夕暮百物語・第9話 留美の文字
剛さんは20代の頃、左腕に刺青を彫った。きっかけは当時付き合っていた彼女だ。留美という名でとても嫉妬深く、束縛な性格だった。けれど剛さん好みで、彼女にゾッコンだったそうだ。そんな嫉妬深い留美に対し、愛情の証明を行う行為を彼は思いつく。剛さんは自らの愛を示すため彼女の名を左腕に彫ったのだ。
いわゆる若気の至りというやつだ。周囲は「やめておけ」と剛さんを何度も止めたが、言葉は耳に入らない。留美もまんざらでない表情を浮かべ、喜んでいたからだ。左腕に刻まれた「留美」という名を鏡の前に立ち、誇らしげに眺めた。毎晩2人でベッドの中に入ると、彼女は剛さんの左腕に抱きつき、指で何度も何度も刺青の文字をなぞる。その行為は愛を確かめているようで嬉しくもある。
けれど若い2人だ。それからすぐ、あっけなく関係が崩れる。剛さんの前から留美は突然去ってしまった。あれ程に束縛的な女がこうも豹変し、居なくなることに彼は驚き戸惑った。そして残ったのは左腕に刻まれた刺青だ。友人達は「ほれ見たことか」と呆れ嘲笑った。けれど後悔はしていない。自分が1人の女を愛した証だ。そう言い聞かせる。それに留美以上の女はいない。だから諦めきれなかった。彼女の行方はわからぬまま、時間が過ぎていく。2年程経ったある晩のこと、ベッドの中で眠っていると左腕に懐かしい温もりを感じた。
左腕に抱きつき、何度も刺青の文字を指でなぞる仕草だ。すぐに「留美だ!」と思った。暗がりではあるが彼女らしき姿も見える。声をかけようとするとフッと目の前から消えてしまった。飛び起き、剛さんは思わず叫ぶ。「留美はまだ俺のことが好きなんだ」そう思った。居ても立っても居られなくなり、剛さんは彼女を探すことにした。それからも毎晩現れる温もり。そして同じように左腕に抱きつき、指で刺青をなぞる。彼女だと確信を持ち、死に物狂いで探し続けた。
そんなある日、留美の消息が知人経由で判明した。知人は気まずそうに剛さんに説明をする。留美には別の男が出来たこと、妊娠をして近々入籍すること。自分を思い続けていた訳ではなかった。剛さんは動揺し落胆した。そしてそれからも彼女ではない存在が左腕に抱きつき、刻まれた文字に向かい、指を何度もなぞり続ける。その正体はわからぬままだ。剛さんは刺青を入れたことを今では後悔している。
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