第14話

 仲村渠が夕刻に帰宅すると、当然のように妻がリビングで雑誌を読みながら、つけっぱなしのテレビを見ていた。


 彼は思わず、身体は大丈夫なのか、と尋ねた。


 すると妻は不思議そうに夫を見上げ「ふふっ」と笑った。


「どうしたの、私はなんともないわ、変な人ねぇ――」


 そう言って、妻は微笑んでいた。


 病院にある妻の身体の容体は、相変わらず安定していたが、城間からの報告によれば、まったく目覚めない、という一つの異変が起こっていた。


 病院側は精密検査を行ってみたようだが、原因はとうとう分からずじまいだった。


 末の息子も仲村渠にそう報告し、また何かあったら連絡するからと言って、電話を切っていた。


 報告を受けた日も、息子から電話があった日も妻がベッドに寝た形跡はなかった。


 仲村渠がいつもの時間に目を覚ますと、妻はすでに台所にいて、珈琲と朝食の準備をしているのだ。


 もし、何かが違っていたら、こんな幸福な生活もあったのかもしれない。


 仲村渠はそう思うと自分の生き様に後悔を覚え、死ぬほど胸がつらくなった。


(けれど今は――妻のことだ)


 彼は、注意深く妻の様子を観察した。


 当時は『ゆっくり』なんてできなかったから、なんでもしてやりたくなったのは確かだ。


 もっと、一緒にいたいと願った。手に入れられなかった未来が、すでに手に届かないことを気付かされて不意に涙が溢れそうになる時もあった。


 彼は自分が、昔からずっと彼女を愛していたのだと知った。


 告白されて一緒に過ごし始めてから、俺は君のことを愛していたのだと、そう君に言えた日はあっただろうか?


「――俺は、ずいぶん鈍い男のようだ。後悔ばかりだな」


 思わず言葉を食卓にこぼした時、妻はきょとんとしてから、やっぱり意味が分からないわと言って笑っていた。


「そうねぇ、鈍いところもあるけれど、でもとても一生懸命だったじゃない。私達の生活に、後悔なんてないでしょう? 子ども達もすっかり大きくなって、皆、ちゃんと育っていったもの」


 それでも、愛しているよ、とは仲村渠は言ってやれなかったのだ。


 今でもずっと好きだ。世界中の誰よりも、俺は君の事を大好きなんだ。もし叶うのなら、時を戻して、あの頃の姿で君と向き合って――今、伝えられるだけの感謝と、愛の言葉を口にするのに。


 仲村渠は、彼女が大切だった。


 自分の感情よりも、もっと大切な存在であることに気付けた。だから、――。


 今の状況は、常識では考えられないことであり、早く解決してあげなければならないだろうと思った。


 病院では、子ども達が、母親と残された短い時間を少しでも多く過ごせるよう、彼女の目覚めを待っている。


(――俺は、なんて贅沢な男なんだろう)


 こうして、もう一度、君と過ごせるだけで幸せ……なのだろう。


 そう、思わなければならない。仲村渠は、だから考えた。彼女を、きちんとあるべき所へ帰してあげるには、どうすればいいのか。


 そうして今日までの十日、仲村渠は、自分達を助けしてくれる人間をずっと探し続けていたのだ。


             六


「今日で、ちょうど十日になります」


 そう締めた仲村渠の長い話を、東風平とミムラは、黙って聞いていた。時折、聞いていることを示すように頷いてはいた。


 気付けば太陽は、天高く昇っていた。


 仲村渠は、傾き始めている縁側の日差しに驚き、数回は謝った。


「いえ、構わないですよ。まぁお茶をどうぞ」


 促されるがまま、仲村渠は恐縮して両手でカップを取り、茶を飲む。


 そんな彼を、しばらく見つめた後で、東風平が言った。


「なるほど。相違を発覚させないためにも彼女とあなたは、二人を知る人間には認識されないようになってしまっているのですね。一種の制約のようなものですよ。それは、あなたの妻の意識にも施されている」

「意識……? それに、制約とは」

「まあ、まずはお聞きなさい」


 彼は手をすっと前に出して、仲村渠の言葉を遮った。


「あなたの奥様に関しては、記憶と思考能力を身体の方に置いてきている状態です。そう、彼女にとっては『夢を見ている状態』、と言えばいいのでしょうか。夢という見えない糸を、彼女とあなたの守護霊達が、しっかりと握ってくれている訳です」


 東風平はそこで一度口を閉ざし、顎に手をやった。まるで、どれから語ったらいいだろうと悩んでいるようにも見えた。


「実は、あなた方二人を〝視た〟こいつの話しによると」


 と言いながら、東風平は顎先でミムラを指す。


「二人とも強い守護の力を受けていて、とても異界の問題を抱えているようには見えなかったそうです。ここまで強い影響力を放っている場合、かなり霊格の高い厄介な霊症の場合が多いのですが、この屋敷に掛けている結界にも、難なく迎え入れられている事実からすると」


 そこで東風平は言葉を切り、仲村渠の頭部のやや上あたりに、じっと視線を注いだ。


「――ああ、やはり、此度の件については、どうやら〝彼ら〟の取り計らいのようですね。かなり強い守護霊と、守護神、ご先祖様の力もあるみたいです。私は視えるわけではないので聴こえる言葉を受けて、私なりの返答しかできませんが」

「彼らの、取り計らい……」


 仲村渠は、その言葉を口の中で繰り返すしかできなかった。理解し難い言葉をつらつらと並べたてられても、疑問が増すばかりだ。


 東風平が、困惑する仲村渠に続けて説明する。


「病院のベッドの上で奥様は、自分が敬う神様と守護神、そして、ご先祖様に願ったのでしょう。やりとりについてまでは知りようがありませんが、そうである、との肯定が〝聴こえ〟ます」

「で、ですが……」


 仲村渠は、自分と妻の現実での関係を思えば納得は難しかった。


 話を聞いていたミムラを見てみるが――きょとーん、とした狐みたいな顔は、正直、何を考えているのかまったく読めない。


「妻が、そう願って、今の状況になっている、と?」


 慎重に聞くと、ミムラと東風平がすぐ同時に頷く。


「そうに決まってますやん」

「そうですよ」

「し、しかし……神様や守護霊にしても、この、今起こっている状況は、現実では起こってはならない気がするのです」

「そうですね。無茶苦茶ではあります。私もここまでの現象を見たことはない」


 東風平は腕を組み、認める。


「彼女を元に戻すことはできますよ」


 あっり、彼の口からそんな言葉が飛び出して、仲村渠は驚く。


「ほ、本当ですか!?」

「あなた次第では」


 思わず腰を上げた仲村渠は、東風平に「まあ、座りなさい」と手で促され、そろりそろりと腰を戻す。


「けれど、この状態のままであれば奥様の身体の方は容体が安定し続けるでしょう」

「え」

「神様とご先祖様が、彼女の魂が戻るまで身体の方を守ってくれていますから、離れている間に容体が崩れることはないのです。神様は本来、現世に強くかかわることができないものですから、自分達が魂を話している間に何か起こってはいけないと、まぁ、何かしら裏技を使ってこの世でよく知られている魂の法則を、ちょいっと変更します」

「そんなことって……」

「これも『あり得ない話』です。ですが私の式神達も、まさにそのようなことになっていると口を揃て言っています」


 仲村渠は「式神……?」と首を捻ってしまう。


 だが、東風平が何を言いたいのかは、少しだけ分かった気がした。


 つまり、今の状態であるから、妻の身体は何も苦しいことが起こらずに済んでいるのだ。数日に一回の吐血も、血便も、薬の急激な副作用による記憶の混乱も……。


 原因の分からない深い眠りだと、医者は末の息子に言っていたらしい。


 城間からも『すっと変化なし』と報告が着ている。それは、目覚めないだけで、容体はすこぶる引き続き安定している、という意味だ。


 ――けれど病気をなかったことにしてやれる奇跡など、起こせはしない。

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