悪魔のロジック神のセオリー

桂木希

序章

 それは霧のように世界を覆い隠していた。雨のようにも降り注いで、見えているものの輪郭を曖昧にしていた。喉に絡んで咳を出させ、手の甲を打って、麻痺したからだに痛みを呼び戻した。

 コンクリートの砕片と粉塵が、これほど長く空間に留まるものとは知らなかった。

 ゆっくりと周囲を見る。もとはこの巨大な建物の中央アーケードと呼ばれていた場所だ。当初にあった天蓋が失われて日光が空から落ちていて、粉塵の層を照らしている。散乱光のなか、ブラウン現象を示して舞い踊る埃のせいで少し先も見渡せず、視界が狭い。

 あれだけ離れていたのに、耳は聾されていまだに音が分からない。自らの呼吸音だけが脊椎と口腔の間のあたりでくぐもって響いて、その他のすべてが遠くて届かない。

 学校の体育倉庫のような、石灰の匂いが鼻に絡まっていた。

 折り重なった瓦礫が山をなしている。右手の高い壁面の上から、ガラス窓がフレームごと落ちてくるのが見える。ガラス片が光を撒き散らしながら地面で弾け飛ぶ。ほとんど聞こえないが、けたたましい音が響いたのだろう。

 その下にある二メートルほどある丸い金属のリングは、もとはこのアーケードの中央で耀いていた巨大なオルゴール装置のフレームだ。毎正時に鳴り出す音楽と、踊り出す人形。おそらくほんの十数分前にはこの周囲で、多くの子供たちがそれを見上げていたはずだ。

 動くものがある。ゆっくりと歩いて行く。

 ああ、やはり子供だ。

 白くコンクリート埃を全身にまとい、粉砂糖をまぶした菓子のようになっていて、せり出したコンクリートの瓦礫のあいだに横たわって、体を揺らしている。左半身が腰の辺りから瓦礫に覆われていて、動けないと見える。左腕も体に隠れて見えないが動かせないようだ。口を開けているし、肩に力も入っているので、おそらく泣いているのだ。

 子供の年齢はよく分からない。小学校低学年かそれより下ぐらいか。泣き顔が醜くて判然としないがフリル袖の服から少女らしいと見た。

 周囲を見渡した。金属棒がある。コンクリート鉄筋が露出して外れたものだろう。

 ―――これで殺すか。

 生理的な嫌悪感が背中を這い回る。だが、最初の男を殺した時ほどではない。大丈夫だ。徐々にこれを克服しつつある。超越しつつある。殺すたび、捨てるべきものが形をなしているはずだ。

 錆と、コンクリート片にまみれた鉄棒を握った。コンクリートのなかで強度を保つよう、鉄筋には表面に格子状の突起がついていて、激しくざらついた触感がする。

 ついさっき、別な者にも同じように木の棒を試したばかりだが、とがっていないものは、服や肉体を貫くのにかなりの困難を要することが分かった。かなり苦しませたのち、結局断念したのだ。

 だが、この鉄棒で、そして子供の肉体ならばどうか。刺さらないまでも胸骨を破砕し、一部までは突き通せるのではないか。

 嫌悪感は止まない。吐き気のようなものも感じる。私たちの中の神のメカニズムが枷のように拘束している。この手で他人の人体を傷つけようとするたびに現れるそれは、この身の中の自己防衛本能、そして種の保存本能だ。あたかも自らの肉体を傷つけるときと同じ幻惑を湧き出させているのだ。苦痛を与えることは、自身に与えられる苦痛と同じような恐怖と、嫌悪を伴う。殺すという行為に近づくたび、得体の知れぬ不安が胸の中に充満する。

 次第に越えている。そうだ越えていける。

 医師が、何度もの行為の積み重ねで人体の切傷の嫌悪感を失わせるように、歴戦の兵士がなんらの躊躇なく弾丸を他人の顔に撃ち込めるように、だ。

 子供をこの手で、これまでよりもっと残虐なかたちで殺してゆけばもっと、そうしたものを麻痺させることができる。何人かを殺して、確かにそうなりつつある。

 そうならなければ。

 鉄棒を持ち上げようとしたが、引っ掛かった。片側がコンクリートの塊をともなっていて、それは構造用の針金を一緒にくわえこんでいた。強く引いたが外れない。素手では切るのは無理だ。

 断念してもう一度足元を見渡し、適度な大きさの瓦礫を見つけて持ち上げた。

 これで。先ほどもひとりはそうしたのだ。

 抱え持ったままゆっくりと少女に近づいた。

 見上げている。あえいでいる。

 苦痛に耐えているのか、放心しているのか、歪めていた顔は変わって、ただ目を見開いて表情がない。私がなにをするつもりなのか想像がおよんでいない。

 頭の上に立って、抱えた瓦礫を持ち上げる。無音のままで、瓦礫に隠れて少女の顔は見えなかった。

 再びガラスの反射する閃光が、狭い視界の隅で輝いて消えた。

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