第26話 行方も知らぬ恋の道
翌日、僕は実家へと向かっていた。昨夜遅くに帰ってきた怜奈に話を聞いたところ母が会社に乗り込んできて、被害届を出すことを止めるよう強く言われたという。終いには天助との結婚まで勧めてきたそうだ。
「私はこれ以上コーヤに迷惑は掛けたくない。最後くらいはあなたの役に立ちたいの。だから最終的な判断はコーヤに任せる」
「わかった。ありがとう怜奈」
ナクトの映像があれば天助の逮捕、起訴はおそらく免れないだろう。そうなると会社も辞めることになり、彼からの実家への支援はなくなる。生活していく上では父の稼ぎもあるから問題はないだろうが、あの浪費家の母がはたして納得するだろうか?
「父さんに迷惑かけちゃうかな……」
父は高校で化学の教師をしている。事件の大小を言いたくはないけど、仮に天助が起訴されたとしてもそれ程大騒ぎにはならないような気がする。所詮身内の痴話喧嘩みたいなもんだ。真面目な父が自ら職を辞す可能性はあるけれど。
でも僕はけじめをつける意味でも被害届は出すべきだと思っている。僕たち三人が犯した罪への償いだ。
三年もの間、弟と浮気をしていた怜奈の罪。怜奈を傷付け僕を裏切った天助の罪。しかも今回で二度目。これ以上弟の傲慢な行動は兄として見過ごせない。
そしてなにより、この歳にもなってしっかりしてなかった僕の罪。結婚を先延ばしにし、いつまでも夢を諦められず怜奈に負担ばかりかけていた。周りに甘えていたのは僕の方かもしれない。母が言う小言は至極もっともな意見だ。
気付けば実家に着いていた。玄関の鍵は閉まっていたので合鍵を使って中へと入る。
「ただいま」
家の中はしんと静まり返っていた。ついさっき友達とフレンチのランチに行ってくると母から連絡があった。人の事を呼びつけておいてまったくもってあの人らしい。
僕は二階へと上がり自分の部屋のドアの前に立つ。ドアノブを握る手がどうしても震える。あの日、この扉を開けて見た光景はナクトを使わなくても鮮明に思い出せてしまう。
裸で重なり合う由良と天助。あの瞬間、僕の初恋は終わりを告げた。
由良の
行方も知らぬ 恋の道かな
本当にこの先生は達筆だ。黒板に書かれた短歌を見ながら僕は思った。なぜチョークでここまで美しい字が書けるのか不思議でしょうがない。
「じゃあ椋木君。訳してみようか」
いきなり名前を呼ばれた僕ははっと立ち上がった。机がガタっと傾き危うく倒れそうになる。少し離れた席の由良がこっちを見ながらくすくすと笑っていた。
「えーと、由良の門とは丹後の国、現在の京都府宮津市の由良川の河口を示しています。そこを渡っていた舟人、つまり船頭さんが梶、ここでは
「うーん。意味は合ってるけど情緒がないなぁ。50点!」
「はい……」
僕が肩を落として椅子に座ると、由良が親指と人差し指をちょっとだけ開き「惜しい」と声は出さずに口パクで伝えてきた。その仕草に僕は思わずドキッとしてしまう。
彼女とは家が隣同士で幼稚園からずっと一緒だった。本ばかり読んでいた頭でっかちの僕とは違って、彼女は天真爛漫でいつもみんなの人気者だった。美人なのに気取らない性格。モテない要素がどこにも見当たらない。でも彼女は高校三年の現在に至るまで一度も彼氏を作ったことがない。
「元祖理系のこうちゃんにしてはさっきのは惜しかったね」
古文の授業が終わり帰り支度をしていると、由良が僕の席へとやってきた。僕が訳した例の短歌。本当は完璧に答えたかった。
「あの句は由良の名前が入っているから好きな歌だったんだ。ちゃんと訳したつもりだったんだけど……」
すると由良の顔がぽっと赤くなった。なぜかバシバシと僕の肩を叩いてくる。
「そ、そうだったの!? でもがんばってたよ! うん! 古文は私より点数悪いもんね。さっ、くよくよしないで帰りましょ」
「そこまで落ち込んではないんだけど……」
なぜか上機嫌な様子で由良は軽くスキップしながら教室を出た。
校門を目指して二人で歩いていると、突然グランドに向かって由良が大きく手を振った。視線の先ではサッカー部が練習をしている。その中の一人が僕らを見つけて手を上げていた。
「天助はもうレギュラーなんだってね。凄いね、入部したばっかりなのに」
「ほんと、あの運動神経を少し分けてほしいよ……」
「こうちゃんも足はそこそこ速いでしょ?」
「うん。そこそこ過ぎて何も言えない」
僕が軽く溜息をつくと彼女が裾をくいくいっと引っ張った。
「ねぇ今年も二人三脚出てみない?」
うちの学校の体育祭には自由参加型の二人三脚がある。暗黙の了解で、それに出るイコール付き合ってるカップルということになる。去年、というか今もだけど、僕らは付き合ってはないのに、由良がどうしてもと言って聞かなかったので仕方なく参加した。
案の定というか悪い予感は当たるというか、学校一の美少女と冴えない陰キャの僕は全生徒の注目の的となった。恨み
「うーん。またコケたら嫌だしなぁ」
「大丈夫! 今年は体育祭前に練習しよ!」
「えー、練習して上手くなるのかな……」
「なるなる! じゃあ決定ね!」
本当は僕にもわかっていた。去年の体育祭終わりに彼女に告白するべきだったんだ。自惚れじゃなく由良が僕を好きなこともなんとなく知っている。
でも最後の一歩がいつも踏み出せない。明日こそ、来週こそ、いや来年こそ。ずっとこれを繰り返してきた。いざ恋人になったらこんな優柔不断な僕を、由良は嫌いになってしまうんじゃないか? 最近はそんな心配ばかりしている。
でもそれは意気地がない僕の小さな言い訳だった。
もっと早く櫂を漕いで、彼女の元へと向かうべきだったんだ。
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