夢と知れ

「ねえ、見て」


 ジェリコは呟く。


「見て、ください……私──こんなに──」


 長く待った。待って、探して、いつか隣に、なんてそんな途方もない夢を描いた。


「──こんなにっ!! せ、成長しましたっ!!」


 左手から展開された三匹のクラゲは一度のレシーブで別々の方向へ飛ばされる。恐らくそれは意図したものではない。ただ単純にジェリコの打ち出しが下手だというだけ。しかし、打ち出されたクラゲが更に壁、天井、床にバウンドし、迫る軌道は予測不可。未だ残存するクラゲを加味しても──避け切れない。


 腕がクラゲを掠める。途端にアプリコットの全身は痺れに覆われた。

 一瞬、ジェリコは逡巡する。これまで、傍らにはアンキがいた。クラゲによって相手の行動を阻害し、狭め、そうしてなにもできなくなったところでトドメを刺すのはアンキの役割だった。今、傍らにアンキはいない。


 途方もない夢を描いた。再会して、彼はそんな自分を受け入れてくれて、その隣で、ずっと──


「《心きみずなかあてどなくパラライジング・シー・ル》っ!!」


 ジェリコは右手をぎゅっと自身の胸の前で握ると、左手を勢いよく振りかぶり、そのままシールの束を目の前にばらまいた。


「わたっ──私が、やるんだ! 私がっっ!」


 舞い落ちるシールからクラゲが次々に顔を出す。

 アプリコットは痺れが取れるや否や踏み出そうとするが、そんなクラゲたちが立ち塞がる。


 投擲。釘はクラゲを抵抗なく貫通した。投擲の勢いでクラゲは数秒押され──そして、萎れるように消える。


「消せる、なら──」


 やりようは、ある。 

 ふと、ジェリコと視線が交わった。彼女は、じっとアプリコットを見つめた。敵意も害意もなく、そこには輝くだけがあった。一切のネガを排したポジティブな光だけが、そこに。


「あああああ!!」


 息を吸い、ジェリコは叫んだ。それは覚悟を示す彼女なりのやり方であり、戸惑いを消すための苦し紛れの行動でもあった。

 叫び、そして彼女は腕を動かす。ぶんぶんと、まるで子供が大人にじゃれつくように。ただ周囲の空気をかき回す。


「これ、は──」


 ジェリコがかき回した空気に、クラゲが乗る。荒波を乗りこなすサーファーとなって、動く、動く、動く。

 一歩も動けない。少しでも動けば、気流に乗るクラゲに触れてしまう。


「ボロ布を身に着けた私に、恐るおそる触れてくれた……食事を同じテーブルで取ってくれた……一人でいたいときは、一人でいさせてくれた……」


 一つ一つ、ジェリコは噛みしめる。

 口にしてみれば、今でも思い出せる。人生でもっとも幸せだった日々。


「あなたが……私を憶えていなくても。あなたが……何度リネン・ユーフラテスを選んでも」


 ジェリコの服の袖から更にシールが宙へ舞う。クラゲが増え、更に照明の光を反射し、おぼろげな電飾となる。


「……私は、あなたを忘れない。何度やり直したって、あなたを選び続ける。だから、ここでジッとしてもらいます!! アプリコット・ファニングス!!!」


 クラゲを避け切ることはもうできない。この大群の只中で一度でも痺れを喰らえば、あとは連鎖的にクラゲに触れることになるだろう。

 アプリコットは──



「──『放出』」


 漆黒の茨が蛇の如く鎌首をもたげ、一斉に殺到する。だが、アンキはそれを飛んでは跳ね、足で捌き、避け切って見せた。


「……なるほど」


 着地したアンキは切り傷を負った右手をぷらぷらと振って見せた。


「『放出』も扱いは体の一部。触れれば“守護神”を奪われる。その対策としての茨ですか」


 リネンはそれには答えない。敵意を隠そうともせず、ただ茨の量を増すことで返答の代わりにした。


「考え直しませんか? アプリコット・ファニングスさえ置いて行けば私たちはここで──」

「……うるさい」


 射出された茨は車両の壁を容易く貫通するが、アンキを捕えるには至らない。

 閉所なのにもかかわらず、彼はその身体能力を存分に生かす術を熟知していた。


「五年です」


 アンキは手のひらを広げ、指の本数を示して見せる。


「彼女は五年、彼のことを想い続けた。あなたはどうです? 出会ってまだ一か月も経たないわけで。ノウマさんにチャンスがあったっていいでしょう?」

「アプリコットの返事は聞いた、でしょ?」

「ははぁ~ん……仰っていることは分かります、ですがねぇ……」


 わざとらしい仕草で首を振り、アンキはにっこりと微笑んだ。


「少し状況は異なりますが、ストックホルム症候群のような例もありますし」

「すと……?」

「ほら、あれですよ。誘拐犯のことを誘拐された側が好きになっちゃう、みたいな」

「……は?」


 メトロノームを思わせる動きで指を振り、最後にその指をリネンに突きつけたアンキはその恰好のまま指をくるくると回した。


「つまり……一時の過ち、感情の高ぶりに引っ張られた思い込み、あなた方の関係性は、そのようなものじゃないかと──」

「──『放出』ぶち殺す


 茨が暴れ狂う。だが、それらは決してアンキに致命的な一撃を与えない。掠りはする。だが、そこまででしかない。


「おやおや……」


 ぱんぱんと服の裾を払い、アンキは両手を広げた。


「危なかった……実に危険でした。……今ので捕まっていたところでしたよ!」


 リネンは眉を顰め、軽く舌打ちをかました。

 奴の法則は触れた者の運を──というか、その運の大本を奪っている……らしい。それと持ち前の身体能力を合わせることで、無理やりに本来なら回避不可能な攻撃を回避しているのだろう。


「なら……運があってもどうしようもなくする」


 茨がうねり、鞭のように勢いよくしなった。その軌道の間に人一人が通過できる隙間もありはしない。回避はできない。四肢で捌こうにも、茨は巻き付き拘束する。逃げ道など──


「──どうやらあなたは、運というものの存在を軽視しているらしい」



 呆れたように首を振ったアンキはその場で立ったまま、回避も反撃もしようとはしなかった。ただ、いつのまにやら持っていたナイフのような器具を軽く目の前に構え──


 茨が、切れた。アンキがナイフを振ったのではない。、すべての茨の軌道上にナイフがあり、にもナイフの切れ味が存分に発揮される角度で、脆い部位に衝突したのだ。それは正に運のなせる技。常人が試みても生涯を終える間に成功などしないであろう偶然の極地だ。


「すべての根底には、運がある。努力とは、作戦とは、運を少しでも引き寄せるための願掛けに過ぎない」


 それが、それを証明するのが、


「《抜神デンティスト》、私の法則に不可能はない。同時に──あなたに可能なことも、もはや存在しない」



 クラゲ渦巻く暴風雨の中、アプリコットはそっと口を開いた。


「……ミートソース」


 それは、意味の分からない単語。なんの関連も、脈絡もない。ジェリコは一瞬呆気にとられ、その意図を尋ねようと──


「あなたのおかげでしたね。ミートソースの味にそこそこの自信があるのは」


 途端、巡る。

 思い出という皿を舐めまわした。もう味すら残っていないその底に、味が湧き出す。

 思い出した。当時の彼お手製のミートソースを食べ終えたときに言ったんだ。


「「“最高の味でした”」」


 二人の台詞は同時に重なり、そしてジェリコは目を見開いた。


「……思い出しましたよ、当時とはあまりに姿が違うので……いや、これは言い訳か」


 アプリコットはゆっくりと顔を上げ、


「随分と可憐になりましたね。見違えるように」

「思いっ出して──!?」

「──ですが」


 アプリコットは優しく笑った。それは大事な後輩にかける笑み、そして──


「あなたを倒し、先に行きます」


 ──意思を確かに伝えるための笑み。


「ど、どうしっ──」

「俺は、リネン・ユーフラテスを選んだ。これが、これだけが事実です」


 アプリコットは返事に困ってしまう。

 どうしてって、本当にそれだけなのだ。最初は成り行きだった。引っ張られるままに共に行き、共に闘った。けれど今はただ彼女に無事でいて欲しい。彼女に幸福という二文字を教え、願わくば自分もそれを知りたい。


「ですから、止めたいのなら止めてください。あなたの手で」


 ジェリコの両目からは涙が流れていた。どうしようもない。思い出してもらえたのに、それでもなお、彼はリネン・ユーフラテスを選んだ。いよいよもって、どうしようもない。


 “まあ、そうですね”とアプリコット付け足し、人差し指を立てて自分の口に軽く当てた。


「勝敗はどうあれ、いつかお茶でもしましょう」


 その恥ずかしそうな笑みが当時の彼と重なって見えた瞬間、ジェリコは涙をぬぐっていた。素涙は未だに流れ続けているし、鼻水だって垂れてきている。それでも、恰好くらいはつけたかった。


「──む、胸、お借りします!!!」

「五年遅れの卒業試験──全力でどうぞ。まだまだ新参に後れを取るつもりはありませんから」


 クラゲの動きが更に早まる。もはや数秒の猶予すらない。アプリコットの手の中には釘。構え、放す。しかし、クラゲとの衝突に焦ったか、それとも運が既に操作されているからか。その踏み込みは甘く、釘は見当違いの方向へ飛んでいく。そして、クラゲが──


「──ッ」


 痺れ。倒れこむ間もなく、更にクラゲが衝突してくる。一匹、二、三。そして一匹目が再び気流に乗り、四匹目がぶつかり、五匹目、もう一度一匹目がぶつかり──


「もう、抜け出せません!!」


 ジェリコは叫んだ。声の限り叫んだ。


「私は──ここであなたをッ──」


 アプリコットは、笑っていた。先ほどの慈愛に満ちた笑みではない。不敵で、負けを感じさせない──


「──!」


 ジェリコは瞬時に首を回した。

 先ほど彼が投げ損じた釘、あれは、どこに。


「……あなたの、クラゲは……気流に乗るほどに軽い」


 痺れながらも口を動かすアプリコット。

 釘は、窓に刺さっていた。その法則によって抵抗なくガラスを貫通している。


「……なら、より大きな、空気の動きを……」


「まさか──」


 改めて。アプリコット・ファニングスの法則は、物体に物体を抵抗なく貫通させることができる。その際、貫通される側は貫通する側の通り道を開けるため、隙間を無理やり作り出す。法則を解除するということはその隙間を無理やりに元に戻すということであり、それすなわち隙間に綺麗にハマった釘と、その隙間を埋めようとする物体の動きが重なり、矛盾し──


 ──破壊が、起こる。


 ガラスが割れた。途端、強い風が車内へ吹き込む。クラゲはそんな風にさらされ、あおられ、徐々に移動していく。それは寄せては返す波に似ていた。しかし、その波は寄せては寄せるだけ、瞬く間にクラゲの大群はそのままそっくり壁際へと押しやられる。一匹残らず、すべてが。


 強風に吹かれ、ジェリコの長い髪が持ち上がった。青から空へ、空から青へ。複雑なグラデーションを描くその色がふわりと浮き、そして落ちる。


 アプリコットを取り巻くクラゲは消えた。自由に泳ぐクラゲももういない。これから生成したとしても、瞬く間に風に乗って他の個体同様に壁際へと追い詰められるだろう。


「アプリコット……さん」


 痺れが取れたことを確認し、アプリコットは立ち上がった。ジェリコは落ち着いている様子で、ゆっくりと、なにかを噛みしめるように言葉を発する。


「私、あなたが好きです。憧れで、恋情で、尊敬で、」


 ジェリコは踏み出すと、両手を広げた。あくまで無防備に、あくまで無抵抗で、


「妬ましくて、羨ましくて──誰よりも、もう一度会いたかった」


 フッ、と。その身体が傾いた。着地を想定しない落下。アプリコットはそれをそっと受け止めようとして──


「──すべての情動を、あなたに」


 落下する彼女の身体が内側から膨れ上がった。いや、これは。


「《心きみずなかあてどなくパラライジング・シー・ル》」


 “これが、最後です”


 洋服の内側に貼られたシールから生まれたクラゲは、割れた窓から吹き込む風に飛ばされたりはしない。そして服越しとはいえ、受け止めたアプリコットを痺れは確実に蝕むだろう。

 クラゲの反発クッション。それが、ジェリコの最後の策。アプリコットならば自分を受け止めてくれるだろうという推測の元に築かれた最後の攻撃。


 傾き、床へと向かうジェリコの身体をアプリコットは受け止めた。すぐに痺れは全身を包み、二人はまとめて共に床へ倒れるだろう。

 ああ、とジェリコは息を漏らす。二人で一緒に床へ倒れる。なぜだかそれだけで救われた気がした。リネン・ユーフラテスと同じく、アプリコット・ファニングスの隣に立つ資格が得られた気がした。

 ああ、とジェリコは息を漏らす。二人だ。二人だけ。たった二人で、二人きりで倒れるのだ。そのあとはどうしよう。手に手を重ねてみよう。その髪に指を通してみよう。その瞳を見つめ、額にそっと口づけてみよう。そして、そして──


「──ぇ」


 いつまでたっても、二人の身体は床に倒れなかった。アプリコットに痺れはなく、脱力もなく、ただ立っていた。


「なん、で」

あなた俺に学んだならそうすると思いました。俺でも、そうしますから」


 ジェリコの身体は支えられていた。ただし、釘を経由して。

 手に握られた釘の束だけをジェリコに触れさせるようにして、アプリコットは彼女を受け止めたのだ。


「なん……で」

「壁や床に触れたクラゲから痺れは伝わってこなかった。ですから釘でも同じだろうとあたりをつけました」

「なん──」


 服の内側で動くクラゲがゆっくりとしぼんでいく。それを確認し、アプリコットは改めてジェリコの身体を受け止めた。今度は直接、手でもって。


「私は……負けたんですね」

「ごめんなさい」


 アプリコットは小さく、しかしはっきりとその言葉を口にした。

 ジェリコはそれには答えずに、アプリコットの胸を軽く殴りつけることでその返答とした。

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