだ! とか、紳士協定違反だ! とか賛同の声が聞こえてくる。彼らも飲み会の参加者であると思うのだが、未だに顔と名前を一致させることのできる人数が少ない僕には確証がなかった。というか何故かその場にはいなかったはずの女子部員も便乗で声を上げてる人がいるし。
確かに昨日のことを客観的に見た場合、寝取られという悲劇に直面した佐川君のために企画された飲み会の最中、新垣先輩がわざわざお礼まで出して呼んできた綺麗どころである西園寺をかっさらっていったと取れなくもない状況である。
しかし、現実はひとりで途中退席しようとした僕に西園寺が勝手についてきて、勝手に僕の部屋まで押しかけてきた挙げ句勝手に泊まっていって、やつのわがままで僕の服を着ているだけなのである。
つまり、一から十まで西園寺が悪い。
僕はそのことを努めて穏やかな表情を作りつつ、かつ穏便に済むよう言葉を選びながら説明したのだが……。
「うるせえ! そんな言い訳を聞いてるんじゃないんだよ俺はよお! 俺が聞きたいのはさあ……」
佐川君は僕の説得の言葉など端から聞いてないと言わんばかりに声を荒らげたが、急にそれまでの大音量をひそめて内緒話をするようにささやいた。
「……西園寺さんとはどこまでいった?」
「佐川、あんた最低だわ」
もっとも、部室の反対側にいる僕に聞こえる声量だったので全員に丸聞こえだったが。
女子部員の内心を代弁するような才藤さんの冷たい声が佐川君を斬り捨てる。佐川君はただでさえ切れ長の目をしている才藤さんに半眼で見据えられ一瞬ひるんだものの、己を鼓舞するかのように再び声を大にして主張する。
「だってさあ、本人の前で言うのもなんだけど、うちのサークルでもレアキャラで接点がなさそうだったふたりが飲み会一緒しただけで朝帰りですよ? 飲んでるときも話してる様子はまったくなかったのに! 新垣先輩の家から駅までの短時間しゃべっただけでお持ち帰る技術を実体験付きで是非ご教授お願いします!」
途中から願望とか欲望とかがだだ漏れていて、女性陣から佐川君への好感度はそれなりに下がったようであったが、やはり誰もが男女のあれこれには興味津々であるらしい。佐川君に白い目を向けていた才藤さんも彼の言葉自体には異論がないようだ。
「佐川の言い分はともかく、身持ちの堅い西園寺さんとお近づきになれた理由には興味あるな。女同士でも打ち解けられないのにどうやって仲良くなったの?」
本人にその気はまったくないのだろうが、ただでさえ鋭い目を細めて微笑んでいる才藤さんの視線は睨みつけられているような気がしてきてちょっと怖い。僕は内心びくつきながらも表面では愛想笑いを貼り付ける。
どうやって、と言われても正直何もしていない。先ほども説明したが、向こうが勝手に距離を詰めてきただけで、何がよかったとかなんて……。ああ、そういえば新垣先輩には助けられてるし、あの人は大丈夫みたいなこと言ってたな。
「マジで⁉」
「お、なんだなんだ。俺もワンチャンいけるってことか? いやあ、悪いなお前ら」
部室内がざわつく中、新垣先輩がにやけながら周囲を煽っているのを横目に、僕は西園寺の言葉をできる限り思い出そうとする。
……確か、新垣先輩は女に興味がないみたいだから大丈夫とかそんな感じ?
「おい」
「新垣先輩、もしかしてそういう……⁉」
「確かに普段新垣先輩からはあんまりいやらしい目で見られてる感じしないかも」
直前とは違う雰囲気で部室内がざわつく。隣に座っていた男性部員が離れるようにちょっと横にずれていくのを苦々しく見ながら、新垣先輩は一部女性陣の妄言を否定する。
「俺はちゃんと女が好きだっての! ただ西園寺は俺の守備範囲外だからな。そういう目で見てなかったからあいつがそう感じただけだろ?」
ああ、そうだそうだ。正確には女としてのボクに興味はなさそう、だったな。先輩には申し訳ないことをしたが、このままの方が面白いから黙っておこう。
「西園寺さんが守備範囲外ってすごいっすね新垣先輩。あのレベルなら趣味じゃなくてもいける気がしますけど。それなら先輩はどんな人が好みなんです?」
「俺の趣味なんてどうでもいいだろ? そんなことよりも西園寺攻略の秘訣の方が面白いし貴重だろうが」
佐川君が興味津々といった風で新垣先輩に尋ねるが、先輩はひらひらと手を振って話を強引に戻した。佐川君も嫌がる先輩に無理強いすることなく素直に話を戻す。
「まあ、先輩の趣味については今度酒の席ででも聞けばいいか。しっかし、西園寺さん攻略法かあ。そもそも飲み会と部会の時しか顔出してこないし、飲み会も昨日以外だと新歓の時しか来ないから交流の場がないんだよなあ。女子は誰か仲良くしてないの?」
佐川君の言葉に女子たちはお互い顔を見合わせる。
「ううん、私も部会の時ぐらいしか顔合わせないなあ」
「一回カラオケ誘ったことあるんだけど用事があるとかいって断られたわ」
「ちょっとただ者じゃなさそうな感じがあって話してみたくはあるんだけどね。本人がつれないからなあ」
どうやら西園寺、僕と同じぐらいにはサークルへの参加率が悪いらしい。あれだけなれなれしく、押しの強いというか、距離感がバグってる女であるならば容易くサークルの中に溶け込めそうなものなのだが……。
よし、せっかく皆が西園寺のことを知りたがっているのだ。サークルの仲を深めるためにも一肌脱ぐとしようじゃないか。
さしあたって、昨日酒に酔ったときの西園寺の言動を開示することにする。おおよそ酒に対する深すぎる愛と下品な下ネタに終始していたので評判と乖離したクズっぷりにきっと誰もが親しみを覚えることだろう。
別に昨夜飲み潰されてちょっと悔しいとかそういうことはけっしてない。これはあくまで善意なのである。
ちょっと暗い快感を覚えつつ僕が口を開こうとしたとき、背後の扉が開かれた。
「こんにちは。……ああ、やっぱりまだいたか」
声に振り向くと、そこにいたのは渦中の西園寺だった。彼女が誰を指して「いる」と言ったかは視線を追えば理解できる。というか、追うまでもなく僕と目が合っているのだが。
「さっき三限の講義も同じだって話していただろう? せっかくだから一緒に行こうかと思って」
「それなら俺が一緒にもがもががが」
視界の端ではなにやら佐川君が隣の部員に口を押さえられているし、他の部員の人たちが皆興味深そうにこちらを見ている。正直、この状況で西園寺と連れだって部室を出て行けばさらなる余計な噂が広がるのが目に見えていた。
まったく、一度別れたのだからわざわざ部室を訪ねてまで人を引っ張っていかなくてもよいだろうに。それに、次の講義は大人数が参加しているのだ。あえて僕を誘わなくとも部室の中で探せば同じ講義を受講している人間なぞいくらでもいるだろう。誰もが西園寺に興味津々であるのだから誘えばたいていは一緒に行ってくれるはずだ。
そういう訳で、西園寺のお誘いは丁重にお断りする。僕にしては珍しくおしゃべりがすぎて冷め切った野菜スープを飲み切らないといけないし。
「おやそうかい。それじゃあ仕方ないな。では、先に向かって君を待つことにするよ」
そうするのはかまわないが、三限は大講義室で実施される参加人数の多い講義なので、先に向かった西園寺は見つけられない予定なのだ。誰かと一緒にいたいなら僕のことは諦めて他の同行者を見繕った方がいいだろう。
僕が動く様子がないのを見て、西園寺はやれやれと言いたげに肩をすくめるとそのまま部室の外に出て行くようだ。他の誰かに声をかければいいだろうに、そんなそぶりも見せない。
「ああ、そういえば言い忘れていたんだけれど」
扉を閉める直前、西園寺が扉の隙間からひょいと顔を出し、いかにも今思い出したという体で話しかけてくる。あまりにわざとらしい様子に警戒するが、そんなものはやつの放った言葉の前では意味をなさなかった。
「君の部屋に置いてきた下着は次に飲みに行ったときにでも回収するから、それまでは今朝話したように好きに使ってくれ。返してくれるときにちゃんと洗ってあればいいから」
じゃあ待ってるよ、と一言残して扉が閉まった。
なんとも言えない沈黙と共に、室内の視線が僕に集中するのを感じる。ここで焦って対応を間違えるわけにはいかない。冷静かつ大胆に行動を起こすべき場面だった。
僕は、ちびちび消化していた野菜スープを一息に飲み干すと、空いた容器をレジ袋に突っ込む。そして傍らの荷物をひっつかむと、じゃあお先に、と部員たちに声をかけて部室を飛び出した。
乱暴に扉を閉めると同時に、その向こう側から怒号とも歓声とも悲鳴ともつかない叫び声が聞こえてくる。
……しばらく部室に寄りつくことは難しそうだ。まあ、そうなっても別段困らないのだけれど。
とにかく部室から離れ、講義に赴くべく足早に歩を進めて部室棟を脱出すると、西園寺が待ち構えていた。
「やあ。思ったより出てくるのが早かったじゃないか」
こうなるとわかってあんなことを言ったくせにふてぶてしいやつである。僕が無言で抗議の視線を送ると、西園寺はさも愉快そうに笑みを浮かべる。
「そんな顔をしてくれるなよ。むしろ感謝してほしいぐらいだね。あのままぎりぎりまで部室に残っていたら君が誘われる側になっていたかもしれないよ。そうなったとき、サークルの皆と仲良く講義を受けることに君は耐えられたかな?」
当たり前だ、と言い切ってみせるべきところで僕は言い返すことができなかった。
サークルの部員たちからお誘いを受けようものなら、断り切れずに三限を皆で受けて、流れで四限や放課後以降も一緒にいるハメになる未来が目に浮かぶようだ。
そうなればその間中気をつかい続けた僕の精神は、おろし金でごりごりと削られる大根みたいにすり減らされてぼろぼろになっていただろう。
感謝するのは業腹なので、先ほどの仕打ちに対する追及を止めることで手打ちとすることにした。
沈黙した僕を見て機嫌良くうなずいた西園寺が歩きだしながら話しかけてくる。
「おわかりいただけたようだね。それじゃあ彼らが向かってこないうちにさっさと講義に向かおうじゃないか」
講義には向かうが、西園寺と一緒に受けるつもりはない。今から別行動だ。追及は止めたが、先ほどの仕打ちを忘れたわけではないのである。
「まあまあまあまあ」
早足で西園寺を追い抜き講義に向かうが、結局まとわりついてくる西園寺を引き剥がすことができずに並んで講義を受けるハメになったのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます