【完成版】二人の俺から、一人の君へ
GIN
前編 二人の俺から、一人の君へ
一人の人間を一個人として判断する要因は何だろうか。
その人間の容姿。性格。行動。恐らくは、一番に上がるのはその三つだろう。
しかし、上記のもので本当に個人として判断できるだろうか。
容姿が瓜二つの人間はこの世に三人いると言われている。性格は大雑把に分ければ数種類に分けられる。行動が似ている人間は必ず存在する。
上記の事から考えて、それぞれの要因だけで判断するのは難しい。
それならば、全ての要因を組み合わせれば判断することが出来るか。
答えは否であると、今なら答えられる。
何故、否であると言い切れるのか。
それは、一夏の日々によって導かれた。
幼馴染の様子がおかしい。最初にそう考えたのは夏の始まり。時は数日前に遡る。
具体的に変な点がある訳ではない。顔の一部分が変化した。会話の節々で違和感を感じるようになった。知的能力や運動能力が著しく変化した。普段と比べ行動が明らかに怪しい物へと変化した。そんな様な事は一切ない。
ただ、何かがおかしい。顔。性格。行動。頭脳。運動能力。声。体格。全ては普段の彼女と大差ない。それなのにも関わらず、何か違和感を感じる。直感と言うのだろうか。頭とは別のどこかで、変であると感じ取っている。
違和感の謎を考えながらも、アイスの自販機へと小銭を入れる。慣れた手つきで三枚全てを入れ終えると、画質の悪い写真と共に並んだ一つのボタンを押し込む。
ガコンッという音を耳にすると、軽くしゃがみ、二日前にも口にしたアイスを手に取る。アイスに巻かれた紙を半分ほど剥がすと、冷えたアイスを口で包む。
口中にはチョコレートの甘い味が一瞬にして広がり、幸せな感情が心を満たしていく。夏の日差しに当たりながら、放課後に食べるアイスは格別だ。
さらに一口アイスを口にすると、幸せな甘味に包まれながら、再び思考を開始する。
彼女に対する違和感。十数年間一緒にいる中で、初めての不思議な違和感。
そこまで良くない頭を全力で回転させるが、違和感の正体は判明する気配がない。その何とも言えない違和感を、形作る言葉が見つからない。
アイスが残り半分になった頃。ようやく、自分一人の力では判明しない事を悟り、他人を頼るという選択を取った。
顔を上げ、傍で犬の様にアイスに貪りつく、もう一人の幼馴染へと言葉を放つ。
「なあ、少し前からさ……鈴鹿がさ、どこか変わったと思わないか?」
突然の言葉に彼は困惑しながらも、アイスで汚れた口を拭き取り、考えるような仕草を取った。そして、考えが纏まったのか顔を上げると、大きく口を開いた。
「いや、考えてはみたけど、特に変わった所なんてなかったで。……どしたん? 鈴鹿となんかあったん?」
「……いや、別に何かあった訳じゃないよ。……そっか、高弘は何も感じてないかー」
軽く返すと、再びアイスに目をやる。
夏の日差しのせいか、将又時間を掛け過ぎたせいか。既にアイスは溶け始めており、溶けたアイスは手持ち部分まで流れ始めている。
急ぎ、手持ち部分に流れたアイスを舐めとると、溶けかけのアイスを口へ運ぶ。そして、難しい顔をしながら考え始める。
幼馴染であり、親友でもある本井高弘。運動神経が高く、性格が良い、典型的な男子高生。知能は低く、成績は最底辺であるが、勘の良さは群を抜いて良い。
そんな彼が感じていない。それならば、この違和感は勘違いなのかもしれない。
……いや、本当に勘違いで終わらせていいのだろうか。軽い違和感ならそれで流しても良い。しかし、今回の違和感は大きすぎる。まるで、彼女が彼女でないような。今の彼女が彼女の皮を被った、全くの別人であるような。
難しい表情をしていたせいか、深く悩んでいる事に気が付いたのかもしれない。彼は残ったアイスを口に放り込むと、目の前に仁王立ちになり、大きく笑った。
「良く分かんないけどさ、なんか思う所があるなら、本人に聞いてみたらええやろ。俺らの仲なんやし、別に深く配慮したりせんで良いやろ」
「本人に聞いてみるって……いや、意外にそれもありか」
普段ならば、正面から尋ねるというリスクのある行動は選択しない。しかし、今回の場合は他に選択できる行動が存在しないのだ現状では、案外直接聞くというのが最良の選択なのかもしれない。
心の中で決心し、残り少ないアイスを一気に口の中へと放り込む。冷たいアイスを一気に食べたせいか、瞬時に頭痛が頭を襲った。
頭を押さえながらも、残った紙を丸め、ゴミ箱へとホールインワンする。そして、軽く彼に礼を言うと、普段通りに別々の道へと進んで行く。
一瞬、幼馴染の家へ向かおうかと迷ったが、何か嫌な予感を感じ、彼女に尋ねるのは別日にすることにした。
不安と違和感を胸に持ちながらも、荷物を片手に家へと歩みを進める。
明日、彼女に全てを聞こうと、心に決めて。
そして、これが全ての始まりとなった。
この時、もし彼女に聞こうと考えなければ、全ては変わっていたのかもしれない。
自分の運命。幼馴染二人の運命。
もう一人の自分の運命。もう二人の幼馴染の運命。
この行動が正しかったのかは、夏が過ぎ去った今でも分からない。
それでも、一つだけ確かな事がある。
この夏の思い出を忘れる事は絶対にない。
これは俺ともう一人の自分。
そして、二人の幼馴染ともう二人の幼馴染の一夏の物語。
「おっはよー!」
朝にしては異常なほどに大きく、体を覆っていた睡魔を一瞬にして消し飛ばすほどに元気な少女の声。聞き覚えのある声に、目を擦りながら振り返る。
運動部員とは思えない白い肌。丁寧に結ばれた黒髪のポニーテールに、太陽の様に輝く笑顔。そこに堂々と仁王立ちしていたのは、最近違和感を感じる幼馴染だった。
返事がないのを不思議に思ったのか、彼女は顔を近づけるなり、再び大声で挨拶をする。あまりの声量に思わず耳を塞ぐと、ため息を零した後、仕方がなく挨拶に答える。
「……おう、おはよう鈴鹿。今日も五分遅れてるぞ」
「あ、時間に厳しい男はモテないよ。モテたいなら、少しの遅刻は許してよ」
「お前にモテても仕方がないから許さないよ。これで何回目だと……」
言葉を続けると、彼女は耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込んだ。声が聞こえていないかのように振舞うその様子は怒られている子供そのもの。見た目は完璧な高校二年生であるのにも関わらず、彼女の精神年齢は小学生と同格のようだ。
再びため息をつくと、地面に放っておかれている彼女の鞄へ手を伸ばす。高校生が通学に使用しているとは思えない程に重量のある鞄を右手で持つと、彼女に合図を出し、一足先に学校へと向かう。
彼女は振り返らずとも分かるほどに勢い良く立ち上がり、満面の笑みを浮かべながら横を歩き始めた。
鞄を持つだけで機嫌を直し、元気に歩き始める。普段通り、基本的に単純で明るい。笑顔と夏の日差しが良く似合う、スポーツ女子。
間違いなく俺の知っている彼女。何度も確認するが、普段の彼女と相違する点は一切ない。
しかし、違和感は一切拭えていない。
数分。数時間。数日。いくら考えたとて、解明されない違和感。やはり、ここまで来たら、昨日決心した通り、本人に直接尋ねるのが一番だろう。
少し言い淀みながらも、数日間の疑問を解決するべく口を開こうとする。
その時、彼女は思い出したかのように声を上げた。スマホを暫く注視したかと思うと、彼女の顔は見る見るうちに青ざめていく。
「やばい、後輩から連絡来た。あたし今日、朝練あったのすっかり忘れてた。遅刻してでも行かないとだから、先行くね! 鞄持ってくれてありがとう」
彼女は焦りながら鞄を奪うと、鍛え上げられた自慢の脚力を惜しむ事無く発揮し、学校へと駆け出した。
彼女は都内屈指の実力を誇るソフトボール部の部長。当然の事ながら、彼女はそれに見合った身体能力を持っている。強靭な身体能力を発揮した彼女にはついて行けるはずもなく、簡単に置いて行かれてしまった。
仕方がなく彼女を追いかけるのは諦め、真っ青に染まる空を見上げながら、学校へと少しずつ歩いて行く。
それにしても、珍しい事もあるものだ。
彼女、秋元鈴鹿は部活が大好きである。現在の学校に進学したのも、ソフトボール部が強いという理由からだ。それでいて、彼女は状況によって小学生にも見える行動を行うが、意外としっかりとしている一面がある。
大好きな部活において、朝練であっても忘れるなんて事はないはずだ。大切な練習を忘れるほどに疲れているのだろうか。それとも、練習があること自体を認知していなかったのだろうか。
通学時間の暇を潰すように、彼女が練習を忘却した理由を考えながら、一歩ずつ学校へと近づいて行く。
汗を拭いながら足を動かし、教室に到着した頃。時間は既に八時半を回っていた。ふと、教室前方へとめをやると、壁に埋め込められた黒板に、白い文字で担任の不在を伝える内容の文章が残されている。
毎朝のように行われている、担任からの長ったらしい話がない事に軽く喜ぶと、慣れた手つきで荷物を置き、授業の教科書を取り出す。前日の授業を思い返し、教科書をめくろうとするが、紙と紙が隙間なく接触し、離れる気配がない。
そういえば昨日、教科書に軽く水を零した際、乾かすことなく鞄へ放り投げてしまった。
それが仇となり、水で紙同士が付着したまま、完全に乾いてしまったようだ。覚えてはいないが、この現象にも名前のような物があった気がする。いや、似たような現象なだけで、名前がついているのは別の現象だっただろうか。
意味のない思考を巡らせていると、丸眼鏡が特徴的なスーツ姿の男性が教室へと足を踏み入れた。彼は自慢の鞄を教卓へ優しく置き、常人じゃ貼らない量の付箋が貼られた教科書を手に取る。鋭い眼光で教室を見渡すと、挨拶をする事なく、淡々と授業を開始する。
現代文の教師とは思えない冷たさに普段と同様、動揺しながらも耳を傾ける。
「今日は前回同様、物語の授業を行う。……一つ聞く。君たちは神隠しという物を知っているかい?」
珍しい彼から生徒への問いかけに、クラスメイト一同一瞬顔を上げる。しかし、彼ら彼女らは彼に指されたくないためか、理解出来ていないかのように、将又考えこんでいるかのように、机上の教科書へと目をやる。
同じように、俺も手元の教科書へと目をやる。真面目である様に見せるべく、右手にはシャーペンも握っておく。
彼は嘘をついている者を探すかのように、一人一人の顔を見渡したのちに、再び黒板へと顔を戻した。
「神隠しとは人間がある日忽然と姿を消し、消え失せる事を言う。大昔では神の仕業と恐れられていたが、今では恐れられることはなく、唐突な失踪の事などを指す事もある」
彼は白いチョークを手に取ると、いつの間にか全て文字が消されていた黒板へ、白い粉を撒き散らしながら何かを描き始める。中央に鳥居を描き、左右斜め下へ二つの円。一つの円には現世界。もう一つの円には別世界と記入すると、彼は音を立ててチョークを置いた。
全く絵を理解できず、俺達が頭上に疑問マークを浮かべていると、彼は勢い振り返り、小学生に教えるかのように優しい言葉で説明を始める。
「……神隠しには様々な説があったが、ある地域にはこんな話も存在する。それは別世界に連れて行かれた説。……神社の境内は神々の住む場所とされている。そのせいか、神社の鳥居は別世界とこの世界を繋ぐ門だと考えられていたこともあるんだ。ここまでは分かるか?」
彼は一言も発せず話を聞く生徒たちへ目線をやる。彼らは顔を上げる事なく、数秒前と同様に教科書へ目をやっている。
そんな生徒たちに何かを言う事もなく、彼は説明を続ける。
「……神隠しにあった者は、鳥居をくぐり抜け、別世界へと迷い込んだ。そして、別世界に行った者は帰ってこれず、神隠しにあったとして考えられる事となった。……まあ、特定の地域にある、良くあるオカルト話に近いものだがな。……という事で、今日からは神隠しにまつわる物語を読み込んで行く」
長い前置きを終え、本格的に教科書の内容へと入る。音読があるからか、前置きが終わると同時に大半の生徒の様子が変わり、少しではあるがやる気が感じ取れるようになった。
同じように音読対策を取ろうと考えたが、日付と出席番号が離れている事に気づき、筆記用具を机に置く。暇な時間を潰すように、窓の外を観察しながら、教師の話を思い出す。
神隠し。鳥居。別世界。まさしくおとぎ話のような話だった。鳥居を潜ると別世界へと迷い込む。そんな簡単に異なる世界へと行けるのだったら、年間何万人もの人が行方不明になっているはずだ。
言っていた通り、オカルト話として受け取って良いのだろう。しかし、それはそれとして、本当に別世界へ繋がっているのだとしたら。もし、そうだとしたら、どのような世界へと繋がっているのか。興味がないという訳でもない。
男と言う生き物は別世界の空想をするのが好きなのだ。別世界。この世界と異なる世界。一体その世界には何があるのか。その世界は一体……一体……。
思考を巡らせているうちに、意識が途切れた。寝不足が続いていたからか、授業開始から数分で夢の世界へ行ってしまったようだ。
意識がハッキリした頃には授業終了のチャイムが鳴り終わり、教師は教室から姿を消していた。重い瞼を擦りながらも、次の授業の準備をするべく、広がった資料を纏め始める。その直後、聞き覚えのある声が後ろから聞こえてきた。教科書をしまうついでに振り向くと、予想通りに幼馴染の男が仁王立ちしていた。
「おはよう! いやー、今日の授業も長かったなー。一時間のはずなのに、三時間は受けていた気がするわ」
「まあ、只管に聞き続けて、時々音読するだけだからな。寝てればすぐ終わるし良いだろ」
「それはそうだな! そう言えば、鈴鹿に聞きたい事があったんじゃなかったっけか? 結局、話したん?」
「あー、それは……」
「あたしがなんだって?」
後ろから聞こえた声に振り向くと、そこには見慣れたもう一人の幼馴染が立っていた。こちらの幼馴染も何故か仁王立ち。
最近は仁王立ちで話しかけるのがブームなのだろうか。
「おー、鈴鹿! 実は尚也がお前に話があるんやってよ! 」
「え、なになにー? 尚也から話なんて珍しいじゃん! 」
「あー、そうだな。あのさ、お前最近……」
質問を投げかけようとした時。ガラガラと教室の扉を開く音が響いた。
教室の入口へと目をやると、次の授業を行う教師が入室していた。流れるように時計に目をやると、その針は授業開始の一分前を指していた。
適当に話している間に、貴重な休み時間の大部分は消えてしまっていたようだ。俺と鈴鹿は放課後に話をすることを約束し、それぞれの席に着いた。
それから、再び平凡な授業が開始された。数学に世界史、化学など、途中に睡眠を挟みながらも、全ての授業を乗り越えると、あっという間に全ての授業の終了を伝えるチャイムが鳴った。
軽く背伸びをすると、全ての所持品を丁寧にしまい込み、ゆったりと椅子から立ち上がる。そして、約束の事を思い出し、彼女を探すべく教室を見渡す。
視線を動かし、教室中を隈なく探すが、そこに彼女の姿はない。仕方が無く、近くで座っていた彼女の友達に聞くと、約束を忘れたからか、話をしたくないからかは分からないが、部活に向かってしまったらしい。仕方がなく、話は後日にしようと考え、帰宅しようと教室を出る。
しかし、不思議と嫌な考えが脳裏をよぎった。
ここで帰宅すれば、一生例の違和感を解決できない。そんな考えが脳裏をよぎったのだ。
当然、そんな事はないだろう。ないだろうが、不思議とそんな考えを捨て去ることが出来なかった。
帰路へと続く道から離れると、彼女が部活を行っている、グラウンド傍へと足を運んだ。友達の話曰く、グラウンドを生徒会が使うという理由で、今日の部活は短時間で行うらしい。短時間であるのならば、多少待てば部活は終わり、話の一つくらいは出来るだろう。
目に映ったベンチに腰を下ろすと、昼に購入した水のペットボトルを開封する。
季節は夏。ベンチ周りは多少日陰になっているものの、それでも多少の汗が流れてしまう程に熱い。
開封した直後の水を考えなしに、喉へと流し込んで行く。この暑さの中、喉を流れる水分は格別に美味しく感じる。暫くは至福の時を味わうように水を喉へと送り続け、残りが半分になった頃にペットボトルを口から離し、グラウンドへと顔を向ける。
グラウンドではソフトボール部が汗を流しながら、必死に練習を行っている。一人のピッチャーがボールを投げ、一人のバッターがそれを打つ。他のメンバーが打たれたボールを捕る。これをピッチャー以外が順々に位置を変えて行っているようだ。
指示を出しながらボールを操っているピッチャーへと目をやると、そこに立っていたのは見覚えのある女子高生。ピッチャーを担当しているのは、汗も滴る良い女である幼馴染だった。
姿勢を整えると、腕全体をしならせ、素早く腕を振る。その手から放たれたボールは高速でバッターへと向かい、バットに触れる事無くネットに包まれた。それを確認すると、再び彼女は腕を振る。三度、同じようにバットを避け続けると、褐色肌の女コーチの拳骨が彼女を襲った。
当然と言えば、当然だ。状況から察するに、彼女達が行っているのはバッティング練習と守備練習。それを豪速球を放ち、バッティングすらさせないとなると、注意されるに決まっている。彼女は軽く注意を受け入れると、再び練習を再開した。
……ソフトボールの強さは全く変わらない。普段と変わらない、県内屈指の豪速球を投げる投手。フォームも見た限りでは、普段と大差ない。
こうして見ると、最近の違和感が嘘のようにも思える。しかし、それでも心の奥深く。深く深くで小さく引っかかる物があるのも事実。様々な思考を巡らせながらも、改めて彼女と話す事を決心すると、再びペットボトルの蓋を開き、グラウンドを眺めながら彼女を待つ。
空が橙色に染まり始めた頃。グラウンド横へと生徒会役員が集まり始めたのが見えた。
それを目にしたからか、女コーチは選手を集めると、撤収の合図を出した。
彼女らは急ぎ足に各々の使用した道具を片付け、グラウンドから移動し始める。その最中、大量のボールが入った籠を軽々と持ち上げ、片手で運び始めた鈴鹿と目が合った。
彼女は驚いた表情を浮かべると、自慢の脚力を生かし、高速で俺の元へと駆けてきた。
「尚也! こんな所で何してるの?」
「何ってな……約束忘れたのか?」
彼女は一瞬悲しそうな表情を浮かべると、すぐに笑顔になり、少し待つように告げたのち、その場を後にした。 彼女の笑顔はどこか引きつっており、普段とは何かが違うと思わせる表情だった。
十数分後。制服姿へと戻った彼女は、約束を破る事無く、再びグラウンド傍へと現れた。ベンチに忘れ物をしていないか確認すると、普段通りの道を通り、家へと向かい始める。
既に陽は深く沈んでおり、十数分で完全に地平線に沈む時間帯。陽が沈みつつあるおかげか、昼間のような暑さは消え、どことなく涼しいように感じる。
話すのが好きな彼女の話に相槌を打ち、合間合間に脳内で思った事を口に出しながら歩き続ける。長い付き合いだからこそ、遠慮する事無く、言葉を思ったままに放つ事が出来る。
普段と何も変わらない、普通の時間。何の変哲もない話し時間だが、不思議と落ち着く時間。しかし、今日ばかりは、このまま落ち着いている訳にはいかない。
笑顔で言葉を発する彼女の話を遮り、意を決して本題を切り出す。
「それでさー、高弘ったらさー……」
「なあ、鈴鹿。少し話したい事があるんだけど、良いかな?」
「え、話? うーん、まだ時間はあるし、後で良くない?それよりさ、敬斗がさ……」
「鈴鹿。今じゃなきゃ駄目なんだ。今、話をしよう」
「え、何? ……もしかして、告白かなんか⁉ ごめんだけど、あたし告白されるのはイルミネーションの真ん中に決めてて……」
「……鈴鹿!」
話を逸らし続ける彼女へ、普段の生活では基本的に出さない大声を放つ。彼女は驚愕した表情を浮かべると、諦めたような態度を取り、口を閉じた。
その様子から察するに、話を始めるのを待ってくれているようだ。
「……これから変な事言うかもだけど、真面目に聞いてほしい。……鈴鹿、お前は本当に鈴鹿か?お前は……俺の知っている秋元鈴鹿なのか? お前は……誰だ」
彼女は口を閉ざしたまま俯いた。
数秒後、引きつった笑顔を浮かべると、冗談を言うような声で質問に答える。
「……いや、いやいやいや、何言ってるの。あたしが鈴鹿かって……鈴鹿に決まってるでしょ。大体、鈴鹿じゃないなら誰だって話よ。どこからどう見ても、あたしはあたし!」
「ああ……確かに、どこからどう見ても鈴鹿は鈴鹿。数日間、お前の事をよく見てたけど、行動も。言動も。全てが鈴鹿そのものだった。一つも。本当に一つも、鈴鹿と違う所はなかったよ」
「じゃあ、何であたしがあたしじゃないみたいに……」
「……幼馴染だからだ。今日までずっと一緒にいたから、幼馴染だから、気付いたんだよ、違和感に。根拠はない。だけど……根拠はないけど、お前は鈴鹿じゃない。そんな気が……したんだ」
本心からの言葉。
その言葉を耳にすると、彼女は嬉しそうで、それでいて寂しそうで、悲しそうな表情を浮かべ、少し涙目になりながら、ゆっくりと背を向けた。
そして、軽く目を擦るような仕草をすると、真っ直ぐに前を向き、勢い良く振り返る。
その表情は先程とは違い、目に涙を浮かべてはいるものの、心の底からの満面の笑みを浮かべていた。
「全く、尚也は……どんだけあたしの事好きなのよ! 小さな違和感に気づくとか、あたしの事見過ぎだよ!」
「はー? いや、別にそんなに見てたわけじゃ……」
「尚也、ありがとう。それと……騙してて、ごめんね。あたしはさ……尚也の知ってる、あたしじゃないんだ」
覚悟を決めた、彼女からの事実の告白。
その言葉の意味を理解できず、その場に立ち尽くせざる得なかった。
その時の間抜けな顔を見たからか、彼女は更に笑顔を浮かべた。
「……という事で、問一の答えは三になります!」
室内なのにも関わらず黒一色の帽子を被った老教師の声が、教室内を響き渡った。騒音とも捉えられる大声を適当に耳で受け止めつつ、教室内の男女は無心で板書を写し続ける。大声の合間合間には微かにアブラゼミのジリジリという鳴き声が聞こえ、真夏に近づきつつ事ある事を否応なく感じさせられる。
そう。少しずつではあるが、時期は真夏に近づきつつあるのだ。それなのにも関わらず、夏の始まりに気づいた幼馴染の違和感の正体は判明していない。
約一週間前。幼馴染に心の奥底からの疑問を告白した。彼女は笑顔を浮かべながら、その疑問が事実であると肯定した。
そこまでは良かった。問題はその後。
彼女は事実を肯定すると、詳しい話は数日後にすると告げ、その場を後にしたのだ。当然、その走力に勝てる事は出来ず、彼女を逃す事となり、話がされる数日後を待つ事となった。
しかし、それから一週間が経っても、彼女から件の話をされる事はなかった。それどころか、日常会話すらまともに行っていない。
そろそろ話をしたい所だが、普通に話しかければ当然の事如く逃げられる確率が高い。どうすれば、まともに話を行えるのか。手を動かす事無く、只管考えに耽り続ける。しかし、いいアイデアは一切浮かんでこない。
考え続ける頭を休めると同時に、時間を確認しようと顔を上げる。次の瞬間、背後に回っていた老教師の一撃が、俺の頭に直撃した。
「こら、高橋君! しっかり板書を写しなさい!」
「あ……はい」
集中し過ぎたせいか、老教師が近づいていたのに気が付かなかった。
叱られた事を恥ずかしく思いながらも、文字一つ記入されていない、雪原の様に真っ白な紙へと板書を写し始める。
その様子を軽く笑いながら、隣に座るもう一人の幼馴染が合図を出してきた。内心面倒くさく感じながらも、軽くため息を漏らし、笑みを浮かべた幼馴染へと顔を向ける。
「おいおい、何怒られてんねん! ちゃんと授業は受けなきゃ、駄目やろがー」
「お前には言われたくないわ。笑ってる暇があるなら、一文字でも写せよ」
「俺は後でお前か鈴鹿から写してもらうから良いんだよー。それよりさ、お前何考えこんどったんや? 多分やけど……鈴鹿の事やろ」
一瞬にして図星を指された事により、思わず顔に出して動揺してしまった。
その様子を軽く笑いながら、彼は再び楽しそうに口を開く。
「お前分かりやすすぎやろ! 全く……まあ、最近お前らギクシャクしてそうな雰囲気バチバチやったからなー。んで、何があったん?」
「別に大した事じゃないよ。ただの行き違いみたいなもんだよ」
「なるほどね。結構前に言ってた、鈴鹿に何か感じてるって話か」
あまりにも的確な話に、再び思わず顔に出して動揺してしまった。
それを目にすると、彼は再び楽しそうに笑みを浮かべる。
「まあ、何だ。色々あるみたいだけど、ゆっくり行こうぜ。長い仲なんだからさー、どうせ解決できるよ。いつも喧嘩しても、いつも仲直りしてたやろ?」
「まあ、確かにそうだな。……ゆっくり行くか」
全く深く考えずに話す彼だが、その言葉も一理ある。
長年一緒にいた幼馴染。幾度となく喧嘩もしてきたが、必ず互いに謝る事で仲直りし、より友情を深めてきた。
確かに、ゆっくり話を待つのも手の一つだろう。しかし、それは彼女が本当の幼馴染ならばだ。
彼女はあの日。尚也の知ってるあたしじゃないと話していた。
あの意味を言葉の通り受け取るとするなら、彼女は長年一緒にいた幼馴染とは別人という事になる。そうなれば、気長に待つという訳にはいかない。
今の彼女が誰なのか。鈴鹿はどこにいるのか。聞かなければならない事や、判明しなくてはならない謎が大量に出現する。そのため、ゆっくりいくという事は極力避けたい。
とは思ったものの、話をしようにも、逃げられてしまえばどうしようもない。結局の所、話が出来ないというのが現状だ。一先ずは、無理矢理にでも気長に待つしかないのだろう。
内心は気が気じゃない。それでも心を落ち着かせ、大声で説明を行う老教師を横目に、適当に白紙へと文字を記入する。再び待ち続ける時間が続くのかと思うと、憂鬱で仕方がないが、それ以外の選択肢がない以上、その選択肢を選ばざる負えない。憂鬱な気持ちを持ったまま、授業に集中していく。
その後、沈んだ気持ちが戻らぬまま、平凡な授業へと挑んで行った。しかし、その気持ちは数十分後に高潮する事になった。
この日の昼休み。鈴鹿から、放課後一緒に帰る事を切り出された。当然、話を受け入れ、放課後の約束を交わしたのだった。
「いやー、最近また暑くなってきたねー。まだ夏本番じゃないなんて信じられないよ!」
「あー……確かにそうだな。テレビで言ってたけど、今年は去年より暑くなるみたいだぞ」
太陽が頂点を過ぎ、地平線へと少しずつ進みつつある頃。彼女は普段と変わらぬ態度で、気軽に言葉を発していた。
帰路につくまでは、彼女と普通に会話出来るか不安はあった。しかし、実際に彼女と帰ると、普段通りの彼女の態度に影響されてか、普段と変わらずに言葉を交わすことが出来ていた。
「そう言えば、あたし達ももう二年生だよ。尚也は進路とかちゃんと決めてる?」
「あー、進路か。……俺はまだまだ決めかねてるな。特にやりたい事もないし。まあ、適当に大学行って、適当に就職かな」
「適当にって……そう言うのはちゃんとしないと駄目だよ。進路はしっかり考えてって先生も言ってたじゃん」
「そう言うお前はどうなんだよ」
「あたしはちゃんと決まってるよー。大学行って、ソフトボール続けて、学校の先生になって、学校でソフトボールを教える。ずっと前から言ってたでしょー」
確かに、教師になりたいという話は何度も聞いていた。昔から、思い返せば小学生の頃から、彼女の夢は教師だった。教師となり、子供に世界を、社会を教える。それと同時に、部活を利用し、ソフトボールを教える。
彼女が長年考えてきた、将来設計。未来の事をしっかりと考え、自分の気持ちに向き合い、したい事をする。彼女の尊敬できるところの一つでもある。
「……昔からの夢だからねー。昔と言ったら、あたしたちにも色々あったよね。懐かしいなー、小学生の頃。高弘がバカやって、尚也がそれに振り回されて、あたしがそれを笑って見ててさ」
「あー、確かにそんなのばっかだったな。俺は何にも悪くないのにあいつに振り回されてさ。……てか、お前のせいで酷い目にあった事も何度かあったからな」
「まあまあ、子供の頃の話ですからー。みんなで沢山遊んだりもしたよね。サッカーしたり、鬼ごっこしたり、バレーしたりさ。この三つはずっとやってたよね」
「あー、確かにな。その三つは……あれ、バレーなんかしてたっけ。全然記憶にないわ」
「え……あ……そっか……」
深く考えずに放った言葉に、彼女は笑顔を消した。
直後、思い出したかのように笑顔を取り戻すが、その表情はどこか硬い。口元は笑っているが、目元がどこか寂しそうに見える。
何か悪い事を言ってしまったのだろうか。古い記憶を探り続けるが、サッカーや鬼ごっこをした記憶はあれど、同様にバレーを行った記憶はない。単純に忘れてしまっただけなのか、それとも……。
「……あ、着いたよ」
その声に反応し、見上げた先には、一度も訪れた事のない、古びた神社がそびえ立っていた。
彼女は着いてくるように告げると、石製の階段に足を掛ける。
建立されてから長い年月が過ぎているからか、所々が破損しており、隙間からは土や苔がはみ出ている。同様の理由からか、鳥居は色褪せており、半分以上が苔に覆われている。
階段を登り終え、古びた鳥居の前で足を止めると、彼女は勢い良く振り向いた。そして、目一杯の笑顔を浮かると、再び振り向き、地面を強く蹴り上げた。数十センチ地面から離れた彼女は鳥居を過ぎるとほぼ同時に、再び地面に足を着いた。
その時の彼女は、何かのしがらみを振り切った時の様に爽快で、満面の笑みを浮かべていた。その笑顔は今まで見てきた彼女のどの笑顔とも違い、全く見た事がない笑顔だった。それでも不思議と、その笑顔が心の底からのものであったという事は感じ取れる。
「いやー……やっぱり駄目かー。行けると思ったんだけどなー」
「知らないけど、そんな勢い良く鳥居潜るのって良いのか?一応神様のなんかだし、良くないだろ。子供じゃあるまいしさ」
「これくらい大丈夫だよ。……ねえ、尚也はここに何か感じる?」
突然の質問に、困惑しつつ、境内を見渡し始める。境内は大部分が古びれており、都会では滅多に見られない自然に満たされている。機械的な音は一切せず、周囲に聞こえるのは微風によって揺らされた草木の音のみ。
幻想的かと言われれば、誰しもが首を縦に振る事間違いなしだろう。しかし、幻想的と言っても、実際に何かを感じるかと言われれば、感じない。凄い。綺麗。それっぽい。考えて出て来るのは、この程度の感情だけだ。
「少し幻想的だとは思うけど、何か感じたりはしないぞ。鈴鹿は何か感じるん?」
「全く何も感じないね。……そっか、尚也も何にも感じないかー。……でもね、実はこの神社には何かがあるんだよ。間違いなくね」
「まあ、神社だしな。何かって、この神社でお参りすると良い事が起こるとか、そういう感じのやつ?」
「そんなんじゃないよ。てか、それならもっと有名になってるでしょ。尚也は分かってないなー。そんなんだからテストの点数悪いんだよ?」
テストは関係ないだろ。心の中でそう呟きながらも、それならば何があるのかと彼女へ尋ねる。
彼女は一瞬口籠った後、懐かしそうに少し前の出来事を語りだす。
「……尚也は覚えてる? 一か月前くらいにやった男女混合の体育。男子対女子で、サッカーやったよね」
「ああ、確か僅差で男子が勝った奴だよな」
「……違うよ。あたしの記憶では女子が勝ってた。その少し後、高弘も合わせて三人でボウリング行ったじゃん。一番高得点だったの誰だっけ?」
「確か高弘だったっけか。次に鈴鹿で、俺がビリ。てか、サッカーで勝ったのは俺らだったろ。だって……」
「ボウリングで勝ったのは高弘じゃないよ。勝ったのはあたしだったよ」
「……いや、さっきから何言ってんだ?」
話が噛み合わない。
彼女が話に出した授業や遊びは実際にあった出来事。
それに関しては疑う余地もない。しかし、その際の結果が違う。
彼女の事は何年も見てきたから理解できる。彼女は嘘をついていない。全ての結果を本気で行っているのだろう。
しかし、それならばおかしい。
当時行ったサッカーはクラス内の一大イベントだった。ほぼ全員が全力で挑んだこともあり、記憶に深く残っている。俺も実際に参加し、その結果は僅差で男子の勝利。
ボウリングは深い印象はないが、記憶に新しいの出来事という事もあり、その結果自体は正確に覚えている。
俺の記憶に間違いはない。ならば何故、ここまで話が噛み合わないのか。
「……尚也の言ってることは本当なんだと思う。だけど、あたしの言っている事も本当なの。……矛盾してるって思うかもだけどさ、実は矛盾してないんだよね」
「……は?いや、矛盾してるだろ」
「いーや、してないね。だって……あたしたちが受けた授業と、あたしたちが遊んだボウリングは違うんだもん」
はてなマークが三つ、自身の頭上に浮かんでいるのが分かった。彼女のその発言を全く理解する事が出来ない。
理解出来ていない状態なのにも関わらず、彼女は言葉を続けた。
「……言ったでしょ。あたしは尚也の知ってるあたしじゃないって。あたしは……この神社を通してこの世界に来た……別の世界の鈴鹿なの」
疑問が限界に達した。理解能力の限界を超えた。予想の斜め上を行く彼女の言葉に、一週間前と同様、その場に立ち尽くす事しか出来なくなった。
あまりにも間抜けな顔をしていたのか、彼女は俺の顔を指さすと、お腹を抱えて笑い出した。
その大袈裟な様子を目にし、ふと我に返ると、脳をフル活用し、彼女の言葉の意味を考える。必死に考え続けるが、その言葉の意図が伝わってこない。冗談なのか。彼女が狂ってしまったのか。本当の事実なのか。様々な選択肢を探り続けるが、答えは出ず。
その様子を見かねてか、彼女は付近の岩に腰を掛けると、ゆっくりと口を開いた。
「まあ、突然言われても分かんないか。しょうがないから、あたしが簡潔に説明してあげよう!……あたしがこの世界にやって来たのは約二週間前。丁度、前の世界が雨で、この世界が晴れの日かな」
どこか懐かし気で、寂し気な表情を浮かべながら、彼女は説明を続ける。
騒音が一切しない、自然の音のみが聞こえる環境だからか、彼女の話は真っ直ぐに耳へと入ってくる。
彼女の真剣な様子を目にすると、全てが本心からの言葉であるように感じる。
「あたしはその日、傘を忘れてさ。雨宿りできる場所を探して、走ってたの。その時に、この神社を見つけたんだ。まあ、この神社より大分綺麗なんだけどね。なんでか分かんないんだけど、初めて来た神社なのに、凄い目を奪われてさ。雨宿り出来るかもって、この神社に入ろうと思ったの。けどこれが、間違いだったんだ……」
軽く涙ぐみながらも、胸を押さえ、感情を抑えながら説明を続けていく。
無理はしなくて良いと言葉を掛けるが、それでもやめる事無く言葉を放つ彼女。俺は何も言う事が出来なくなり、口を閉じ、真剣に話を聞く。
「……雨も強くなって来たんで、あたしは走って神社に向かったの。そして、神社に入ろうと、鳥居を全力で潜った。その次の瞬間には、雨がやんでいたの。神社の様子も少し違くて、時間もおかしかった。……まるで、別世界に来たみたいだった。尚也、どう思う?」
突然の彼女の問いかけに、思わず口籠ってしまった。
落ち着いて、脳内で彼女の話をまとめていく。
雨が降った日。彼女はこの古びれた神社を見つけた。神社の鳥居を潜った次の瞬間。雨は消え、神社の様子も違う。恐らく、彼女は鳥居を潜った際に、別の世界であるこの世界に来たと考えているのだろう。
しかし、今までの話を聞いた限りでは、本当にその通りであるとは考えづらい。今までの話は全て、現実であり得なくもない話であるのだ。
鳥居を潜ると同時に、彼女自身の要因からか、その他の要因からかは不明だが、彼女は気を失った。そして、気付けば時間は過ぎ、雨はやんでいた。そんな可能性もあるのではないだろうか。神社の様子が違うというが、雨の日に見る建物と晴れの日に見る建物のイメージが変わるのは良くある話だ。
彼女を信じたい気持ちもあるが、話している内容が信じられなさすぎる。正直、こうして聞いているだけでは、本当のものであると決める事が出来ない。
深く考えたのちに、全ての話を聞いてから決める事にすると、話を続けるように彼女へ合図を出す。
「……それで家に帰った後、少し違和感があって、いろいろ調べたんだ。そしたら、ちょっとずつ違う事に気が付いたの。あたしの周りから、天皇陛下まで、人間や動物はあたしの記憶と同じ。だけど、数日前にあった事から、数千年前までにあった事まで、本当に少しずつだけど、記憶と違う所があるの。起きた年が違ったり、結果が違ったりさ。そして、考えた結果が……この世界はあたしの世界と違うって事。どうかな、長かったけど分かった?」
想像以上に現実離れの話。信じることが出来ない話。ふと、彼女の目を見ると、その瞳は真っ直ぐで、真面目な時の彼女の瞳そのもの。その様子から察するに、虚言を吐いているわけではないようだ。
しかし、それならば尚更理解できない。鳥居を潜った時に、少し起きたことが違うだけの、殆どが同じ世界に迷い込んだ。この出来事が現実で起こったとは思えない。まさにファンタジーの世界だ。
「えっと……ハッキリ言って分けわかんないわ。嘘ついてるようには見えないけどさ……なんか疲れてるんじゃないか?」
「信じられないかもだけど、本当に本当なんだって! さっきのサッカーとボウリングの話だって合ったでしょ! それにさ、尚也から言って来たんじゃん。あたしがあたしじゃないってさ!」
御もっともな意見である。
如何に現実離れした話であろうが、如何に理解できない話であろうが、俺が彼女に違和感を抱き、ここまで話をさせたのは事実である。
今まで幼馴染に感じてきた違和感は本物である。この事実だけは決して揺るがない。
そして、揺るがない事実から考えるに、彼女の話が全て事実であると考えるのが、この場で言う真理という物だろう。
何より、彼女が嘘をつくはずがないし、嘘をついているようには見えない。そうなれば、幼馴染である俺は信じる事しか出来ない。
「……信じるよ。けど、そしたら一つの疑問が出来る。……鈴鹿は……本物の鈴鹿はどこにいる?お前が別世界の……そうだな……この場合は並行世界か。並行世界の鈴鹿が、今の鈴鹿なら、俺の知ってる鈴鹿はどこにいる?」
「……分かんないけどさ。きっと、多分、あたしと入れ替わったんだと思うの。だから、あたしのいた世界にいるんだと思う」
「そうか……なら、大丈夫だな」
彼女の話した事から察するに、この世界と彼女がいた世界とでは大した差はないようだ。それならば、もう一つの世界というのにも俺や高弘や、鈴鹿のお母さんもいる。恐らく向こうでやっていけているはずだ。
実際、この世界に現れた鈴鹿は、今まで誰にもバレずに鈴鹿を演じてこれた。
そうなれば、問題はこれからの事だ。
「それなら……どうする?てか、どうしたいんだ?」
「どうしたいとは?」
「だからさ、この世界から元の世界に戻るのか。戻りたいのかって話だよ」
「あー……ね……」
彼女は少し悲しそうな表情を浮かべると、考えるような仕草をとった。そして、笑顔を浮かべながら口を開いた。
「そんなの、戻りたいに決まってるじゃん。みんな本物みたいだけどさ、この世界はあたしの知ってる世界とは違うしさ」
その言葉を発する表情は確かに笑顔だった。
しかし、どこかその笑顔は引きつっているようにも見える。
違和感に気づき、彼女の顔を数秒眺めると、照れたのか彼女は恥ずかしそうに顔を逸らした。その表情は普段と同じ、表情豊かな彼女だけが出せる、全力の表情だ。普段通りのその顔に、気のせいだったと考え、口を開く。
「そうか。なら、協力するよ。事実知っちゃったし、幼馴染だしな。それに、本物の鈴鹿に会いたいし」
「よし、じゃあ、何て言うか……協力よろしく!」
「ああ、こちらこそよろしくな。えっと……別世界鈴鹿? 並行鈴鹿?」
「別にあたしはあたしだし、鈴鹿でいいよ。よろしく、尚也! ……って、よく考えなくても、今更よろしくって!」
「まあ、変だな」
冗談交じりに会話を交わすと、強く握手を交わす。何度か交わしてきた握手と同じ感覚だが、中身の人格は違う。不思議な感覚に襲われながらも、この時、鈴鹿を元の世界へ戻し、鈴鹿を連れ戻そうと覚悟を決めたのだった。
「それでさ……どうする?」
彼女は橙色に染まる空を眺めながら、呟くようにそう尋ねた。
神社から自宅への帰路。彼女同様に空を眺めながら、動かない脳を軽く動かし、言葉に反応する。
「どうするって……こっちが聞きたいよ。取りあえず、今後の目標は二人の鈴鹿が元の世界に帰る事だろ」
「うん。……あ、けどさ、それと同時にやりたいことがあるの。よく考えなくても、この世界とあたしの世界の尚也たちは違う訳じゃん。だからさ、この世界の尚也たちとも沢山遊びたいなってさ。だって、奇跡的に会えたんだしさ。良いでしょ?」
「それくらいなら全然いいよ。もう一人の鈴鹿も、どうせ向こうの世界で楽しんでるだろうしな」
明るい性格の彼女の事だ。並行世界に行ったとしても、楽しく過ごしているのは確定的だ。
しかし、遊ぶのは良いが、問題はどうやって元の世界に戻すかである。鳥居を潜った次の瞬間には、既にこの世界に訪れていた。あの神社の鳥居に何かがあるのは間違いない。しかし、神社で何度鳥居に潜ろうが、変化は何一つとして起こらなかった。
考えられる可能性として、天候や時間、日付などの外的要因が合わさった際に、並行世界への扉が開くという可能性があげられる。元の世界に戻る方法として、当時の状況と出来る限り一致する状況を作り出し、同一の行動をさせるというのが一番可能性として高いだろう。
とは言っても、それには時間が必要不可欠。出来る事ならば、この夏の間に元の世界へ戻してあげたい所ではあるが……。
「……そう言えば、鈴鹿のいた世界とこの世界って、どれくらい違うんだ?」
「うーん、本当に大きい変化はないよ。技術や人は全く変わらないし。そうだなー……あ、例えば、今の総理大臣が就任した日が、この世界の方が三日遅かった! あとね、学校の授業のやってる内容が、この世界の方が一回分早かったかな!」
大臣の就任日が三日遅い。授業内容が一回分早い。
彼女の言動から察するに、この世界と並行世界で、起こった出来事の時間が一律でずれているという事はないようだ。あるとしても、ずれている時間はランダム性がある可能性が高い。
「なるほどねえ。……あれ、ということは一回分授業受けてなかったってことだよな。よく授業内容分かったな」
「まあ、そこはあたしだからね。成績優秀学生ですから!」
「本当に成績だけは良いからなー……むかつくわー」
「なんでよ!」
他愛ない会話を交わしながら、歩きなれていない道を進んで行く。
空が橙色に染まり切っている時間帯なのにもかかわらず、多少の暑さが周囲を包んでいる。汗は出ないものの、扇風機が欲しくなる気温。その気温から、夏本番に大きく近づきつつあるのが理解できる。
去年のこの時期は、幼馴染三人で夏休みの計画を立て、妄想を膨らませていた。一度しか存在しない高校生活を楽しむべく、綿密に計画を立て、全力を尽くし、その一瞬を遊ぶ。自然と、今年も同じような一年になると想像していた。
それがまさか、現実とは思えない、不可思議な現象によって潰されるとは夢にも思わなかった。
「……人生何が起こるか分からないなあ。……そうだ、遊びたいって言ってたよな。それなら、毎年恒例の祭りに行かないか?もし帰るのが結構早かったら、別の所のでも良いからさ」
「あ、やっぱりこっちの世界でもやってたんだ! 毎年恒例、幼馴染三人での夏祭り参加。良いね、やろうよ! 思い出作りにさ」
今日一番の笑顔を浮かべると、彼女は軽いスキップで歩き始めた。夏休みに行くのが余程嬉しいのだろう。
分かりやすく、単純な彼女に飽きれながらも、内心では少し楽しみに感じつつ、彼女の後を追って歩く。
俺達は毎年、夏休みの終わりに夏祭りへ行っている。小学生時代から続く、幼馴染イベントの一つだ。大抵は近所の広い公園で行われる、巨大な夏祭りに参加し、夏を締めくくっている。夕方に集合し、屋台で夕食を済ませ、遊んだのちに、巨大な花火を眺める。夏の終わりに行われる、最高の流れだ。
「楽しみだなー、夏祭り!」
「その前に、どうやって戻るかを考えてからだけどな」
「分かってますよー。けど、何か考えでもあるの?」
「全くないよ。まあ、普通に考えたら、こういう意味分かんない出来事を調べるためには図書館に行くのが一番だろ。……あ、あとさ、高弘にはどうする?やっぱり伝えるか?」
「あー、いや、高弘には何も言わないでいいよ。ほら、心配させちゃうとあれだしさ」
「あー、確かにそうかもな」
彼は大抵の状況では頼りになり、奇想天外な方法ではあるが解決してくれる。そういう男だ。普段なら、彼女自ら彼の力を借りに行き、三人で問題を解決する。
しかし、状況が状況。相談できないという気持ちも良く理解できる。
そもそもとして、俺達の中だとしても、彼がこんな現実離れの話を信じるとは到底考えられない。ただの冗談だと考え、笑って適当に返すだけだろう。
それならば、彼には話さず、二人で考えるのが合理的。彼には悪いが、別世界の事は内密にする事にしよう。
今後の方針を考えていると、見覚えのある分かれ道に到着した。普段、彼女との待ち合わせ場所に使っている分かれ道。分かれ道を別方向に進んだ所に、互いの家は建っている。
「あ、明日学校休みだったよな。善は急げって言うし、明日図書館に行かないか?」
「あー、明日部活あるんだよね。もしかしたら、午前だけかもしれないから、午後なら行けるかも」
「それじゃあ、俺は先に図書館に行ってるよ。午後時間が出来たら来てくれ」
「りょーかい。それじゃあ、またね」
「おう、またな」
別れの挨拶を交わすと、彼女は小走りで家へと向かいだした。小走りと言っても、身体能力が高い事もあり、十数秒立った頃には小さく、殆ど見えなくなっていた。
彼女を見送ったのちに、彼女とは別の道をゆったりと進んで行く。異常と思えるほどに様々な出来事があった今日一日を振り返りながら、空を見上げ、一歩ずつ歩き続ける。
合間に夕飯のメニューを考えていると、体感時間は数分で家に到着した。俺は普段通りの家に特に何も感じず、家の扉を開け、家へと入るのだった。
時間は午前と午後の境目。丁度、お腹の虫が鳴き始めた頃。静寂に包まれている室内で、涼し気な扇風機の風に当たりながら、木製の椅子から動かずにいる。
大量に積まれた書物の中から、勇逸開いていない古びれた書物を手に取り、ページを捲る。数年以上前から貸し出されているからか、ページの至る所には飲料が零された跡や、鉛筆で落書きの跡が残されていた。書物の状態から、どこか懐かしさのようなものを感じつつ、目的となる方法を探すべく、ページを読み取っていく。
神社とは、日本固有の宗教である神道の信仰に基づく施設。
様々な偉人や祖神が霊として祭られており、日本全国で数十万の神社が存在すると言われている。
祭祀対象は神道の神であり、八百万と言われるように、神聖とされていた山岳や河川から、実在した人物まで、多種多様である。
神は目に見えないものであるとされ、神社内でも神の形は作られなかった。
そのため、神社の社殿の内部のご神体は神が仮宿する足場とされた御幣や鏡、ただの空間である事もあった。
神社内部は神聖な場所とされており、今現在までその考えは引き継がれている。
神社の入り口にある鳥居は、神域と呼ばれる神社の内側の神聖な場所と、俗界と呼ばれる外側の人間の暮らす場所との境界を表している。
鳥居は神社へ通じる門や、神社のシンボルといった役割のほか、神社の中に不浄なものが入る事を防ぐ、結界としての役割もあると語られている。
神の世界と人間の世界を繋ぐことから、鳥居には……。
続く言葉を知るべくページを捲るか、次ページは黒いマーカーペンで塗り潰されており、続きの言葉を知るのは困難だ。恐らくは誰かの悪戯だろうが、公共物である図書館の本にする事としては質が悪い。
続きを知れなかったために、悪戯へ怒気を持ちながらも、本をまとめ、内容を整理する。
神社や鳥居に関する書物を読み漁った結果、神社や鳥居に加え、神社内での礼儀など、様々な知識を得る事には成功した。しかし、目を通した書物には、鳥居を潜ると別世界へ移動すると言った内容は書き綴られていなかった。
実際の所、初っ端から手詰まりという状況。図書館ならば何か情報があると考え、勢いに任せて来てみたは良いものの、進歩はゼロに近い。
当然と言えば、当然の結果。鳥居を潜った次の瞬間、並行世界に迷い込んでいたと書かれている書物が存在するとは思えない。
現実とは思えない現実の事件。これを解決するためには、どのような手段を用いるべきなのか。全く考え付かない。
貴重な休みの午前全てを消費して得た結果が、使用することがないであろう神社の知識のみ。
並行世界に関する知識は全く得られなかった結果に、思わず気分も下がっていく。
「……まあ、そんな載ってたら、誰でも並行世界に行けるもんな。……はあ、いきなり詰まったな。どうするか」
「詰まったって、何に詰まったんか?」
背後からの聞き覚えのある声に、驚きながらも振り向くと、図書館が全く似合わない、幼馴染の男が仁王立ちしていた。
俺の悩みを全く知らず、何も考えていなさそうなその顔を目にすると、自然とため息が零れた。
「……だからさ、何で仁王立ちなんだよ」
「良いだろ、俺の中で今流行ってるんや」
「変な流行りだな。てか、何で図書館にいるんだよ。珍しすぎるぞ」
「いや、それがさ。この間、理科の宿題を連続でやってなかったら、死ぬほど怒られてな。図書館で理科系の本借りて、内容まとめた物を出さないと、成績一にするって言われたんよ。酷ない?」
「いやまあ、自業自得だな」
理科の教師は温厚で、簡単に最高成績をくれると有名な教師である。
優しさの塊とも呼ばれる教師を怒らせるとは、宿題忘れ以外にも様々な事をしでかしたのだろう。大体予想すると、連続で授業に遅刻した事、授業中居眠りを続けた事のせいだろう。
だらしのない彼に飽きれていると、彼は不思議そうな顔で口を開いた。
「てか、お前は何やってるん? お前こそ図書館なんて珍しい」
「あー、それがさ……」
理由を話す直前で、自らの口を塞ぎ、言葉の放出を抑えた。
危なかった。自然な流れで並行世界や鈴鹿の事を話しそうになっていた。昨日、鈴鹿と彼には話さないと約束していた事を忘れかけていた。
少し時間を置き、彼にはどんな理由で図書館を訪れたと話そうか考える。数秒考えこんだのちに、教えられるギリギリの範囲で、嘘交じりに言葉を発する。
「……俺は専門科目の宿題だよ。神社と鳥居の意味とか、並行世界とかについて調べてるんだ」
「へー、良く分からんけど難しそやな」
「まあな、少し詰まってる所よ」
「ほーん。じゃあさ、気分転換に飯でもどうよ? どうせなら、そこの女も一緒にさ!」
彼の指さす方へ目をやると、見知った女が笑顔で近づいてきた。
今日、俺が午前を潰す事となった理由を作った張本人。ここ数日間、俺を悩ませ続けてきた、もう一人の幼馴染の登場だ。
彼女は机を挟んだ向かい側に立つと、机に手を置き、俺達と均等に近い距離に、顔を近づけた。
「二人ともおはよ。尚也だけだと思ったけど、高弘もいたんだ」
「おう。鈴鹿は飯食ったか? 今から尚也と飯行こうって話してたんやけど、お前もどうだ?」
「お、良いねー。それだったら、いつものラーメン屋行こうよ!」
「良いな、賛成だ。けどその前に、本片付けてくるよ」
「あ、それなら俺らも手伝うよ」
長時間椅子に座ってたことにより、固まり始めた体を解すべく、天井目掛けて伸びをする。その後、軽く欠伸をした後に、山の様に積み重なった古びれた書物の山を三分割し、三人それぞれで本棚へと戻し始める。
積み上げる際は、それだけでもそれ相応の時間を用いたが、今は一人ではない。二人の力を借りたことにより、四分の一程の時間で全てを片付ける事に成功した。
全ての片付けを終えたのを確認し、図書館を出ると、太陽がほぼ真上に位置しているのが視界に入った。図書館に入る前と比べると、より高く、より明るくなっているのが感じ取れる。そして、太陽が頂点に近いという事は、その分熱が送られてくるという事だ。室内で涼し気な空間に居座っていた体は一気に熱されていき、自然と汗も流れだす。
暑さに嫌気が指しながらも、空腹を満たすべく、通いなれているラーメン屋へと足を動かし始める。
暑く、考える事すらも苦しい空間。
一人ならば、暑苦しく、拷問ともとれる時間だろう。しかし、幼馴染二人の楽し気な会話により、自然と笑みは零れ、暑さも多少ではあるが和らいでいるように感じる。
仕舞には話し込んでいる内に、行きつけの店に到着した。通常ならば十数分かかる所だが、体感時間は五分ほどだ。
軽く店内の様子を伺い、空席が存在することを確認すると、スライド式のドアを勢い良く開く。それと同時に、店内の天国の冷気が俺達を襲った。想像を絶する気持ちよさに、思わず今日一番の笑みが零れる。
話し込み、暑さへと意識が離れると言っても、暑いものは暑い。辛い暑さの後のキンキンに冷えた冷気は、他にない幸せを感じる。
外へ冷気が漏れないよう、滑らかな動きで店内に侵入し、ドアを閉じると、店内に充満するラーメンの良い匂いに食欲をそそられながら、付近のテーブル席に腰を下ろす。店員からお冷を受け取ると、慣れた動きで、普段通りのメニューを注文する。
俺達は中学生の頃から、このラーメン屋に通っている。
ラーメン星。親子が経営する個人経営のラーメン屋で、とんこつラーメンを中心に、多種多様なラーメンを販売している。基本的には、俺が特製とんこつラーメン、鈴鹿が塩ラーメン、高広が魚介ラーメンを注文している。今日も普段と同様、それぞれが好みのラーメンを注文。
授業内容やネットニュースなど、最近の出来事を普段と同様、軽口で話していると、物の数分でラーメンは届けられた。
近距離で漂って来る食欲を誘う香りに、自然と涎が分泌されていくのを感じる。
割り箸を綺麗に割るのに失敗しつつ、軽く手を合わせたのちに麺を啜る。
食べなれた味。しかし、いつ食べようとも、最高の味を味わえる。
「うーん、美味しい! やっぱり、ここのラーメンは最高だよ!」
「うん。ここのとんこつはマジで美味いわ」
「だな! ……いや、なんか良かったわ!」
「ん、何がだ?」
「ほらさ、なんか最近二人ともギクシャクしてたじゃん。大丈夫かなーって思っとったけど、仲直りしたみたいで良かったわ!」
「高弘……」
笑顔で話す高弘の言葉に、自然と箸が止まる。
何も考えていないように見える彼だが、内では俺達の事を考え、仲裁者になり、元通りの関係になるよう努力していたようだ。彼に心配をかけてしまった事への罪悪感や、影で動いてくれたことに対する嬉しさで、言葉で表せない言葉が、俺の中を渦巻いている。
再び箸を動かすと、ラーメンを口に運びながら、軽口で答える。
「いまさら何言ってんだよ、大丈夫に決まってるだろ。今までだって、何回も喧嘩しては、何回も仲直りしてきたじゃんか」
「確かに、それもそうかもな!」
彼の普段通りの様子に、胸が締め付けられるような痛みが走る。
愚直で、少し知能指数が低い所があるが、真正面から話してくれる彼。彼は普段から嘘をつかず、正直に話をする。そんな彼に俺達は今、嘘をついている。
個人的本音を言うならば、彼にも二人の鈴鹿の事を共有したい。幼馴染三人で、この巨大な事件を解決していきたい。しかし、張本人である彼女の意見を無下にする事は出来ない。
混沌とする心中を何とか落ち着かせ、出来る限りの範囲で、彼が事実を知った場合、どのような現状の打開策を聞くべく、言葉を放つ。
「……なあ、これは俺が今、適当に考えた事なんだけどさ。神社の鳥居を潜ったら、一瞬にしてこの世界とそっくりな並行世界に移動していた。ってことが、現実であると思うか?」
「はあ?急に何言いだすかと思えば、ホントに何言ってるねん。鳥居を潜って、一瞬にして移動するか。……うーん、知らん!」
愚直な彼の言葉に落胆しながらも、当然の事だと考え、忘れるようにと告げた。今のは質問が悪かった。突然、現実離れの妄想のような話を聞かされても、答えは否定か無回答。
突然の質問では、そうなるのは必然である。
「……あ、けどさ、それって、なんか神隠しみたいだな。いや、ちょっとってか、大分違うか!」
「神隠し……いや、確かに違う。全く違う。……けど、一部は似てるかも」
「お、だろ! 突然いなくなったり、あとほら、神隠しって神社で起こるイメージあるやんか。やば、俺天才かも」
「いや、それはないけど……確かにそうかもしれない」
今回、二人の鈴鹿に起こった出来事と、噂に聞く神隠し。
実際の内容は大分違う。しかし、現実とは思えないという一点においては、深く結ばれている。
そして、彼の言う通り、神隠しと神社の関係性。
人が突如として、その世界から消え去るという出来事。
この二点において、上手くいけば結び付ける事が可能である。
出鼻を挫かれた様に考えていたが、何も知らない彼のお陰で、大きな前進でスタート出来る可能性が出現した。夢物語ともとれる出来事が起こったならば、夢物語のような言い伝えを元に考えれば良い。
多少考えた末に顔を上げると、彼女と目が合った。
その表情から察するに、彼女も俺と似たような考えに至ったようだ。
俺達は互いに軽く笑顔を浮かべると、再びラーメンを口へ運び始める。その様子を目にした彼は、何事か理解できずとも、雰囲気を楽しみ、笑顔でラーメンを食べ進めた。
チリンチリンと、夏の風物詩たる涼しげな音が部屋内に響き続ける。耳を澄ますと、アブラゼミの鳴く声も小さく聞こえてくる。
迫りくる夏本番に様々な感情を持ちながら、氷で冷やされた麦茶を口へと運ぶ。音を立てながら喉を通る麦茶に、至福の感覚を感じていると、一足先に飲み終えた彼女がノートを広げた。
「それでは、これより調査結果発表に入ります。準備は良い?」
「……お茶美味し。良いぞ、数日間の成果を発表していこうか」
軽く答えると、数日間で得た知識が書き綴られているメモを取りだす。適当にバックの奥底で保存していたからか、数日前に購入したばかりの新品なのにも関わらず、表紙にはいくつもの汚れが目立っている。
汚れを軽く拭き取りつつ、メモを広げ、話し合いに集中する。
「さて、この数日間、あたしたちは遊んだり学校行ったりしながら、並行世界や神社、そして神隠しについて調べてきました! まずはその成果を、あたしから発表します!」
「鈴鹿さんなら、凄い情報ゲットしてきたんだろうなー。ほとんど解決出来るくらいに情報得たんだろうなー」
「任せなさい! あたしの数日間の成果が……これだ!」
自信ありげにノートのページを捲る。
得た情報を確認するべく、ノートへ顔を近づけるが、そこには白紙のページが広がっているのみ。一文字すら書かれていない、新品同様のページが広げられているだけだった。
ページの意味を理解できず、頭上にはてなマークを浮かべていると、彼女は申し訳なさそうに口を開いた。
「いや……そのですね。ソフト部のインターハイが近づいててですね、その練習で忙しかったんですよ。なので……その……すみません」
「……あんなに自信満々だったのに、本当に何もないのか?」
「うん、全く新しい情報はない!」
何故か胸を張って言い放つ彼女に溜息をつきながら、机上に広げられたノートをしまうように指示を出す。
熱心に取り組んでいる部活の大会が近いならば、多少は仕方がない所もあるのだろう。今回は彼女の所業に目を瞑り、俺が作成したメモを前に出す。
メモには汚く、大抵の人物が読み取れないであろう文字で、隙間なく情報が書き記されている。
中でも目立つのは表で纏められた、数日前から一週間前までの天気。上段には並行世界の一週間分の天気、下段にはこの世界の、現在世界の一週間分の天気が纏められている。
これは彼女が覚えている限りの並行世界の天気情報。そして、天気予報アプリを使用し、彼女が覚えている期間と同様の期間の現在世界の天気を調べ上げた現在世界の天気情報。この二点を纏め上げ、規則的な箇所はないか調べた物である。
「さて、まず最初にだが、この表は並行世界と現在世界の天気を比べたものだ。何か感じる事はあるか?」
「んー……んー?」
彼女は深く考え込むが、表で規則的な箇所を見いだせずにいる。彼女は成績優秀。勉学においては学校内で一二を争えるレベルの知識を所持している。しかし、勉学以外においては、意外にも知能指数が高くなく、どちらかと言えば低い。彼女と十分に親密でなければ、彼女は頭脳明晰だと考えるだろうが、実際は大抵がポンコツである。
彼女は必死に表を眺めるが、熱心に眺めた所で、何かが変わる訳でもないようだ。
彼女が眺める表には並行世界では左から、晴れ、晴れ、曇り、曇り、晴れ、晴れ、雷雨。現在世界では左から、曇り、曇り、晴れ、晴れ、雷雨、曇り、快晴と記入されている。
初見の際、俺もその規則性には気づかなかった。しかし、数日間表と睨めっこを続けた末、一つの規則性に気が付いた。
「二日。二日後なんだよ。よく見てみろ、俺達が現在いる世界、現在世界の天気で曇りが来た二日後に、並行世界でも曇りが来てるんだ」
「あ、確かに。……あれ、よく見たら、その次の曇りも、晴れも、晴れも、雷雨も!」
「そうだ。規則性なんてないと思ってたけど、よく見たら、現在世界の今の天気が、並行世界の二日後の天気になるっていう規則性があるんだ」
現在世界の天気は二日後の並行世界の天気。一週間分の天気結果を纏め、推測した規則性。
規則性が事実である確証はなく、証明する方法も存在しない。完全な推測である。しかし、並行世界の天気を予測できる可能性が発生したのは大きな成果だ。
「だけど、天気が分かったからって何かあるの?」
「もちろんだよ。今現在、何故鈴鹿が入れ替わったのかは分からない。だから、一番いい方法として、当時の状況を再現する方法があるんだ。その一環で、当時の天気の状況を再現できるようになったのは結構でかい」
当時、彼女の記憶では並行世界の天気は雷雨。この世界の天気は雲一つない快晴。
つまり、天気の規則性を利用すると、二日前に雷雨、当日に快晴。この条件が揃っていた場合、当時同様の天候を再現可能となる。
天候を再現可能になった事により、残す再現要素は時間、行動、所持品など。多数の要素は残っているが、時間を掛ければ解決可能な物ばかり。また、天候に加え、再現によって事件解決に至らなかった場合を考え、他の情報も入手してきた。
彼女がメモを確認し終えるのを目にすると、汚れたページを一枚捲る。
新たなページにも前頁同様、大抵の人物が読み取れないであろう文字で、隙間なく情報が書き記されている。前頁と違うのは、特に表と呼ばれる物は書き込まれておらず、人名や地名が目立つように纏められているという点だ。
「次になんだが、高弘が言ってたみたいに、神隠しとかについて調べてきた。図書館とか調べても何の情報も得られなかったんだけど、ネットで調べたら色々分かった事がある」
理解しやすいよう説明しつつ、バックへと手を入れ、荒々しく内部を探る。隅々まで手を伸ばしたのちに、目当ての物が手中に渡ったのを理解すると、強引に一枚の紙を引っ張り出す。図書館から借り出し中の書物に潰されたからか、様々な折り目の入った紙を伸ばしつつ、メモ横に紙を広げる。
紙はモノクロで印刷されており、ここ数十年間、地元で発生した未解決の失踪事件一覧が表にされている。
「神隠しって事は失踪として考えられてると思って、数十年間の失踪事件を調べてみたんだ」
「なんか、思った以上に失踪して見つからない人っているんだね」
「ああ、そうだな。俺も調べてみて初めて知ったよ。地元だけで、こんなにいるなんてな」
表には千九百八十五年から現在まで纏められており、大体毎年、確定で失踪事件が最低一件は発生している。老若男女問わず失踪は起こっており、どの事件も今現在まで解決していない。
失踪した人物が何故消えたのか、どこへ消えたのか、全てが謎に包まれている。生まれてから今日まで暮らしている地元で、これだけの事件が発生している事を知ると、考え深いものがある。
「……それでなんだが、千九百八十五年から二年ずつ、一人の失踪者に線引いてるだろ?その人たちの最後の目撃場所を見てほしいんだ」
「どれどれー……神社近くの川、神社近くの公園、神社。……神社ってもしかして、例の神社の事?」
「そうだ。調べてみた所、分かる範囲でも二年に一回、例の神社近くを最後の目撃地にして、失踪者が出てるんだ。定期的に、一定の場所付近でだ。おかしいと思わないか?」
「確かに……こんなの、何かあるとしか思えない。実際に、あたしたちに起こった事を思うと……なんか、偶然とは思えないね。本当に、神的な力が働いてるとしか……」
彼女の言う通り。これが偶然なんて事は考えられない。最低でも千九百八十五年から二千二十一年までは続いている。
この期間、同一の人物が人攫いを行っているという可能性も僅かに存在するものの、約三十年間という長時間、定期的に、一定の場所付近で犯罪行為をするとなると、市の警察に逮捕されていないとは考えられない。
彼女達の身に起きた出来事から想像するに、失踪者の身に起きた出来事は、今回の事件同様の出来事か、似たような人知を超えた出来事である可能性が極めて高い。まさに、神隠しと言って過言ではない出来事。
「まあ、とは言ったものの、実際に失踪した人に鈴鹿が体験したことが起こったかとか、人知を超えた神隠しにあったかどうかは分からない。そこでなんだが……どうする?」
「どうするって……え、何かあるんじゃないの?」
「いや、俺が調べたのはここまでだ。失踪した人についてとか、神隠しとかは分からなかった」
「ええ……駄目じゃん」
呆れ返ったように顔をする彼女に軽く殺意を覚えながらも、心を落ち着かせるべく、麦茶を喉に流す。
彼女に言われたくはないが、彼女の言葉は事実でもある。
あの神社に何かがある可能性や、彼女と同様の出来事が起こった人物が存在する可能性が高いというのを発見できたのは進歩ではある。しかし、それを発見したからと言って、現状として何かが変わるという訳ではない。
「……あ、そうだ! 待って、あたし良い事考え付いたかも!」
思いついたかのようにスマホを取り出すと、慣れた手つきで何かを調べ始める。
突如として動き始めた彼女を眺めながら、再び麦茶を口に含む。十数秒かけ、麦茶を飲み干すと、欠伸を交えながら彼女を眺め続ける。
こうして眺めていると、彼女は鈴鹿にしか見えない。
別世界の鈴鹿なのだから、当然と言えば当然だが、鈴鹿と瓜二つで、俺の知っている鈴鹿でないと考えると、やはり変な感覚になる。
思い耽っていると、彼女は調べ終えたのか、スマホの画面を向けてきた。
画面内ではトークアプリが開かれており、画面上部には近所グループと表示されている。参加人数は十数名で、内数名は見覚えのある名前で登録されている。
「尚也のお母さんは知ってるだろうけど、近所のお年寄りに何かあった時、一早く行動できるように、近所のグループを作ったんだ! 近所で連絡を取る手段も欲しかったらしいしね」
「へー。そのグループがどうかしたのか?」
「知ってるだろうけど、あたし結構人と話すの好きでさ。グループきっかけで、近所のおばあちゃんやおじいちゃん達とも仲良くなったんだよね。そこで知り合ったんだよ。神主さんとね!」
「神主さんって……例の神社のか?」
「そうよ。だからさ、神主さんに直接聞いてみようよ。尚也が調べた事とか含めて、神社に何かあるのかーってさ。もし神隠しみたいな伝説的なものなら、神主さんこそ知ってそうじゃん!」
「なるほど……」
例の神社を取り仕切る神主に、直接話を聞く。
話を聞きに行くのは簡単だが、実際に話を聞きだすのは相当難易度が高いと考えていた。
何の繋がりもない状態、初対面の状態で神社で神隠しが起きていると騒ぎ立て、疑問を投げかけ続ける。普通ならば、頭のおかしい者と決めつけられ、厄介払いされるか、警察を呼ばれるなどの対応をされ、話を聞く事すら出来ない。
しかし、彼女が神主と友好な関係ならば、話は変わってくる。
まさしくファンタジーのような話ではあるが、真面目に話は聞いてくれるだろう。それに加え、俺が纏めた失踪者の資料により、神主が誤魔化そうとしようが、そう簡単には言い逃れが出来ない状況を作り出せる。
今の状態なら、神主に話を聞きに行くというのも良い手かもしれない。
「うん、今ならいいアイデアだと思う。神主なら神社の伝説とかも知ってそうだし、神隠しについても、何かわかるかもしれない。てか、神主と仲良いなら先に言ってくれよ」
「しょーがないじゃん、言われなかったんだからさ。……んー、時間的に、今なら神主さんいつもの所にいるかも。どうする、今から行く?」
「そうだな。この後は予定もないし、行ってみるか」
互いの意見を一致させると、荷物を纏め、家を出る。
長年、共に地元を駆け巡った自転車に腰を下ろすと、後ろに鈴鹿が跨った。
「おい何やってんだよ、自分の自転車あるだろ?」
「いいじゃん、久しぶりに二人乗り! ……あーあ、あたしが居なかったら、神主さんと話せなかったかもしれないなー」
「……ったく、ちゃんと掴まっとけよ」
「うん!」
元気の良い返事で答えると、彼女は腰の辺りに手を回す。完璧に掴まっている事を確認すると、力一杯にペダルを漕ぐ。
想像以上のペダルの重さに、思わずバランスを崩しそうになりながらも、全力で足を運び、夏の道路を進んで行く。
「はあはあ……はあ……疲れ……た…………」
目的地に到着すると同時に、全体力を消費し切ると、地べたに座り込んだのちに息を整える。
背に高校女子一名を乗せながら、十数分間自転車を漕ぎ続けるというのは、帰宅部からすれば拷問と言っても差支えのないレベルの運動。足腰が限界を迎え、体力はそこを尽きるのが当然だ。
「全く……だらしないよ、尚也。ちょっと自転車漕いだだけじゃん」
「おま……帰宅部には……きつ……」
「もっと体力付けないと、女の子にはモテないよー?……さて、早く神主さんに会いに行くよ!」
彼女は軽くそう告げると、古びた建物へと歩いて行く。帰りは彼女に運転させようと脳内で考えながら、ゆっくりと彼女の後を追って行く。
神主がいる建物は神社から数分間歩いた先にある。建物自体は古い木造建築。建物に付属している庭には大量の雑草が生え茂っており、外観から察するに、相当昔に建築されたと考えられる。
彼女が建物の戸を叩くと、十数秒後、建物内から一人の老人が現れた。老人は白髪で、在り来たりな丸眼鏡を装着しており、装束で身を包んでいる。
彼は驚いた顔を見せると、すぐさまニッコリと笑い、小さな口を開いた。
「おやおや、秋元さんではございませんか。久しぶりですね」
「はい! 久しぶりですね、中島さん!」
「それと……あなたは確か、秋元さんの近所に住んでいる……」
「あ、尚也です。高橋尚也です」
「高橋さんですね。私は近くの神社で神主をやっている中島です。今回はどういった要件で?」
「あ、実は中島さんに聞きたいことがあるんです」
彼女の言葉を聞くと、長話になる事を察したのか、彼は建物に入るように促した。断る理由もないため、俺達は彼の後を歩き、建物内へと足を踏み入れる。
建物内へ入ると同時に、懐かしさを感じる匂いが鼻を香った。ずっと嗅いでいたいという訳ではないが、嗅いでいるとどこか落ち着いてくる。それはまるで、お爺さんの家で感じる独特な匂いと似ている。
何故、ご老人の家からは似たような匂いがするのかと疑問に思いながらも、使い古された廊下を一歩ずつ進んで行く。
一歩踏み出すと同時に聞こえる、ギシギシという床のきしむ音に不安に駆られていると、彼は一枚の戸の前で足を止めた。
戸を開き、部屋へ入ると、そこは広々とした畳の部屋。あるのは木製の机一枚のみで、他は畳が広がっているのみ。
促されるままに、机一枚を挟み、彼の向かい側に正座すると、音を立てないよう、ゆっくりと緑茶を差し出した。
それを有難く受け取ると、俺達は同時に緑茶へと口をつける。
「良い緑茶でしょう。程よく渋く、旨味も味わえる。最近は、全国の緑茶を集めるのが趣味でしてね。歳をとると、体を要する趣味は出来なくなりますが、新たな趣味の発見もあります。これが意外と良い物なのですよ」
「へー、凄く良い趣味ですね。この緑茶、凄く美味しいです!」
「それは良かったです。秋元さんは心から喜んでいるように見えて、こちらとしても嬉しいですよ」
ニッコリと優しく笑う彼の表情は、どこか安心する。自然とこちらも笑顔で、優しく接することが出来る。
軽く世間話をして過ごし、緑茶の残りが半分を切った頃、本題へ入るべく、バックから資料を取り出す。
表情から本題に入ろうとしている事を理解したのか、彼は優し気な笑顔を止め、真剣な眼差しで、俺から口を開くのを待ち始めた。
「それでなんですけど……えっと、まず聞きたいんですけど、中島さんはいつからこの街で神主をしてるんですか?」
「そうだね。ハッキリは覚えていないけど、ここの神社は千九百九十年くらいからかね」
「なるほど。……少し、嫌な話になるかもしれないんですけど、丁度その年に起こった、失踪事件をご存じですか?」
「失踪事件?」
「はい。他にも、二年後、四年後にも起きてるはずなんですけど」
彼は深く考えるような仕草をとると、記憶を探るかの如く、考え始めた。
風貌から察するに、年齢は八十代前後。数十年前の出来事を思い出すのにも、それ相応の時間が必要なのだろう。
彼は十数秒考えた末に思い出したのか、語るように話し始めた。
「思い出しましたよ。神主になって、すぐに起きた出来事ですのでよく覚えています。確か、神社のすぐそばで子供が行方不明になったんですよね。その子供は今でも見つかっていないとか。……全くもって、痛ましい事件です」
「……はい。それでなんですけど……感じを悪くしたらすみません。神主さんは事件について、何か知ってたりしませんか?」
「私がですか?……残念ながら、思い当たる節はありません。警察が事情聴取に来たこともありましたが、何の力にもなれず……」
「そうですか……」
一見すれば、彼は何一つ嘘をついておらず、事実として何も知らないように見える。しかし、それだけで話を終わりにされては困る。情報量が不足している現在、どれだけ微かな情報でも欲しい。
少しでも情報を得るべく、持参した資料を見せながら、失踪事件について、何か知っている事はないかと、一つ一つ質問を続ける。
しかし、彼の答えは知らないの一点張りだった。
十数分にも亘る質問は、何の成果も得られないという結果に終わった。
「……なんだかすみませんね、何の力にもなれないみたいで。私としても力になりたいのですが、知らないものは知らないので……」
「いやいや気にしないでください。あたしたちは聞いて貰えるだけでも嬉しいですから!」
「そうですよ。こちらこそ、不快な思いをさせるような質問ばかりすみません。……あの、もう一つだけ良いですか。中島さんは……神隠しとかって信じますか?」
自棄になりながらも投げかけた質問に、彼はこれまでで見た事もないほどに動揺して見せた。何かあると感じ取ると、俺達はここぞとばかりに、何か知らないかと、質問を続ける。
彼は暗い表情を浮かべながら、静かに立ち上がると、窓へと近づいて行く。
「……難しい質問ですね。神を祀る者として、神を信じるのは当然です。しかし、神隠しは何とも言えません。……これは私の考えなのですが、神は見守る者であり、一人一人の人間に、深く関わる事はないと思うのです」
「深く関わる事はない?」
「はい。わざわざ、何か深い理由があって、人間を連れ去るなど、ある訳がないのです。何故ならば、神は我々に深い興味も、関心もないのですからね。……しかし、もし、本当に神隠しが存在するとしたならば、それはきっと神の戯れでしょう。高橋さん、あなたは小さい頃、蟻の住処の穴を潰した事はありませんか?」
「まあ、子供の頃なら」
今から十数年前。幼稚園に通っていた頃、友と公園で遊んでいた時、ふと蟻の巣に繋がる穴を見つける事があった。
働き蟻は様々な物を集めると、それぞれの穴へと物を運んでいく。
小さい頃は、それに対して深い感情を持つ事なく、ただ暇つぶしに、穴を砂で潰したり、石で塞いだりと、散々な仕打ちをしていた。
今となると、申し訳ない事をしていたと感じるが、幼少期ならば誰しもが体験するであろう出来事。仕方がないと言えば、仕方がない。当然と言えば、当然ともいえる出来事でもある。
「もし、神隠しが存在するとしたならば、人間が蟻にしているのと同様、ただの暇潰しのようなものでしょう。いや、暇潰しどころか、気まぐれですらないのかもしれませんね」
「暇潰しですらないって……中島さんは、どうしてそんな風に思うんですか?」
「……また、難しい質問ですね。長年神主を続けてきて、何となく至った考えだからですかね。まあ、飽くまで私個人の考えですから、お気になさらず。おや、いつの間にか結構な時間が過ぎていたようですね」
壁に立てかけられた時計へ目をやると、時計の針は四時の方向を指していた。
話に夢中になるあまり、二時間以上滞在していたようだ。
「すみませんが、私もこの後予定がありましてね、今日はこれでお開きという事で、よろしいでしょうか?」
「あ、はい。今日はありがとうございました」
「いえいえ。私も久しぶりに若者と話せて楽しかったです。是非また、お越してください」
軽く言葉を交わすと、ギシギシと音を鳴らす廊下を慎重に進み、彼に見送られながら建物を出る。そして、自転車を押して歩きながら、以前神社から帰宅したのと同様の帰路を進んで行く。
十六時を過ぎているのにも関わらず、周辺は非常に暑い。日中程ではないが、額を一粒の汗が流れているのが分かる。暑さのせいか、周囲から騒音が聞こえないせいか、アブラゼミの鳴き声をより大きく感じる。
夏を感じながらも、状況を整理するべく、静かに口を開く。
「何て言うか……そこまで大きな成果はなかったな」
「だね……いやー、神主なら何か知ってると思ったんだけどな」
「よく考えたら、失踪事件について何か知ってれば、警察にも言ってるよな。取りあえず、切り替えて行こう。失踪事件と神隠しについては詳しく分かんなかったけど、当時の状況を再現するのには必要ないしさ」
失踪事件と神隠しの関係性が判明せずとも、彼女が元の世界へ戻れれば問題ない。
今現在、当時の状況を再現する事により、並行世界と行き来するというのが、彼女を戻せる可能性が最も高い選択肢である。
無理に他の方法を探し、彼女に起こった現象の判明を急ぐより、可能性が高い方法を取る方が効率的である。
「そうだね。上手く状況を再現出来れば、元の世界に帰れるかもだし。……そう言えばさ、中島さんが言ってたことどう思う? 神隠しの話」
「あー、暇潰しとか気まぐれとかの話か。まあ、特に何も感じなかったな。ハッキリ言って、現実離れ過ぎて分かんないし」
「そっか。あたしはさ、なーんかムカついたな」
「ムカついた?」
「うん。あたしらはさ、本気で……悩みまくった末に選択肢を選んで、後悔しないように生きてるんだよ。それをさ、神様はただの暇潰しであたしたちの事を弄んでるんだよ? なんていうか……嫌だな!」
「なるほどな」
実際に自らの身に起きている出来事と重ね、彼女も思う所があるのだろう。
もしも、神様が本当にいるとして、暇潰し感覚で彼女の人生を狂わせているというのならば、それは彼女自身怒らずにはいられないのだろう。
「……まあ、たとえ話的なもんだしな。そんな気にすんな。ジュースでもおごるから、元気出せよ」
「え、ホント! やったー、早くコンビニ行こ!」
彼女はそう言うと、勢いよく走りだした。
現金な奴だと考えながらも、普段の表情を取り戻した彼女に安心し、ゆっくりと彼女の後を追って行くのだった。
「ここで、主人公は彼に、半分は嘘の情報を与えた。何故嘘を教えたか、何故半分だけ嘘なのか。その理由は後で出ますが、テストに出すのでメモしておくように」
夏なのにも関わらず、スーツをキッチリと着こなしている丸眼鏡が特徴的な男性教師は説明を続けながら、黒板へと文字を書き込んで行く。それに対し、俺たち生徒は彼の重要な言葉を聞き逃さないよう、重要な箇所を書き写していく。
テスト期間が近づいているという事もあり、教室内は普段と違い、文字を書き込む音とアブラゼミの音が混じり、五月蠅くも集中しやすい環境に変化している。夢の世界に落ちている者は数える程しかおらず、大部分の生徒は熱心に手を動かし続ける。
その様子に触れる事無く、彼は普段通りに面白味のない授業を続けた。
神主から情報を得た数日後。鈴鹿がこの世界に来た際の状況を再現するための準備は着々と進んでいた。
日時を調べ上げ、当時に所持していた物を集め、周囲の状況を確認する。全てを整え終え、残りの要素は天候のみ。残り一つとなれば、簡単に再現まで漕ぎ付けるように思える。しかし、現実と言うのはそう甘くはない。
残り一つの再現条件。天候を再現するのは非常に困難を極めている。判明している情報から調べ上げた結果、二日前に雷雨、当日に快晴。この二つの天候が発生する状況においてのみ、当時の状況を完全再現したと言えるのだが、これが非常に困難なのである。
快晴は真夏直前の現在、再現するというのは容易である。問題は雷雨。夏の天候は大凡が晴れ。時折、雨の場合もあるが、雷雨までなる確率は低い。さらには、快晴の二日前に雷雨でなくてはならないという条件付き。
この条件付きの状態で、確率の低い雷雨と言う天候を発生するのは奇跡その物。何とかしようにも、天候を操る事は現在の科学力では基本的に不可能。
その為、今現在は奇跡を信じ、待機しているという状態。
それに加え、夏休み前のテストも迫っている。もどかしかろうが、只管に授業に打ち込まざる負えない。
「……なんて思っても、やる気出ないな」
心の底からの思いに、自然と周囲には聞こえない声で呟いた。
実際の所、今最重要事項であるのは彼女を元の世界へ戻すという事。最重要事項が詰まっているとなると、自然とテストのやる気も発生しない。そして、元より勉強が好きという訳ではない。現在受けている国語も、本音を言うならば好きでない上に、勉強したくない。
さらに、今回の授業内容にも問題がある。
今期、国語で勉強中の内容は神隠しに纏わる創作本。
とある街に住んでいる男、小島。
彼が変哲もない日常生活を送っている所に、橘という女が現れた。彼女は創作本の主人公であり、嘗て神隠しに遭遇し、神と出会った事があった。
そんな彼女と、彼が友情を深め、神隠しの謎に迫りながら、神隠しに遭遇した子供を助ける物語。
在り来たりと言えば、在り来たりの物語。通常の学生ならば、深く感じる事はないだろう。
しかし、神隠しとある意味では似た出来事と出会い、解決するべく動いている現在。神隠しと言う言葉を目にするだけで、自然と鈴鹿の件が脳裏を過ぎる。この状態では、勉強も何もあったものじゃない。
脳内で、事件やテストの問題が渦巻き始め、集中力がより一層減少を始めた頃。退屈な時間の終わりを告げる、最高のチャイムが学校内を響いた。
一瞬にして全ての考えを止め、教師が教室を出るのを確認し、教科書をバック内に放り込む。固まりつつある体を戻すべく、背を大きく伸ばす。最高まで伸ばし終えると同時に、全身を幸せな快感が走った。
やはり、授業終わりの伸びは異常な開放感を持っている。まさしく最高の気分だ。
開放感に満たされていると、絶望的な表情の男幼馴染が机に手を着いた。
「尚也……俺やばいかもしれへん。今回のテスト、まじでやばいかもしれへん」
「何言ってんだよ、いつもの事だろ」
「今回はマジでやばいんやって。国語の内容意味分からんかったし、数学とか何一つ分からんくて、絶望的やし。マジで今回赤点やったら、成績があかんのよ!」
彼が絶望的表情を浮かべるのも理解は出来る。彼は中間テストにおいて、半分の教科で赤点を入手するという快挙を成し遂げた。
期末テストにおいて、同教科で赤点を取れば、それこそ成績最悪。教師からの呼び出され、個人面談を受けざる負えなくなる。
「尚也……ジュース奢るから、勉強教えてくれ! 数学やったら、鈴鹿よりも得意やろー」
「いや、無理だわ。悪いけど、今回も俺まだ勉強してないからさ。俺一人じゃ教えきれないわ」
「じゃあ、あたしも教えてあげようか?」
背後からの声に振り向くと、もう一人の幼馴染が笑顔で椅子に手を着いていた。
体の向きを九十度曲げ、二人と話しやすいように動きつつ、彼女の話に耳を傾ける。
「数学は尚也には負けるけど、そこそこ良い点数だし、場所によっては教えられると思うよ。他の教科もあたし点数良いし」
「ああ……神様、仏様、鈴鹿様! マジで助かる、後で絶対ジュース奢るわ!」
「よし、ならこの後、図書室で勉強会でもするか?」
『賛成!』
二人の返事で勉強会の開催を決定すると、放課後に図書室に集合する事を約束し、次の授業の準備へ取り掛かる。中間テスト以来の勉強会に多少胸を躍らせながらも、重要な言葉を聞き逃さないよう、全授業へ真剣に取り組んで行く。
そして、迎えた放課後。教室の掃除を終えると、図書室へ向かうべく、埃で汚れた階段を上る。窓ガラス越しに校庭の様子を見ると、陸上部が汗を流しながらランニングをしているのが見えた。
数週間後に大会が控えてあるため、大会に向け、猛特訓を行っているらしい。
大会に向けてとはいえ、この猛暑の中、投げ出さずに練習に取り組むのは素直に尊敬する。
そんな事を考えつつも階段を上がっていくと、十数秒で図書室の前に到着した。
極力音を立てまいと、静かに扉を開けると同時に、室内から涼し気な冷気が体を襲った。幸せを感じさせる冷気に笑みを零しそうになりながらも、冷気を漏らさぬよう、すぐさま扉を閉める。図書室独特の匂いに心を和ませながら、ルールに従い、無駄な騒音を出さぬよう静かに幼馴染を探す。
数歩歩いた所で彼らが手を振ってるのを目にし、軽く手を振りながら、彼らの元へと向かった。
「遅かったじゃんよ。もう勉強始めてるで」
「仕方ないだろ、思った以上に掃除に時間が掛かったんだよ。二人とも何の教科を勉強してんだ?」
「もちろん数学だよ。今回試験範囲も多いし、高弘も数学が一番教えてほしいらしいしね」
「おっけー。じゃあ、俺も数学からやるか」
軽く言葉を交わすと、発言通りに数学の勉強道具を広げる。至る箇所に落書きの跡があり、真面目に勉強しているとは考えられない教科書。
実際、数学に関しては真面目に取り込んでいない。しかし、それなのにも関わらず、何故か数学に関しては毎回点数が良い。
大した勉強をしておらず、教科書の問を一度解くだけで、授業もろくに聞いていないのにも関わらず、何故か学年トップクラスの成績を叩きだす事に成功している。
持論だが、恐らく俺は理系向けの人間。生まれつき、数学系統の学問が得意なのだろう。
しかし、自身が好きなのは、どちらかと言えば文系。数学は嫌いな勉強においても、最も嫌いな教科。
やる気と言うのは起こすものだというが、起こす気にもならない。
それでも、迫りくる期末テストに、無策で挑むわけにはいかない。
一人の場合、確実に勉強に力は入らない。それならば、彼らと同時に勉強出来る、今この時に勉強しなければならない。
仕方がなく、試験範囲を確認しつつ、計算方法を覚え、問を只管に解いて行く。
最初はやる気が皆無だったものの、図書室と言う集中に特化した教室内に響き渡る、扇風機と文字を書き込む音により、自然と集中力が増していく。
不思議と勉強に力が入り、気付けば数ページの問を解き終えていた。
この調子で終わらせようと、新たな問いに入ろうとした所で、隣の男が肩を叩いた。
「尚也、ここってどうやって解けば良いか分かるか?」
「あー、ちょい待ち。そこは多分、この式のxに代入すればいいんじゃね?」
「おー。行けたわ、せんきゅう」
聞きたい事だけ聞くと、彼は教科書へと顔を戻した。
前回の勉強会と比べ、彼は見違えるほどに真面目に取り組んでいる。余程、今回のテストで赤点を取り、個人面談を受けたくない様に見える。
熱心な様子に感心していると、再び彼は顔を上げ、別の問の解き方を質問してきた。慣れた動きで問を確認し、解き方を考えようとするが、問を半分読み終えた所で、やむを得ず手を止めた。
「……悪い、この問題は俺には解けないわ。俺もここまでは勉強してないんだよな」
「えー、そこを何とかならん?」
「ならんー」
「そこであたしという訳ですよ」
俺達の会話を聞いていたのか、目の前に座っている幼馴染が前のめりに会話へと参加してきた。
彼女は任せてと言わんばかりに、自信満々に問を確認すると、計算方法を横目に、問を解き進める。十数秒も過ぎないうちに手を止めると、彼女は自信満々に説明を始める。
流石は学年トップクラスの成績優秀者。普段のポンコツ具合が嘘と思えるほどに、理解しやすく、完璧な説明を聞かせてみせた。
「そう言う事か。流石鈴鹿やわ、完全に理解した」
「まあね、こう見えて知的キャラで売ってますから」
それならば、普段も知的でいてほしいものだ。
脳内でそう答えながらも、適当に褒めて終わらせ、再び勉強に取り組む。
集中力を切らすことなく、勉強を続け、数十分後には数学の試験範囲全てを学習し終えた。横に目をやると、他二人は数分前に数学を終え、別教科の勉強に取り掛かろうとしていた。
視線に気づいたのか、彼はこちらに目をやると、思いついたかのように口を開く。
「お、尚也も数学終わった感じか。それならさ、数学の試験範囲内の章テストあるじゃん。あれみんなでやって、合計点で勝負しね? 最下位の奴はジュース奢りってことで!」
「お、良いねー。丁度やってなかったし、やろうよ。ジュース奢り、絶対ね!」
軽く合意すると、全員同一のページを開き、手を動かし始める。
数分前に勉強した内容だからか、自然と解き方を理解でき、スラスラと答えを書き込んで行く。他二人も同様の理由からか、普段以上に素早く問を解いているように見える。
数式を書き込む音がひっそりと聞こえる室内で、集中力を遺憾なく発揮し、数分で全ての回答を記入し終えると、シャープペンを赤ペンに持ち替え、模範解答と比較していく。
全員が終えたのを確認すると、全員が自信満々の状態で、結果を同時に広げる。
「どうよ! 俺は七十二点よ! ……って、お前ら高くね、九十五点に八十五点って!」
「いやー、一問差で尚也には勝てなかったかー。いけると思ったんだけどな」
「俺は後一問で全問正解がなー、計算ミスしたわ。……という事で、高弘奢りよろしくな」
「畜生、言い出しっぺがなるパターンの奴か。……あ、二人ともこの後暇? 暇だったら、カラオケ行かね? ジュースの代わりにドリンクバー奢るからさ!」
「急だな。まあ、暇だし良いぞ」
「もちろん、あたしもおっけーよ!」
軽い返事で返すと、彼は満面の笑みを浮かべ、今後の予定を決定づけた。
一時間後、図書室が閉鎖する時間帯で勉強を終了し、三人でカラオケへと向かう事を約束し、三者三様の教科の勉強を開始した。
御褒美を用意したからか、一時間は騒音が全く気にならない程に集中が続き、充実した勉強時間を送る事に成功した。
その後、時間を確認しつつ、教材を片付け終えると、冷気で支配されていた教室を静かに後にした。
廊下内は静まり返っており、俺達以外の生徒は一人として見当たらない。
陽が完全に沈む時間帯まで残っていた俺達が珍しいのだろう。
そんな事を気にも留めず、明るい空気感で幼馴染でのみ可能な昔話を交えつつ、カラオケへと向かって行く。
行きつけのカラオケ店は学校から徒歩数分。
学生証を提示する事により、格安の値段で歌う事が可能なため、学生内では有名な店である。
普段ならば、その人気具合により、数十分待ち時間が掛かってしまう場合もある。しかし、周囲が暗くなった頃の時間帯にカラオケ店に到着したのが功を奏し、一分の待ち時間もなく、一瞬にして入室する事が出来た。
入室し、それぞれが好みの飲料水を運び終えると同時に、男幼馴染が意気揚々とマイクを手にした。
画面に映し出された曲は、最近、学生内で流行っているボーカロイド曲の一つ。テンポの速さや歌詞の難しさで、高難易度と考えられている曲。
それなのにも関わらず、彼は自信ありげな表情を崩さない。
その様子を評価するような目で見つつ、順番でない俺達二人は拍手でリズムを取りつつ、場の雰囲気を盛り上げていく。
場の雰囲気に流されやすい彼は調子に乗りつつ、全力でリズムに合わせ、言葉を発していく。
三分弱に渡る熱唱の結果。採点は八十五点。
平均点八十二点なのを考えると、上々の点数と言える。
「よっしゃー! どうや、これが俺の実力ってわけよ」
「凄いじゃん! 結構難しいのに、良くこんなに上手く歌えるねー。それじゃあ、次はあたしが」
彼女は未使用のマイクを手に取ると、立ち上がり、姿勢を正す。ゆっくりと流れだしたメロディーに合わせ、足でリズムを取り始める。
メロディーから察するに、彼女が歌っていたのを何度か目にした事がある、ドラマの主題歌。世間一般において、恋愛ソングと呼ばれている曲。
この曲を聴くだけで、不思議と恋愛をしたくなる。恋愛関係の相手がいればどれだけ良いかと、考えさせられる曲だ。
彼女は盛り上げる俺達を見渡しつつ、自信満々な表情で、楽しそうに歌い始め、勢いに乗ったまま歌い終えた。
その結果は九十四点。プロと言っても過言ではない程に綺麗で、聞き惚れる歌声。
何度聞いても、彼女の歌は聞き入ってしまう。
「す、凄いわ。やっぱり、鈴鹿歌うますぎだろ」
「まあね! さて、次は尚也の番よ」
「そうだな。それじゃあ……プロの実力ってやつを見せちゃうかな」
溢れんばかりの自身を胸に、マイクを右手に取る。そして、声出しとして使用している、何十回と歌って来た恋愛ソングを入れると、一気に気合を入れる。
画面に目を向け、リズムを確認しつつ、音に乗せて言葉を放つ。
誰もが一度は聞いた事がある、有名な恋愛ソング。圧倒的歌声に乗って流れる、感動的な歌詞。全てが噛み合った歌に、室内の者は誰一人として声を出さない。
全歌詞を歌い終えたのを確認すると、疲れた喉に炭酸飲料を流しこむ。
全力で歌った後の水分補給。運動後と同様とは言えないが、それなりに水分を美味しく感じる状況での水分補給。
コップ半分ほどの炭酸を飲み終えると、再び画面に目を戻し、点数を確認する。
結果は平均点八十五点に対し、七十二点。まさに、圧倒的ともとれる点数差だ。
「……ま、こんなところかな」
「いや、こんなところかなじゃないが。自信満々に歌っといてそれかい。お前は本当に……最高の音痴だな」
「音痴なんじゃない。ただ、個性的なだけだ。まあ、お前には分からないかもしれないがな!」
「いや、誰も分からんわ、この音痴が!」
音痴の称号を持つ二人で冗談を交わしていると、コップ片手に様子を眺めていた彼女が笑みを浮かべた。
その表情は普段と同様、傍から見れば元気で、可愛らしさを感じるものだった。しかし、不思議と普段以上に嬉しそうで、寂しそうにも感じる。
彼女の最近の状況から察するに、並行世界の俺達の事を思い出しての表情だろう。
何とも言えない感情を持ちながらも、それに触れる事はなく、彼との会話を続ける。
彼女は本物の鈴鹿ではない。それでも、この時間が本物の幼馴染三人で過ごしている時間と同様に、楽しい時間であるというのは事実。
このまま永遠と言うのは無理だろう。せめて、彼女が元の世界へと帰るまで。それまでの間。三人で、普段以上に楽しい時間を過ごしていけたらと、心の底から、そう思った。
しかし、数日後。
もう少し続いてほしいと願う俺の思いとは裏腹に、時は訪れた。
雲一つなく、快晴と呼ぶに相応しい天候。
一つの雲にも防がれていない真夏の暑い日差しが、無防備な体を襲い続ける。自然と汗は流れ続け、どれだけ拭おうが止まる事はない。
数分前に購入した水を取り出すと、飲み干す勢いで喉へと流し込む。水は一瞬にして喉を潤すが、それでも汗は止まらない。
暑さを少しでも抑えるべく、数秒後に再び水を流し込む。繰り返すと未開封だった水は空に近い状態へと変化してしまっていた。
小さくため息をつくと、ペットボトルを鞄に押し込み、再び足を動かす。
ふと、隣へと目をやる。
数分前まで元気一杯だった幼馴染の美少女は、気が付けば一言も発さず、目的地へと向かうだけの歩く屍のような存在へと変貌していた。
笑顔は消え失せ、視線は道路のみを見つめている。運動部員である彼女が元気をなくす程の暑さ。ここが日本でないと錯覚するほどの暑さに、絶望すら覚える。
視線を戻すと、暑さを忘れるように、数日間の記憶を遡る。
数日前。正確には二日前の事。目を覚ますと同時に、違和感に気づいた。
時間は朝の七時頃。季節は夏で間違いない。通常ならば、カーテンの隙間からは眩しい光が微かに入り込み、部屋の一部を照らしている。しかし、当時は光は一切なく、室内は暗闇で支配されていた。
妙に思い、カーテンを開けると、外には最悪の天候が広がっていた。
雲は黒く、大量の雨粒を地上へと放出し続けており、室内にも聞こえる程の音を出しながら、雷が落下している。
何事かと思い、一階へ降りると、真っ先にニュースを確認する。
ニュースキャスター曰く、今日の天候は数日前から予想されていた事らしい。
稀に見ない巨大な雨雲が都内を襲い、非常に強力な豪雨が街を支配する。最悪の雷雨が、一日中降り続ける。
その異常気象とも取れる天候に驚きながらも、スマホを手に取り、二日後の天候を調べ始める。
電波が荒れているのか、多少時間が掛かりながらも、何とか天候調査アプリを起動する。そして、二日後の天候を目にすると同時に、一気に肩を落とした。
二日後の天候は曇り。アプリ内ではそのように表示されていた。
残念ながら、幼馴染がこの世界へ来た日と同様の、快晴という天候とは違う。
深く残念に思いながらも、スマホをしまうと、顔を洗いに洗面所へと足を向けた。
この時は二日後に実験を行うのを完全に諦めていた。
しかし、二日後。つまり、今日に奇跡が起きた。
目覚めると曇りと言う予報は外れており、空は青空が支配していた。テレビやネットで確認しても、天候は快晴。
状況を把握すると、幼馴染に連絡を取りつつ、すぐさま必要道具を纏め上げた。全てを持った事を確認し、幼馴染と再会した上で、例の神社へと足を向けた。
二日前は実験を行えるとは夢にも思わなかった。しかし、奇跡が起こったのか、天候は完璧。当時を再現するための道具は揃い、シミュレーションも完了している。
問題があるとすれば、猛暑のみ。暑ささえ消え去れば、完璧な状態で実験を行える。
多少で良いから、日差しが弱まってはくれないだろうか。
小さな願いを胸の中に秘めていると、例の神社が微かに見え始めた。俺達は一度顔を見合わせると、小さく笑みを零し、残りの体力を全て使い、全力疾走で神社へと向かいだした。
数秒で神社に到着すると、付近の木陰へと入り込み、その場に倒れるように寝転がった。
大きく深呼吸をしたのちに、体力を取り戻すように黙り込む。
数分後。多少体力が戻った所で、彼女が口を開いた。
「……暑いね」
「それな。……暑いな」
「これ……実験とか無理じゃない……」
「いや……暑くても……やらないと。……チャンスは今日しかないし」
脱力しながら軽く話すと、ほぼ空のペットボトルから残りの水を吸収し、大きく背伸びをする。その後、やる気を出すように自らの頬を叩くと、彼女に声を掛け、実験の確認に取り掛かる。
面倒くさそうな表情を浮かべながらも、促されるままに彼女は話を聞く体勢になる。
今回行う実験は簡単だ。単純に、彼女がこの世界に来た時の状況を再現するだけである。
再現する要素は天候・時間・服装・行動。天候は、二日前の雷雨。今日の快晴によって再現完了。時間は彼女の記憶から考えられる時間を導き出し、その時間帯に鳥居を潜る様に設定服装は当時彼女が着ていた物と同一の物を彼女に着て来てもらった。行動は彼女に当時の行動を思い出してもらい、その行動を学校から完璧に行ってもらう。
作戦は完璧。準備も完璧。今日まで、念密なシミュレーションも重ねてきた。必ず成功させ、彼女を元の世界へと戻す。その上で、もう一人の鈴鹿。本物の鈴鹿をこの世界へと戻す。もう一度、本物の鈴鹿と一緒に普通の日常を送る。絶対に……成功させる。
心の奥底で決心を固め終え、静かに時間を確認する。
学校との距離や実験開始時間を考えるに、彼女は数分で神社を出なくてはならない。そして、彼女がここを出ると最後、彼女と俺が話す機会は無くなる。
もう一人の幼馴染。別世界の幼馴染。
本来ならば、絶対に出会う事はなかったであろう彼女との日々は、楽しく、幸せを感じる日々だった。しかし、ここで別れれば、もう二度と会う事はない。
寂しさと悲しみが、キュッと胸を締め付けているのを感じる。暫くの間、静寂が続いたのちに、彼女の方から口を開いた。
「なんかさ……ありがとうね。いろいろと」
「え、何言ってんだよ。俺らの仲だぞ、助けるのは当然だろ」
「いやさ、幼馴染だけど、実際は別人じゃん。それなのにさ、助けてくれてありがとう!」
「……ありがとうはこっちのセリフだよ。鈴鹿のお陰で、この数週間。滅茶苦茶楽しかった。本当に、楽しい毎日を送れたよ」
「もー、それはあたしのセリフ。……それじゃあ、時間ないし、もそろ出るね」
「おう。……さよならは言わないでおくわ」
「……うん。またね。」
そう言った彼女の表情は辛く、寂しそうに見えた。
彼女は当時と同様の荷物を手に取ると、学校に向けて駆け出した。その様子を見送ると、新たに購入した水を片手に、木陰に座り込む。
別れるのは寂しいが、仕方のない事。切り替えて、再現を成功させるために、集中し始める。
とは言っても、今出来るのは信じて待つ事のみ。俺自身が行える事は全て行った。後は只管に神頼みである。
様々な思いを巡らせ、彼女を思いながら信じて待つ事十数分。
彼女が現れる時間が近づいている事を確認すると、木陰から離れ、彼女が現れるであろう方へと目をやる。神社の周辺に異変はなく、順調と言って差し支えのない状態。
彼女の方はどうなのか。そう考えた次の瞬間、彼女は道路の向こうから現れた。彼女は汗を流しながら神社へと走っており、その様子は全力そのもの。
現れたことに一先ずは安心しながらも、再現が成功するように心の奥底から願い続ける。
天候は完璧。服装も完璧。残りは時間通りに、完璧に行動するのみ。
彼女は目の前を通り過ぎると、鳥居の目の前に一歩踏み込む。予定時間と完璧に同じタイミングで足に力を入れ、勢いよく地面から離れる。完璧な動きで地面から離れた彼女は、綺麗な動きで神社の鳥居を潜った。
次の瞬間。彼女の足は神社内に踏み込んだ。そして、何事もなかったかのように、その場に立った。
何も起こらない。その状況に、俺達は互いに目を合わせながら、呆然とした。
全てが完璧に揃った状態において、完璧な行動を取った。それなのにも関わらず、彼女の身には何も起きず、普通に地面に足を着いた。
その人間の思考で理解可能な現状に、驚愕と落胆の気持ちが入り交じる。
数秒間の沈黙の末に、焦りながらも何とか声を出す。
「まだ……まだ。もう一回鳥居を潜ってみるんだ! もしかしたら、時間が少しずれてたのかも!」
「……う、うん」
彼女は答えると、すぐさま立ち上がり、鳥居を潜る。しかし、彼女の身に変化は訪れない。それでも諦める事はなく、只管に鳥居を潜り続ける。数回、十数回、数十回、何度も同じ動きを繰り返した末に、彼女は動きを止めた。
「……やっぱり駄目だ。戻れない」
「駄目……か」
非情な現実に、思わず顔を下に向ける。
当然と言えば、当然なのかもしれない。いつからか、当時の状況を再現すれば、彼女は元の世界へと戻れると、勝手に決定づけていた。しかし、実際の所、その根拠はなかった。そもそもとして、彼女がこの世界に来る際、何が起こり、どういった理由で世界を移動できたのか、その全ての理由は謎のまま。何一つとして、理解出来ぬまま、一筋の希望に縋り付き、その一点のみを手段としてきた。その結果が現状。彼女を元の世界に戻す事に失敗した。理由を何一つとして解明できぬまま、再現のみで世界を移動するという事自体が、間違いだったのかもしれない。
数分間の沈黙の末、俺達は帰宅するべく荷物を纏めた。前回同様の帰路につき、一言たりとも発する事もなく、下りゆく太陽を眺めながら足を進める。その足取りは重く、行き以上に足が思うように動かない。それでも少しずつ進んで行き、神社を出発してから、数分が経った頃。彼女は何かを目にしたかと思うと、突如として足を速めた。走りゆく彼女を無心で眺めていると、彼女は一つの自販機の前で足を止めた。
それは毎年、夏になると幼馴染たちと頻繁に買いに来る、アイスの自販機。彼女の仕草から察するに、食べてから帰りたいようだ。
断る理由もなく、軽く賛成すると、鞄から古びれた財布を取り出す。慣れた手つきで財布から小銭を取り出すと、自販機に貼られた画質の悪い写真へ目をやる。数秒写真を眺めるが、普段と同様の物を買う事に決め、小銭を一気に投入し、古びれたボタンを押し込む。ガコンッという音を耳にすると、軽くしゃがみ、夏の初めにも手にしたアイスを手に取る。見覚えのあるアイスに巻かれた紙を軽く剥がし、小さく口を開け、アイスに口をつける。
気温が高いからか、口に含まれたアイスは普段以上に冷えているように感じる。不思議とチョコレートの甘みは薄く、普段とは多少違った味に感じる。
味の変わったアイスに違和感を覚えながらも、一言も発する事無く、アイスを食べ進める。
その空気に耐え変えたのか、彼女の方から口を開いた。
「なんか、ありがとうね。色々協力してくれてさ。本当に尚也の気持ちは嬉しかったよ!」
「え……あ、そうか? けどまあ、失敗したしさ」
「結果よりも、その気持ちが嬉しかったの。それに、今回失敗したからって、次があるじゃん!」
「次……?」
「うん! もし良かったら、協力してよ。また、考えてよ。あたしが元の世界に帰る方法を!」
「そうか……ああ、勿論だよ。協力するさ、大切な幼馴染のためだしな」
「よし、それで良い!」
彼女はそう言うと、ニッコリと笑った。その笑顔は優しく、落胆した心に強く響いた。
不思議と気持ちが楽になり、多少なりともやる気が出て来るのを感じる。
恐らく、この結果に最も落胆したのは彼女であろう。それなのにも関わらず、俺を勇気づけようと、笑顔を向ける。別の世界の鈴鹿であっても、自らを犠牲にし、他人のために行動するところは変わらない。それは彼女の最高に良い所であり、悪い所でもある。
「あ、そうだ。尚也知ってたっけ? 今週末、部活の大会があるんだけど、高弘と見に来てよ。あたし初っ端から出てるんだよねー」
「あー、ソフトのやつか。良いよ、見に行くわ」
「やったー! それでなんだけどさ……もしあたし達のチームが優勝出来たら、一つだけお願いを聞いてくれないかな?」
「お願い一つって……何をお願いするつもりだよ! ……まあ、そうだな。勝ったら考えてやるよ」
「よーし! さて、アイスも食べ終わったし、帰ろっか!」
彼女はそれだけ言うと、軽い足取りで帰路に戻る。彼女に置いてかれない様に、アイスのゴミを捨てると、軽く笑いながら、その後を追って行く。
「お、遅いぞ尚也。もそろ試合始まるで」
「悪い、シンプルに寝坊したわ」
「何やってんだよー。席は取ってあるから、さっさと行こうぜ」
軽口で話しながらも、急ぎ足で会場内へと向かって行く。
時期は既に夏本番。周囲を猛暑が包み、急ぎ足をしただけでも、大量の汗が流れ出る。
汗を拭き取りながらも、幼馴染の晴れ舞台を一瞬たりとも見逃さないよう、より足を速めていく。
実験に失敗し、彼女を元の世界へと戻せなかったあの日から、早くも四日が経過していた。
四日後の現在。俺はまだ失敗から立ち直れずにいた。いや、表面上においては立ち直れている。ただ、心の奥底で引きずってしまっている自分がいる。それもあってか、彼女を元の世界へ戻す方法は、新たに思いつけていない。
夏休みまで後数日。
夏が終わるまでに彼女を元の世界へと戻す。個人的な目標ではあるが、目標を達成するためには、夏休み開始までに方法だけでも把握して起きたい。しかし、行動しなくてはいけないと頭では理解しているが、実際に行動を行うことが出来ないのが現状である。
「……まあ、考えても変わらないしな。今日は楽しむか」
「……? なんか言ったか?」
「いや、何でもないよ。ってか人滅茶苦茶いるな。もっと少ないかと思ってたわ」
「そりゃインターハイの準決勝と決勝だからな。今までの集大成みたいなものだし、凄くなるわ。あ、あそこが俺らの席やで」
彼が指さしたのは最前列で、最も選手達と近い席。彼曰く、俺達のために鈴鹿が席を取っておいてくれたらしい。
腰を下ろすと同時に、鞄から猛暑に対抗するべく用意した秘密兵器を取り出す。
それは冷凍庫に放置し、中身を凍結させておいたスポーツ飲料水。そして、事前に購入しておいたプラスチック製団扇。
真夏の日差しの強さや、周囲の密集度を考えると、多少火力不足を感じるが、コストを考えれば仕方がない所ではある。
「よし、準備完了。だけど、鈴鹿の試合見に来るのなんか久しぶりだな」
「確かにな。それこそ去年の夏以来じゃね?」
「まじか、一年前じゃん。確か、去年は結構良い所まで行ったけど、負けちゃったんだよな」
「やな。決勝に進めはしたんやけど、最後の最後で逆転されて優勝は逃したんよな」
去年も同時期に行われたインターハイ。当時も、俺達は幼馴染を応援するべく会場へと足を運んでいた。彼女たちの実力は凄まじく、様々な強豪校を相手に完封を繰り返し、順調に決勝戦まで進んでいった。
そして、決勝戦。序盤は有利に試合を進められていた。しかし、終盤。ピッチャーとして試合に参加していた幼馴染が打たれた。汗で球を滑らせたらしい。相手校のエースにホームランを奪われてしまった。そこから、流れるように崩れ去っていき、幼馴染達は敗北を期した。
恐らく、あの日程彼女が涙を流した日はないだろう。敗北した現実や、自分が打たれた現実、先輩に優勝を持っていけなかった現実。様々な現実が彼女を襲い、彼女は只管に涙を流した。
それから、彼女は血の滲む様な努力を一年もの間繰り返してきた。全ては今日優勝するために。それはもう一人の幼馴染も変わらないだろう。
「……今回は優勝できると良いな」
「やなー」
猛暑を紛らわせる意味も込め、適当に会話を交わしていると、グラウンドで動きがあった。
グラウンドへ目をやると、守備側の選手がそれぞれの定位置へ歩き始めていた。当然、その中には部長兼エースである、我らが幼馴染も参戦している。彼女は普段と同様、ピッチャーサークルに足を入れると、自らの頬を叩き、気合を入れた。
以前、彼女に行動の意味を聞いた所、この行動を行う事により強く気合が入り、普段と同様の実力を発揮できるらしい。彼女なりのルーティーンの一種とも言える。
その行動から、試合が始まる事を再認識しつつ、真っ直ぐに彼女を見守る。隣の彼も同様、真剣な眼差しで彼女を見つめる。
「プレイボール!」
審判と思われる女性の甲高い言葉を契機に、準決勝戦が開始した。
我らが幼馴染はチームメンバーに合図を出すと、球を握りしめ、バッターボックスへと目をやる。キャッチャーの指示を受けると、見とれる程に綺麗な動きで体を動かし、キャッチャーへと球を放つ。
一直線に放たれた球は道を遮る一切のものに当たる事無く、パンッと音を上げ、グローブに納まった。目で追えない程の速度に加え、響き渡る巨大な音に観客内に小さな騒めきが起こる。
それを全く気に留める事無く、彼女は二回、三回と豪速球を繰り出す。
当然の事如く、全ての投球はストライク。バッターは悔しげな表情を浮かべながら、バッターボックスを後にした。
彼女はほっとした表情を浮かべたかと思うと、一瞬にして真剣な表情へと面様を戻す。
続く二番、三番バッター。どちらもそれ相応の実力を有した選手達だ。しかし、得意の豪速球に加え、一年間練習を繰り返してきた変化球を用いる事により、何なく攻撃を防ぎ切った。
攻守が入れ替わり、我らが母校側の攻撃。
俺達の幼馴染はソフトボールが上手い。運動神経も抜群であり、部内でもずば抜けた実力を有している。しかし、そんな彼女を抜きにしても、我らが母校の選手も相当な実力者ばかりだ。
攻撃が開始された直後、音を上げて球は打ち上げられた。バッターは素早い動きで塁へと駆け出し、二塁に足を踏み込んだ。続く二番、三番も流れ良くヒットを繰り出し、最終的に三点を獲得し、初めての攻撃を終える事となった。
二回目の守備においても彼女は大活躍を見せ、無失点で攻撃を抑える。
その後も順調に試合は進んで行き、最終的に八対三で勝利という結果で準決勝戦は幕を閉じた。その結果に会場内の選手はそれぞれ喜びと悲しみに支配され、観客内は驚きの声で溢れている。
「いやー、無事決勝進出やな」
「ああ。まあ、当然と言えば当然みたいな感じはするけどな。うちの学校のソフト部強いし。問題は決勝だろ」
「あー、この感じは今年も去年負けた所に当たりそうやもんな。今年は勝てるかねー」
「まあきっと、鈴鹿達なら勝てるだろ」
願望を口に出しながら、中身が微量に溶けた飲料水を手に取り、軽く口に流す。
流石は夏本番。団扇と水分を持ってしても、汗が止めどなく溢れ出る。これ程の暑さならば、扇風機の一つでも持ってくればよかったと考えながらも、団扇と飲料水をふんだんに使い、体を精一杯癒していく。
そして、ペットボトルの中身が無くなった頃。ついに決勝戦開始の合図が出された。
決勝戦に参加するチームは当然、幼馴染のチームと去年の優勝チーム。予想通りの対戦相手に納得しながらも、先程の試合以上に緊張が体を支配しているのを感じる。
試合に出ない側の人間がこれだけ緊張しているのだ。ピッチャーサークルに立つ彼女も相当に緊張しているはず。それなのにも関わらず、彼女からそれを思わせる表情は見て取れない。
彼女は頬を流れる汗を軽く拭き取ると、強く球を握りしめ、ゆっくりと顔を上げる。キャッチャーの合図を確認すると普段と変わらぬ構えを取り、華麗な動きで右手から豪速球を放つ。
目にも止まらぬ速さで放たれた球はバットを振る隙すら与えず、一直線にストライクを奪い取った。
気を一切抜くことなく、彼女は次の投球の準備へと入る。バッターも同様に、一度目の投球を学習しつつ、打ち返す準備へ入る。
直後に放たれた投球は目にも止まらぬ速さでキャッチャーへと向かうが、直前で現れたバットが掠った後に、キャッチャーのグローブに捕球された。
投球を捉えられかけた事に一瞬焦りを感じるが、それと同様の速度で冷静を取り戻すと、球を手に取り、キャッチャーに指示を仰ぐ。そして、前回の失敗を修正しつつ、豪速球を繰り出す。
彼女から放たれた球は前回以上の速度で飛ばされ、一切の物に阻まれる事なく、キャッチャーのグローブに納まった。その結果に喜ぶ動作を一切見せず、冷静な動きで次なる投球を放つ。
バッターは道筋を見極め対応するが、その速度に反応することは出来ず、球を撥ね返す事は敵わなかった。
その後、続くバッターに対しても、自慢の豪速球を使いこなす事により、誰一人として塁に進める事無く、初回の攻撃を防ぎ切った。守備を終え、グラウンドから去る彼女の表情には笑みが零れており、初回を完璧に防いだ事への喜びが見て取れた。その表情を目にし、同様に俺達も喜びを分かち合うが、一瞬にして表情を戻し、試合へと意識を戻す。
初回にて敵チームを塁に出さなかったのは去年も同様だった。基本的に互いに塁には出れず、出たとしても点を取る所まではいかない。互いに守備能力が高く、点を奪い取ることが出来ないのだ。相手チームが戦法を変えていない限り、そう簡単に点を取れない可能性が高い。
予想通り、初回の攻撃は全力で挑んだものの、0点と言う結果に終わった。二回、三回と回を重ねていくが、互いに決定的な攻撃は出来ず、無失点同士の状態で試合は進んで行った。
そして、気付けば終盤。無得点で終わると思われていた回。三年生のキャプテンが巨大なヒットを打ったことにより、一気に状況が変化した。
二人の選手が塁を回り切り、最終局面で二得点。次を守りきれば勝ちという状況に持ってこれた。状況は上々。守れば勝ち。
しかし、この場面で相手チームのバッターはエース選手。アウトを二つ入手する事には成功したものの、焦りからのミスで二人を塁に残してのエース選手。
ホームランを打たれれば逆転敗北。凌ぎ切れば完全勝利。どう転んでも可笑しくない状況に、観客内にも緊張が走る。
球を握りしめる彼女も緊張はあるようで、表情は硬く、どことなく不安に見える。チームメイトも同様の表情をしているのかと考え、ふと他選手へと目をやる。彼女達の表情は予想外に冷静で、どこか自信に溢れたような表情をしている。彼女達が内心何を考えているのかは分からないが、彼女を信頼しているのは事実だろう。
彼女は深く深呼吸を繰り返し、ゆっくりと前を向く。その瞳には恐怖や焦りと言った感情はなく、自身に満ち溢れているように見える。キャッチャーから指示を受け、ゆったりと体を動かす。構えを取ったのちに、大きく腕を一回転させ、放つ。渾身の一球。その結果……。
「二人どもー! 勝っだよおー!」
彼女は叫びながら、俺達へと抱き着いてきた。想像以上の勢いに二人が仮でも支えることは出来ず、俺達はその場に倒れこんだ。
彼女の顔は涙で濡れており、嘗てないほどに幸せに包まれている。
俺達は焦りながらも、満面の笑みを浮かべ、言葉を返す。
「マジでおめでとう。ほんまに凄かったわ!」
「ああ、本当に凄かった。優勝おめでとう。最後、相手のエース抑えたのとかまじ凄かったわ。てか、良く最後まで体力とか持ったな」
「頑張っだんだよおー! 本当に……凄ぐ嬉じいー!」
彼女は叫びながら、只管に嬉し涙を流し続ける。
これ程までに涙を流したのは、十数年一緒にいる中で見た事がない。優勝を手にしたのがどれ程嬉しかったのか、その感情が伝わってくる。
彼女は暫く泣き続けると、やがて涙を止め、ゆっくりと口を開いた。
「二人とも見に来てくれてありがとうね。二人が見に来てくれたおかげだよ!」
「いや、何言ってんだよ。お前が頑張った成果だろ」
「せやで、自信もてや! あ、チームメイトが呼んでるで、言った方が良いぞ」
「あ、うん。それじゃあ、また後で!」
最後にそう告げると、チームメイトの元へと一直線に駆け出す。十数メートル離れた頃、突如足を止めたかと思うと、思い出したかのように再び俺達へと接近し始めた。
何事かと首を傾げると、彼女は俺の耳元まで顔を近づけ、囁くように言葉を放った。
「優勝したから、お願い聞いてね」
完全に脳内から消え去っていた。いや、優勝と言う衝撃が大きく、その他の事が霞んでいたのだろう。
数日前に彼女と交わした約束。優勝すれば願いを聞くというもの。彼女から言葉を聞くことによって、記憶の奥底から蘇るように思い出した。それと同時に、優勝と言う出来事の嬉しさ以上の焦りと言う感情が心を支配し始めた。
一言も発しない俺を他所に、彼女は小悪魔のような笑顔を最後に浮かべ、再び駆けだした。
様々な感情が入り交じりながらも、一言たりとも発することなく、彼女の後姿を見送る。何も知らず、ただ楽しそうにしている横の幼馴染に溜息をつきながら、十数秒脳内を働かせる。
最終的に彼女へのご褒美だと自分に言い聞かせ、今回ばかりは我慢する事に決定づけた。
そして、願いの内容に恐怖しながら、諦めるように夕暮れに染まった空を仰いだ。
「……って事で、いくら夏休みとは言えど羽目は外しすぎないようになー。それじゃあ、解散!また、二学期に会おう」
担任教師の言葉を最後に、俺達の日常は夏休みへと突入した。太陽に晒され、猛暑が襲い来る真夏。俺達は夏休みと言う楽園に足を踏み入れたのだ。
俺達を待っているであろう楽し気な未来に心を躍らせながら、極力早く夏休みを楽しむべく、荷物を鞄へと無作為に放り込み、帰りの準備に入る。
「いやー、ついに夏休み来たな!」
「そだな。……ってか、何だよその荷物」
話しかけてきた男幼馴染へと目をやると、パンパンに膨れ上がったリュックに、今にも破れそうな紙袋を身に着けているのが分かった。学校から一歩も出ていないのにも関わらず限界状態の彼に、若干呆れながらも、荷物の理由を彼に尋ねる。
「いやー、机の中に紙とか放置しててさ。後は体育着とかその他もろもろ。てか、この後暇?カラオケとか行きたくね?」
「あー、悪い。今日は予定があってさ。また、今度行こうぜ」
「おっけー。それはしゃーねーな!じゃあ、また夏休みに行くぞ!」
「おう、じゃあな」
軽く言葉を交わすと、鞄を手に取り、騒がしい教室を急ぎ足で後にする。見慣れた下駄箱を通ると、普段とは違う門を通り、太陽から隠れるように木影を通りながら目的地へと向かう。
時間が時間だからか、普段では目にする事のない、近所の小学生が下校しているのが目に映った。小学生も最後の学校を終え、気分は有頂天の様子。小学生時代誰もが行う白線以外踏んではいけないゲームをしながら、太陽の日差しに一切怯む事無く駆ける小学生には、思わず尊敬の眼差しを向けたくなる。
一瞬自らも木陰から出ようかと考えたが、瞬時に日差しの恐ろしさを理解し、木陰の道を急ぎ足で進んで行く。
数分後、一度も関わった事のないバスに乗車し、再び木陰を歩き進んだ末に、待ち合わせ場所が見えてきた。教室を出た際、既に姿はないと思っていたが、俺よりも先に到着していたようだ。彼女の姿を目にすると、汗を拭いながら一直線に駆け出す。
彼女は近づく俺に気が付くと、軽く怒ったような表情を作り、大きく口を開いた。
「こら! 女の子を待たせるとはどういうつもりよ」
「悪い。教室出る時高弘に止められちゃったんだよ。てか、わざわざ待ち合わせする必要あったか?」
「そりゃあるでしょ。そっちの方がそれっぽいし。ほら、時間もないし行くよ」
彼女はそれだけ告げると、地面に置かれた鞄に指をさしたのちに歩き始めた。彼女の意図を理解し、軽くため息をつくと、彼女の鞄も手にし、その後を追い始める。
数日前、彼女は部活の大会において、優勝と言う快挙を成し遂げた。その結果、彼女の願いを一つ聞かなくてはならなくなった。その際の願いが、一緒に水族館へ行くというもの。
学校終わり。二人で特定の場所に待ち合わせを行い、そこから水族館へと向かう。特に難しくもない、単純な願いであり、拒否する理由もなかったため、快く彼女の願いを聞き入れた。
そして、修了式後の今日。願いを実践するべく、俺達は炎天下の中、水族館へと歩いている。
「だけど、何で俺達二人でなんだ? どうせなら高弘とかも呼べばよかったのに」
「もー、それは察してよ。二人じゃなきゃ出来ない話もあるでしょ!」
「……あー、なるほどな」
二人じゃなきゃ出来ない話。恐らく彼女のいた世界の事や、今後の行動などについて。彼も混ぜたいのは山々だが、状況が状況であるため、今回は彼抜きで計画したのだろう。当然と言えば当然であり、今回ばかりは仕方のない事だ。
彼女の言葉に納得すると、鞄からペットボトルを取りだし、水を体内へと取り込んでいく。
十数分前に買ったばかりなのにも関わらず、水は冷えていた面影がないほどに温く変化しており、お世辞にも美味しいとは言えない物になっていた。多少不満を覚えたが、炎天下では仕方がないと考え、ぶっきらぼうに鞄へと放り投げ、歩みを続ける。
軽口を叩きながら足を進めていると、体感時間は数分で水族館へと到着した。彼女は水族館が楽しみなのか、俺の手を握ると一気に駆けだした。一瞬驚く素振りをしながらも、炎天下の地獄から抜け出せることを瞬時に理解し、彼女に引っ張られながらも駆けていく。
彼女が事前購入したチケットを使用し、水族館へと入ると誰もを幸せにするであろう冷気が全身を包み込んだ。俺達は同時に幸せな声を漏らすと、両手を上げ、全身に冷気を纏いにかかる。数秒間行動を続けると、理性を取り戻し、今後の行動を決定づけていく。
俺達の訪れた水族館は日本で五本指に入るほど巨大な水族館と言われている。水槽の数では三本指に入るほどで、その分魚の種類も量も桁違い。他の水族館では鑑賞不可の魚や、通常より巨大な魚など様々な魚を取り扱っている。そして、魚よりも人気なアトラクションとして有名なのがペンギンショー。六匹のペンギンが織りなすショーが可愛らしく、ショーの為だけに訪れる事もあるらしい。
俺達はペンギンショーの時間帯を確認しつつ、ショー開始まで館内を回る事に決め、水族館を進み始める。
「あ、尚也見て! 海のトンネル!」
館内を進み始めると同時に現れたのは真横から頭上までがガラス張りの水槽になっている、トンネル水槽の道。
十数メートル続くトンネルはどこを見ても魚が目に入る仕組みになっており、水族館でよく見かける可愛らしい魚やエイのような有名な魚が混ざって泳いでいる。圧巻の光景に自然と魚たちに目を奪われ、数秒トンネルで停滞していると、彼女は思い出したかのように手を握り、一気に館内を進んで行く。
どうしたのかと尋ねると、他にも凄い魚が居るだろうから早く見たいとの事らしい。相変わらずの子供のような一面に多少呆れながらも、軽く笑みを零し、逆に手を引くように足を動かす。
トンネルを抜けた先の館内は更に衝撃的で、多種多様な水槽で大量の魚たちが泳ぎ続けていた。俺達は同時に感嘆の声を呟くと、手前の水槽から順々に目を向け始める。
綺麗な翠色の海藻の間を華麗に通り抜ける、銀鼠色の平均的大きさを持つ魚。人工的な光に照らされ、神秘的な雰囲気を纏っているクラゲ。土に隠れ、そこに存在しているのを発見出来ない、謎の魚のようなもの。流石は五本指に入るレベルの水族館。どの魚も変わった特徴があり、視覚で大いに楽しませてくれる。
魚の姿形や行動に、思わず笑みが溢れ、自然と気分も高まっていく。彼女も気持ちは同じようで、俺と同様に満面の笑みを浮かべ、全力で水族館を楽しんでいるように見える。
その笑みを目にし、不思議と俺の笑顔もより満面のものへと変わっていく。
楽しく水族館を満喫し、予定のショーまで数十分。腹の虫が鳴って来た事もあり、一時昼食を取る事に決め、水族館内の飲食店エリアへと向かって行く。
エリア内には別々の方向性の料理を売りにしている飲食店が数店舗配置されており、四方八方から食欲を誘う香りがエリアへ侵入した入館者を包み込んでいる。俺達は最も景色が良い窓際の二人席に荷物を置き、それぞれ好みの食べ物を購入するべく別行動をとる。
麺類や定食、ジャンクフードなど多種多様な食べ物に悩まされ、相当な時間を掛けて考え続け、一つの正解を導き出した。
自信満々の足取りで飲食店に入ると、可愛らしいメニューを注文し、それなりの金額を支払った。そして、数分待機したのちに店員から渡されたのはペンギンの形をしたアイスが乗ったパンケーキ。想像以上の出来に内心ガッツポーズを取りながら、急ぎ足で席へと戻っていく。
席に到着するとそこには彼女が一人座っており、彼女の目の前には複数の料理が置かれていた。
ラーメンにオムライス、カレーライスと大量の料理はどれも大人一人分の量はあり、他人が見れば彼女一人が買って来たとは夢にも思わないだろう。
ケーキをテーブルに乗せると、彼女は遅いと愚痴を零しながらも、可愛らしい見た目のケーキに夢中になっていった。
「ペンギンのアイス……可愛い、すっごい可愛い! 何それ、そんなのどこにあったの⁉」
「そっちのアイス屋にな。そっちはラーメンにオムライスに……いつも通りめっちゃ食うな」
「まあ、運動部ですからね。尚也は甘い物ばかり食べ過ぎ。もっと、色んなものを沢山食べなきゃダメだよ!」
「まあ、気が向いたら食べるよ。それじゃあ、いただきます」
俺の言葉を合図に、同時に料理に手を着ける。
アイスのかかったパンケーキをナイフで切り、一気に頬張る。柔らかい生地が口内に侵入すると同時に、優しい甘さが口いっぱいに広がっていく。
見た目の可愛らしさに引かれて購入したが、値段相応に美味しい。個人的にはパンケーキ激戦区でも十分に戦っていける実力があるように思える。
想像以上の美味しさを誇るパンケーキに喜びながら、ふと向かいの様子を見てみる。彼女は既にラーメンを食べ終え、オムライスに手を着けているようだ。
食事の速さに感心しながらも、その幸せそうな顔にこちらも嬉しくなる。
視線に気づいたのか彼女は目線を俺へと向けると、一瞬不思議そうな顔をしたのちに、隙ありと言わんばかりの手際の良さでパンケーキの一部を奪い去り、自らの口に放り込んだ。
「……あ……ああああああ! お前、何勝手に食べてんだよ! しかも、ペンギンアイス少し削ってんじゃんか!」
「ぼーっとしてる方が悪いですー!」
「こいつ……ほいっとな」
彼女の勝ち誇った顔に苛立ちを覚えながらも、冷静に彼女の隙を突き、オムライスの一部を奪い取る。素早い動きでスプーンを口に運んだことにより、反射神経の鬼である彼女に反応される前にオムライスを食すことに成功した。
驚くと同時に何か言いたげな表情を浮かべる彼女に対し、煽る様に数秒前の彼女がしたように勝ち誇った表情を向ける。
彼女が顔を膨らませると、数秒間俺達の間に静寂が広がり、その数秒後。これまでの行動が可笑しくなり、俺達は同時に声を出して笑った。
ある程度笑い終えると、俺達は他愛もない会話を交わしながら、楽しい食事を再開する。
食事開始から数十分経過し、ショーまで数分となった事を確認すると、食事後の片づけをするべく皿を纏め、お盆を店に届けたのちに案内板へと移動する。
現在位置からショーが行われる会場に行くためには数メートル歩き進み、階段を三階進む必要があるようだ。見た感じの距離は近いが、階段がある事を考え、多少急ぎ足で会場へと向かい始める。
途中階段を間違えるというアクシデントが起こった物の、ショー開始の時間丁度に席に到着し、落ち着いて指定済みの席に腰を下ろす。事前に予約しておいた事もあり、席は最もペンギンに近い、最前列となっている。近距離で最高のショーを見れるという現実に、自然と胸は高まり、声のトーンも上がっていく。
数十秒、彼女とペンギンの可愛らしさを話し合っていると、突然ショーは開始された。
舞台裏から出てきたのは飼育員二人とペンギン六匹。ペンギン達はそれぞれ個性があるが、どの子も可愛く、途轍もなく癒される見た目をしている。
飼育員は慣れた動きでペンギン達を誘導し終えると、軽い口調で挨拶を始めた。抑揚があり、楽し気な飼育員の話に、思わずより一層楽しくなってくる。飼育員の彼が全体の説明を終えると、ペンギン達は全員同時に動き始め、飛び込み台の後ろに一列に並び始めた。そして、もう一人の飼育員が腕を振ると、慣れた動きで素早く水へと飛び込む。飼育員が腕を振るごとに水へと飛び込んで行き、入水したペンギン達は華麗な動きで円を描くように泳ぐ。
可愛らしく、素晴らしい動きに観客からは歓声と拍手が溢れ出す。
飼育員は軽く会釈をすると、バケツから魚を取りだし、ペンギン一匹ずつに投げ、餌やりをして見せる。器用に魚を受け止めると、一飲みするペンギンに再び観客から歓声が溢れる。その後、階段を上がったり、ハードルを飛び越えたりと様々な内容のショーが続き、あっという間に時間は過ぎていった。
気が付けば、ショー開始から四十分。最後にペンギン達の可愛らしいダンスを行ったのちに、ペンギンショーは幕を閉じた。個性溢れるペンギンによる、可愛らしいペンギンショー。
その圧倒的な可愛さに、今日一番の幸せを感じたのは隣の彼女も同様のようだ。
「すっごい、可愛くなかった⁉ だってもう……可愛すぎない⁉」
「分かる。なんかもう……可愛かった。語彙力死ぬレベルで可愛かった」
「ペンギンって、自由気ままで、あそこまで指示通りに動くショーって中々ないんだよ。やっぱりここの水族館は違うねー。本当に最高だった!」
「まじで最高だったなー。この後どうする?」
「んー、時間も時間だし、そろそろお土産だけ見て、帰ろっか。これ以上の幸せを得る事はないだろうしね」
彼女の言葉に深く同意すると、俺達はペンギンショーの素晴らしさを話しつつ、お土産コーナーへと足を運んだ。 可愛らしい魚達のグッズに心惹かれたが、全財産と今後の予定を考え、俺は購入を断念。彼女は何か良い物を見つけたようで、数分間悩んだのちに、何かを購入したようだ。
何を選んだのか聞いたものの、彼女は後で教えるの一点張りで、何を選んだのか教えようとしない。多少内容を気になりながらも、後で教えてくれるという言葉を信じ、聞くのを止めた。
それから、俺達は家に帰るべく、水族館を後にした。楽しかった分、疲労も溜まっており、バス内では双方爆睡。降りるべきバス停を乗り過ごし、行きより長距離を歩くことになりながらも、楽しい雰囲気はそのままに足を動かしていく。
不思議と話している間は暑さを強く感じる事はなく、多少ではあるが楽に感じる。彼女もそうなのか、俺達の会話は止まる事無く続いていく。
そんな時だった。彼女は突如として口を閉じると、俺の顔を直視してきた。
突然の行動に動揺しながらも、何も言う事なく、逆に見つめ返す。
彼女はニッコリと笑うと、再び前を向き、小さく口を開いた。
「ねえ、尚也。一応聞いとくけど、今日楽しかった?」
「急だな。そりゃあ、楽しかったよ。魚可愛かったし、ご飯美味しかったし、ペンギン可愛かったし」
「そっかー。良かったー。……これでも心配してたんだよ。尚也、神社での失敗結構気にしてたみたいだしさ!」
「……あ」
彼女の一言で、大体の事を理解した。何故、彼女は突如として約束を取り決め、その約束が二人で出かけるというものだったのか。
恐らく、彼女は落ち込んでいた俺を元気づけるために今回のお出掛けを計画したのだろう。優しい性格の彼女だ。目の前で落ち込んでいるのを見過ごせなかったのだろう。
長い付き合いだ。俺が言葉で励ますだけで元気にならないのは知っているはずだ。 その為、実際に楽しい思いをしてもらい、元気になってもらおうと考えたのだろう。
実際、彼女のお陰で今は幸せな気分で溢れている。落ち込む気持ちは消え去り、元気一杯だ。
彼女の思いに、今回の行動。恥ずかしさもあるが、それ以上に嬉しさで心がはち切れそうになる。
一度足を止め、強く鞄を握ると、彼女の方へ顔を上げる。そして、彼女の目を見て、心の底からの気持ちを一言。ありがとうと、彼女に伝えた。
彼女は照れるような仕草をすると、軽い口調で良いって事よ!と答えた。
二人の間に流れる謎の空気感に多少ぎこちなくなりながらも、俺達は再び足を進める。
「今日はあたしも楽しかったよ。楽しくて、美味しくて、嬉しかった。……なんかさ、あたしはこの世界も十分楽しい。多分、もう一人のあたしもそうだと思うよ。だから、元の世界に戻る方法はゆっくり探していこうよ! 急ぐ必要はないって!」
「鈴鹿……そうだよな。なんか急ぎ過ぎてたのかもな」
「そうよ。何やかんや言っても、こういうのは計画とか立てずに、適当にやった方が上手くいくしね。なんて話してたら……」
彼女の瞳の先を見ると、例の神社が見え始めていた。俺達が出会うきっかけとなり、俺達を悩ませるきっかけとなった神社。至る所が壊れており、苔が生え、古びた神社。
こうして見てみると、何とも言えない感情に支配される。そもそもとして、あの神社は一体何なんだろうか。
神社に対して感情に耽っていると、突如彼女は俺の手を引き、駆け出した。突然の出来事に、最初は引きずられながらも、何とか体勢を立て直し、彼女に引っ張られながら駆けていく。
思い出してみると、今日は彼女に引っ張られてばかりの様な気がする。
「……いや、突然どうしたんだよ、鈴鹿。びっくりしただろ」
「あ、ごめんー。けど、思いついちゃってさ。こんなタイミングで見つけたんだし、また試してみようよ!」
「試すって何を?」
「決まってるじゃん。鳥居を潜るの!」
彼女はそう言いながら、鳥居前の階段を駆け上がる。続くように俺も一気に駆け上がっていく。
ふと見えた彼女の表情から察するに、特に深い事は考えていない。ただ、その場の勢いで潜ってみようと考えているのだろう。
軽く呆れながらも、俺は彼女を追い越すように勢いを上げ、階段を上る。それに反応し、彼女も速度を上げていく。
俺達は同時に地面を蹴ると、空へと高く飛び上がる。そして、笑顔のまま、俺達は同時に鳥居を潜った。
当然の様に、俺達の身に不自然な事は起こらず、前回同様に地面に足を着地させる。
そうなると、思っていた。
次の瞬間。突如として、強烈な衝撃が頭を襲った。頭を殴られたような、誰かに体全体を振り回されているような、そんな力を感じる衝撃。
突然の衝撃に目を閉じると、頭を押さえながら、その場に立ち尽くす。
数十秒立った頃だろうか。未だ衝撃が残る中、何とか瞼を上げる。そこには、現実とは思えない光景が広がっていた。
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