第5話  聖女の抱擁


「黒の旦那、サルス殿の言うことは何一つ気にするこたぁありやせん」と俺を慰めてくれるフランチェスコに礼をして、談話室を後にする。


 サルスの一件があって、俺は釈然としない思いに駆られながらも彼の言葉の意味を考えていた。


 アマルに対しての侮辱は許されることではない。


 ただこの時代の女性の地位の低さ、女性嫌悪、女性蔑視の歴史があのような発言に結び付いたのだろう。


 ……いつか絶対殴ってやる。


 彼女が不当に罵倒され、俺は暗鬱とした気持ちになった。


「野蛮で無知。それが俺の罪か……」


 何を以てアイツがそう言ったのか。俺を単に貶したかっただけなのだろうか。しかし、あの底知れぬ瞳からは、どこか暗く拘泥とする何かが隠れているような気がした。


 俺は足を進め、沈黙の回廊と呼ばれる場所にとたどり着く。薄暗い修道院の中で、唯一光溢れる場所、それがこの回廊なのである。


 回廊中庭は、芝生で覆われ綺麗に整えられている。ここは、禁欲的な生活を送る修道士たちの憩いの場であった。修道士たちは、この回廊を無言で歩く。周回しながら、神に祈りを捧げたり、考え事をしたり、時には日向ぼっこを楽しんだりもする。


 何はともあれ、ここは考えごとをするにぴったりの場所なのである。


 俺は柱に持たれかけながら、中庭をじっと見つめた。野蛮ということは、俺が異邦人であり、未開の地から来たと思われているからだと推測できるが、無知とは何を指して言ったのだろうか。


 ただ、知識という点に置いては、俺はかなり高度なレベルだと自負している。何せ、小中高大と16年間勉学に励んできた訳だから、逆にそうでないと悲しい。ただ、この時代の常識においては、幼い子どもにも劣ると言わざるを得ないが。それはそれである。


 彼が言う無知とは、無学であるということと必ずしも一致しないのではなかろうか。



 ――異教徒で、白痴にして野蛮。



 不穏な響きしかしない言葉を並べてみた。改めて、げんなりとした気分になった。


 まず、俺は異教徒以前に無宗教である。


 文化的にどうかと言われると辛いものがあるが、特別宗教を持っているわけではない。まぁ、その考えは日本が元々おおらかな宗教観を持ち、他国の宗教にも比較的寛容であることが根本にある。


 正月には初詣に行き、バレンタインに浮かれ、ハロウィンに踊り、クリスマスを祝う。

 初詣は言うまでもないが、バレンタインはキリストの聖人(元をたどればローマの豊穣祭が源流にある)を祀るものであるし、ハロウィンに至ってはイギリスの先住民であるケルトのお盆である。


 多くの日本人は、無宗教ではあると思っていても、無神論者ではないというのがミソなのである。


 神様は居ないより居た方が、神頼みや験担ぎできる。どんな宗教的行事であれ、騒いで笑って楽しければ良い。と、言った俗物的な考え方に言い換えても良いだろう。俺もその例に漏れないのである。


 そこまで、考えてふと思った。


 サルスはあれだけ俺のことを嫌い遠ざけているのにも関わらず、今までストーンハーストから追い出そうとしたことは一度もなかった。普通なら、どうにかして修道院から閉め出そうと躍起になるものではないだうか。


 俺が彼の言う、異教徒であり白痴にして、野蛮であるならば。



 ――そのことに対して、少しのひっかかりを覚えた。




 ****




 その日の夜。


 いつものようにアマルと晩餐を共にし、一息つく。


 俺はベッドに腰掛けながら、てきぱきと動くアマルを眺めた。アマルは黙々と、後片付けをしてくれている。その姿を見ると、脳裏にアマルを侮辱したときのサルスの顔がよぎった。思わず憮然とした表情になる。


 綺麗な銀髪は滑らかに腰まで広がり、その整いすぎた顏は人形のように美しかった。誰もが振り返るであろう美貌を湛えた少女は、俺に見られていることに気付き、さっと頬を染める。


 アマルは手を止め、俺を上目遣いで見る。それから、何かを感づいたように、目を細めた。無言で、歩み寄ってくる。目の前に立つと、アマルは俺の頬に両手を添えて軽く引き、自分の方に顔を向かせた。


「アンディ様……何か、あったのですね」


 あったのですか? ではなく、断定的な口調。見透かしたような物言いに、ひどく怯む。


「……いや、いつも通りだよ」


「それは、嘘」


 即答だった。

 アマルは、優しく俺の頬を撫でる。その手の冷たさに、ぞくりと身体が震えた。ふたつの深紅の瞳は、俺を通して誰かを見ているようだった。


「そう、あの男……」


「……えっ?」


「サルス・ニールセンですね。あの男、貴方様に何を申したのですか」


 怒気が混じった声音が部屋に響く。心臓がどくりと大きく跳ねた。


「別に、大したことは言われてない」


「いいえ。いいえ、アンディ様。そうであるなら、貴方様がそのような顔をなさるはずがありません。どうかこのアマルに全てを仰ってくださいませ」


「っ、それは……」


 とてもじゃないが、アマルには言えなかった。自分を悪く言われたことを知り、アマルがどう思うかなんて考えなくとも分かる。


「アンディ様、仰って……」


 有無を言わせない言葉に、思わず尻込みする。アマルは更に顔を近づけて、俺の名前を再度囁いた。俺は溜め息を漏らした。降参し、目を伏せる。


「……あいつ、アマルを悪く言ったんだ。ぶん殴ってやろうと思ったけど、できなかった。お前を見たら、そのことを思い出して、ムカムカしてたんだ。その、ごめんな」


「アンディ、様……私の、ために……怒って、くださったのですか?」


「そんなの、当たり前だろ」


 震える声で尋ねるアマルに、間髪入れずに答えた。次の瞬間、身体を引っ張られたかと思うと、目の前が真っ暗になった。頬に蕩けるような柔らかいものがあたる。


 どうやら、頭に腕を回され強く抱擁されているようだった。ということは、この柔いものは……。


「……アンディ様」


「お、おう! な、なな何だ!」


 俺は意識を浮上させ、慌てて返事をした。アマルは俺の頭をかき抱いたまま、静かに言葉を重ねる。


「私が貴方様を必ずお守りします。決して、何者にも傷つけさせないと誓います。例え、どんなことをしてでも。だから――」


 ――だから、どうかずっと私の側に居てください。


 祈るようなその言葉に、俺は答えることができなかった。

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