第3話 パンドラの箱

18時半になった。

社用車で用事を済まし、残りの仕事を片付け終わった頃には、定時を少し過ぎて

いた。

珍しく早めに仕事が終わり、今日は早く帰って孝志を映画に誘ってみようと思いたった。

昼間突然に湧き出してきた虚しい気持ちを抱えたまま帰りたくはなかった。

パソコンを落として孝志にラインを送る。

すぐ既読になり、「別にいいよ。」とだけ返事が来た。

最近は返信も随分とそっけない。

付き合いたてはたくさん質問が返ってきていた。

デートのお誘いだってしてくれていた。

最近は、どこかに行こうと誘うのは私からばかりだ。

一緒に行っても楽しそうな素振りはまるで見られない。

3年一緒にいればこれが普通なのかもしれない。多くを求めすぎなのかもしれない。

そう言い聞かせた。

「一緒に行ってくれるだけまだマシか…」


帰ろうとした瞬間、視界の隅に女性社員が駆け寄ってくる姿が見えた。

私めがけてまっしぐらだ。嫌な予感がする。

「来栖さん!まだいた!よかった!!」

ホッとした表情で有無を言わさず書類を押しつけられた。

「どうかされたんですか?」

表情が強張る。

「明日の会議の資料!この部分を手伝ってもらえない?難しいことは全然させないから!誰でも出来る事なんだけど、来栖さんしか頼めなくて。

ほら、みんなあからさまに嫌な顔するじゃない?こうやって頼れるのは来栖さんだけなんだよね」

申し訳なさそうに見える表情。そう見えるだけの表情。


選ばれたどの言葉も微塵もうれしくない響きで嫌な気持ちになった。

”来栖さんは都合が良いから”としか聞こえない私はひねくれているのだろうか。


昨日の派遣切りで、明日は我が身という事を見せつけられた今、「映画見たいから帰ります!」なんて口が裂けても言えない。というか、性格上言えないのだけれど。

まぁそれを知られているからこうなるのだ。


この人ならいける・この人はダメ、そんな線引きが自然とされていく。

思いやりを大事にした結果が、利用価値があるただの便利な人になってしまったなんておかしくないか??

真面目な人ほど損をするってどんな世界だよ!と心の中で悪態を吐きながら、心でしか抵抗できない自分に嫌気がさす。

「わかりました…」

無表情で答えた。せめてもの抵抗だ。

我ながらなんてささやかな抵抗だろう。でも、これが精一杯なのだ。


全然ウェルカムじゃない無表情の私は見えなかったようで、満面の笑顔で

「今度何か奢るね!わかんない事があったら聞いて!本当に助かった!ありがとう」

と早口に捲し立てて去っていった。社員にしかできない仕事をしに。

替えがいくらでもきく私とは違うのだ。


私の精一杯の抵抗は、全く効き目がないようだった。

定時を過ぎて、まばらになっていくフロアを見ながら

”今度はもう少しあからさまにしてみようか?”そんなことを初めて思った。

かれこれ6年以上こんな日々が続いていて、いい加減真面目でいるのも良い人でいるのも馬鹿らしくなってきていた。


パソコンを再起動する機械的な音をききながら、孝志にラインする。

「ごめん、仕事入っちゃった。帰り間際、有無を言わさず押し付けられて…」

「あっそ、了解」

「今日はなんか気分が落ちてたから、一緒に映画行きたかったんだけどな」

「まぁいつでも行けるし、いんじゃない」

「レイトショーなら行けそうだけど、どうかな?」

「明日の仕事、朝早いんだわ」


”何かあったの?”という言葉を待っていたけれど、ささやかな私のSOSは軽くスルーされてしまった。

昔はどんなに忙しい時でも時間を作ってくれていたのに。

優しく扱われていたあの頃と比べてしまい、更に虚しい気持ちが心を覆い尽くしていった。

”昔は話を聞いてくれたのに変わったね”

と一度心の声をそのまま打ってみたが、当然送れるはずもなく

「わかった。ごめんね」とだけ返信した。

ごめんね、なんて打たなくてよかったのに、その一言が自分をより虚しくさせた。


ワガママを言える子が羨ましい。

例え周りからは冷めた目で見られても、彼氏や友達を困らせたとしても、きっと私

より大事にされているし、幸せだ。


聞き分けの良い自分でいた結果が、誰からも都合の良い存在となったのだ。

自分で蒔いたタネだ…。

しかし随分とご立派に育ったもんだ…。


自分を労ってあげようと思うと、いつもこうやって邪魔が入る。

まるで、そんなことしなくていい!

そんなのは不要なことだ!と言われているかのように…


昼間の車内での虚しさがなくならないままに、残業を押し付けられ、大事にしてくれるであろう彼氏からもぞんざいに扱われ、なんでか泣きそうになってくる。

ダメだ、変なスイッチが入ってしまいそうだ。

いつもの自分に戻らなきゃいけない。

もういい大人なのだから。


胃に石でも入れられたかのように、ずっしり重い自分を感じながら、そんな自分に

蓋をして仕事に取りかかる。

この感情を直視したら危険な気がした。

見てはいけない。

見たらきっととめどなく溢れてきてしまう。

溢れてきたら、もう止められないように感じた。

慌てて感情にブレーキをかける。


そういえば、赤ずきんのオオカミは、最後石を詰められてたけど、こんな気持ちなのかな。。

そんなよくわからない思いが、瞬間頭の中によぎった。

お腹が崩れていって苦しそうなオオカミの絵が頭に浮かんだ。

奇妙な妄想のおかげで少し冷静になれた。


その後も”来栖さんにしか頼めないお仕事”は次々にやってきて、気づけばあの女性

社員も帰っていた。


いつものことだ…

いつものこと。気にしちゃだめ。

何度も何度も言い聞かせた。









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