聖者の牢獄

桂太郎

第1章 悪夢からの目覚め

第1話 目覚め


 

 いと尊きお方。


 私はあなたに従います。


 私は罪人。


 どうか、私の罪をお許しください。


 ああ、大いなるお方。


 あなたは私の罪からの救い主。




 ――ーあなたに、全てを捧げます。



 




 ぼんやりとした意識が浮上する。


 どうやら俺は椅子に座ったまま居眠りをしてしまっていたらしい。長い間同じ体勢だったのか、少し身動きすると身体がぎしりと悲鳴を上げた。


(――――ここは)


 視線を巡らす。

 石造りの床は湿気で濡れ、なまめかしく光を反射している。壁にはゴシック調の緻密な彫刻がされ、どこか儀礼めいた重厚さを感じさせた。正面には祭壇があり、その後ろには夥しい数の蝋燭が灯されていた。


 なるほど。俺は礼拝堂で眠ってしまっていたようだ。神を前にして、全くもって不敬極まりないな、と思わず苦笑する。


 無宗教であるとは言え、イタズラが露見したようなばつの悪い気持ちになる。それを誤魔化すように乱れた黒髪を乱暴に数回撫で付け立ち上がる。その動きに合わせて、木製の長椅子が軋んだ。


 室内に窓はなく、ゆらゆらと怪しげに揺れる蝋燭だけが光源だった。


 蝋燭は床に、壁に、無造作に置かれ、数多く灯されているのに全く暖かみを感じない。むしろ、蝋燭の炎が影を濃くし、その闇におぞましい何かが蠢いているようにも思えた。


 意識して、靴先で床を数回踏み鳴らす。コツコツと、足踏みの音があたりに響いて消えた。

 静けさを打ち消すつもりが、逆にその静謐さを浮き彫りにさせてしまう。静寂が迫ってくる。それがひどく心細い。


 吐息さえもしんとした空間に反響し、独りであることを妙に実感させる。お前はこの場所にいるべき存在ではないと、言われている気さえした。


 何気なく祭壇の方へ視線がいく。先程は意識しなかったが、蝋燭に照らされた先に大理石の彫刻が安置されているのが見えた。


 両手を空に掲げ、フードを目深にかぶった人物の彫刻だ。


 祈るようにも、懇願しているようにも見える。ただの彫刻なのに、どこかおどろおどろしさを感じるのは、この場の雰囲気に呑まれてしまったのかもしれない。


 深呼吸して、気分を振り払う。


 蝋燭の溶ける匂い。椅子から漂う腐った木の匂い。埃の匂い。妙に生臭い、カビの匂い。全てが混ざり合い、鼻から肺に流れ込む。澄んだ空気ではなかったが、それでも先程より気持ちは落ち着く。


「――ああ、アンディ様。良うございました。ここにいらっしゃったのですね」


 呼ばれて、それが自分の名だったと他人事のように思った。


 本来の名は、アンドウ・リュウ。


 漢字では安藤隆と書く。


 しかし、この地の人間には難しい発音らしく、何度言ってもアンドリューと呼ばれるので、今はそれで通している。アンドリューの愛称がアンディなのだとか。

 まあ、ここで俺のことをアンディと呼ぶ人間は、たったひとりしかいない。一拍おいて振り向くと、声の主に向けて微笑んだ。


「……アマルティアか」


 礼拝堂の入口には、艶消しされ影に溶け込んだ黒のローブを身に纏った女性――アマルティアが佇んでいた。呼び声に答え、彼女は祈るように両手を合わせる。


「はい、アンディ様。アマルティアでございます。ええ、そうです。そうですが、意地悪せずいつものようにアマル、とお呼びくださいませ。そんな他人行儀なことを仰られては、わたくしとても寂しゅうございます」


「ああ、ごめんな。アマル」


「ふふっ、アマルは貴方様にそう呼ばれることが一等嬉しいのです。覚えておいてくださいませ」


 フードを目深にかぶり、その表情を窺うことはできない。しかし、その涼やかな声から、まだ少女と言っても良い年頃なのは明らかであった。


 アマルティアはこのストーンハースト修道院の修道女シスターだ。彼女は俺が初めてここで出会った人間で、その時も今回と同じようにこの礼拝堂に横たわっていた。


 ちょうど礼拝堂で祈りを捧げていたアマルが、倒れている俺を見つけてくれたのだ。たった半年ほど前のことなのに、ずいぶん昔のように感じる。


 ここに来たきっかけは分からない。


 勿論、原因も不明だ。気が付けば中世ヨーロッパにタイムスリップしていました、としか言えない。


 世界史が得意でなかった俺には、昔のヨーロッパの地名が分かるわけもなく。ここがどの国かも見当がつかない。 

 そもそも中世ヨーロッパと大枠でいったものの、本当にそうなのかも分からないのだ。もう少し真面目に歴史を勉強しておけば良かったと常々後悔している。


「それで、どうしたアマル? 何かあったのか?」


「いいえ。……その、ただ私、アンディ様にお会いしたくて」


 アマルはそこまで言って、顔を伏せた。そして、しずしずと側まで歩み寄ってきた。その姿に、思わず頬が緩む。


 27歳の俺と恐らく10代後半のアマル。修道院の中では、他の修道士よりも比較的年が近いことも手伝って、すぐ打ち解け、外部から閉鎖された修道院の中で、腹を割って話せる相手となった。今では、だらしない兄に何かと世話を焼いてくれる妹といった関係である。


 アマルと出会ってからは、ほとんど1日彼女と共に過ごしている。一緒にいないのは、それこそアマルが礼拝に行くときと俺が寝るときぐらいである。俺の姿が見当たらないと、彼女はこうして修道院中を探して回るのだ。


 完全に目を離せば、何かをやらかすと思われているのか。思われてるんだろうなぁ。そこまで考えて、これ以上俺は考えることを放棄した。


「ああ、なるほど。悪かったな、何も言わず勝手に側を離れて。それにしても、俺はどうしてここで寝てたんだろう? ……っと、これはベネディクト修道司祭には内緒だぜ。礼拝堂で勝手に居眠りとは何事だって怒られちまう」


 その冗談にアマルは深々と頷いた。頷いて、それが主命であると言わんばかりに両手を掲げた。これは拝礼時にもおこなわれる仕草だ。神に誓って、ということだろう。


 苦笑しながら頭をかく。忘れていた。アマルはとんでもなく真面目なのだ。そんなことを考えていると、彼女は控えめに言葉を発した。


「……その、アンディ様」


 一拍置いて、アマルはさらに言葉を重ねた。


「僭越ながら、このような寒々しい場所にいると貴方様がお風邪を引いてしまいます。お部屋にお戻りくださいませ。アマルが何か暖かい飲み物をご用意致しますから」


 いつものような穏やかな口調だが、有無を言わせない何かがあった。よっぽどここから俺を連れ出したいのだろう。まぁ、修道司祭からも礼拝堂には近づかないように言われているので当然か。アマルは優しいから、俺に対してきっとキツいことを言えないのだ。申し訳ない。


「そうか。うん、アマルの作るものは何でも美味しいからな」


「まあ、アンディ様ったら。ふふっ、腕によりをかけて、お作りいたしますわ」


「なら期待しておこうかな」


「はい、アンディ様」


 アマルは上品に微笑んで頭を下げた。俺が歩き出すと、きっちり3歩下がって付いてくる。


 アマルが特別男性を立てているという訳ではなく、この時代の女性は皆そうなのだ。そもそも男女平等の思想は、近代に入ってからの比較的最近のもので、それまでの女性は公的な枠組みから除外され、常に男性の管理下に置かれる存在だった。


 「人は、権利において、自由かつ平等に生まれている」と、謳ったかの有名なフランス人権宣言の中にも、女性の人権について全く言及されていない。あくまでも、自由かつ平等の権利を享受する対象は、白人の男性市民に限定されていた。それは俺たちが考える自由・平等とは程遠い。何とも皮肉なことだ。


 つまるところ、彼女たちの命運はその男性である後見人に委ねられた。

 娘であれば、父。兄弟であれば、兄あるいは弟が、妻であれば夫が女性を管理する。女性たちはその範囲内で、その人生を始め、終えるのだ。それが籠であるのか、加護であるのか。何とも言えない。


 ただ、自分がそのあり方に馴染めないのは、生きた時代と文化の違いだろう。それを加味せず全てを悪いものだと一方的に糾弾するつもりはない。でも、どうもすんなりと受け入れることはできない。


 俺は振り返りアマルを見た。アマルはピタリと止まりどうしたの? と、不思議そうに小さく首を傾げた。そんな彼女を尻目に手を差し出す。


「アマル、並んで歩こう。ほら、手を出して」


 アマルはびくりと肩を震わせた。信じられないように俺の顔を見上げた。


「アンディ様、私ごときが貴方様にそのような恐れ多いことを」


「あー、ごめん。もしかして、嫌だったか?」


「……いいえ。いいえ、アンディ様。違うのです。嫌な訳ではないのです。決して、決してそんなことがあるはずありません。ああ、そのようなことありえませんとも。ただ、ただ本当に。本当にーーー」


 私が貴方様に触れても、良いのですか? と、彼女は消え去りそうな声で囁いた。言葉を口にしながら、自身に問いかけるような口調だった。


「いいよ」


 それだけを、答えた。答えはそれで十分だった。

 

 再度、手を差し出す。


 俺の返答に、アマルは息を呑む。目深にかぶったローブの隙間から見える彼女の抜けるほど白い肌が真っ赤に染まった。


 何度も俺の掌と顔に視線をさまよわせ、アマルは手を引っ込めたり出したり。数秒迷う素振りを見せながらも、壊れやすい宝物を扱うようにそっと両手で掌を包んだ。


「ああ……暖かい」


 アマルは繋いだ手を眺めて、ぽつりと呟いた。


 

 ***



「アンディ様、こちらをどうぞ」


「ありがとう、アマル」


 部屋に戻ると、宣言通りアマルはすぐ飲み物を用意してくれた。簡素なベッドを椅子代わりに腰掛け、アマルから木製のコップを受けとる。手にじんわりと暖さが伝わる。


 一口飲むと、蜂蜜の甘さと柑橘系の爽やかさが広がった。舌が少し痺れるのは、お酒だろうか。仄かにアルコール独特の香りがした。文句なしに美味しい。


「アマル、すごく美味しいよ」


「ふふっ、お口に合ってようございました。蜂蜜酒ミードとレモン、数種類のハーブを合わせ熱したものです。熱で酒精もある程度飛んでいますので、安心してお飲みください。身体が暖まります」 


「ありがとう。俺、あんまり酒は得意じゃないけど、これはいくらでも飲める。すごく暖まるよ」


 語彙力のない誉め言葉なのに、アマルは心底嬉しそうに微笑んだ。これぐらいの言葉ならいつでも言ってやろうと思った。


 ちびちびと杯を煽りながら、アマルを見やる。彼女は姿勢良くお上品に側に控えていた。


「アマル、立ちっぱなしは疲れるだろ。こっちへおいで。ほら、そのフードも脱いでさ。俺しかいないんだ。ここでぐらいゆっくり寛いでくれ」


「しかし、私は……いいえ、ええっと。はい。では、お隣に失礼致します」


 何を言っても無駄だと思ったのだろう。アマルは躊躇いながらもフードを脱いで、隣にそっと腰を下ろした。ふわりと甘い匂いが漂う。蜂蜜酒とは違うアマルの香りに心臓がざわつく。それを誤魔化すように俺はアマルに話しかけた。


「相変わらず、綺麗な髪だな」


 腰まで伸びた絹糸のように艶のある銀髪。もみあげを一房だけ編み込み緩やかに流している。アマルは俺の熱心な視線を感じたのか、恥ずかしげに頬を染め顔にかかる髪を払った。


「……そう、でしょうか」


「そうだよ。なんだ、俺が嘘をついてると?」


「いいえ、そのようなことは決して……」


 アマルは視線を下に向けた。何かを思い出しているようだった。その姿があまりにも寂しそうで、辛そうで、見てられなかった。思わず、くしゃりとアマルの髪を撫でる。


「俺、初めてアマルと会ったとき、髪がキラキラ輝いて星空みたいだなって思った。瞳だってルビーみたいだし。もっと、自信持てよな。お前、俺の住んでたとこでは中々お目にかけられないぐらい美人さんなんだから」


「あ、う、アンディ様っ」


 アマルは耳まで真っ赤になった。服を控えめに引っ張り、涙目で上目遣い。狙ってやってたなら将来絶対魔性の女になる。男を手玉に取る未来を想像し、げんなりした。妹分の将来が心配だ。


 撫でていた手を離すと、アマルは「あっ……」と寂しげな声をあげた。もじもじと、数秒肩を揺らして視線を迷わせる。


 羞恥から慌てて、こちらの言葉を止めたのに撫でるのは止めないで欲しかったらしい。態度で分かったが可愛いので知らんぷり。


 アマルはこちらの様子に痺れを切らしたのか、頭をぐっと差し出し撫でろと無言の催促。この甘え下手め。


 さらさらと、全く引っ掛からない髪を何度も撫でる。アマルは気持ち良さそうに鼻を鳴らした。そして、許しを得るように、チラチラと俺の顔色を伺ってくる。 


 何を求められているのかは全く分からなかったが、俺は頷いて微笑んでみせた。アマルはそれを見て目を輝かせると身体を寄せてくる。恐る恐る肩に頭を預け、俺が何も言わないことに安心したのか、無防備に瞳を閉じる。


「今日は、ずいぶん甘えん坊だな」


「駄目、でしょうか?」


「いいや。どんとこい。いつも頑張ってる妹分を甘やかすのも兄貴の仕事だ。うんと甘えてくれ」


「……嬉しい」


 アマルはそう言い、額を肩に擦り付けた。俺の左腕に手を差し入れ、腕を組む。少しでも隙間を作りたくないとでも言うようだった。普段ローブを着ているのであまり分からないが、歳の割にかなり豊かなアマルの胸があたる。


 ぐっ、柔らかい。


 あまり意識をしないようにしているが、ふとした瞬間やはり女の子なんだと再認する。


「アンディ様。ああ……私、ずっとこうしていたいです」


「そっか。なら、しばらくこうしてゆっくりするか」 


 なに食わぬ顔をして、俺はアマルとたわいもない話をしながら穏やかな時間を過ごした。

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