第19話 おそろのマグカップ
僕はいつもの癖でそっと静かにドアを開けた。怜奈が会社に行くまでにはまだ時間がある。たぶんまだ寝ているだろう。
外はもうすっぽりと陽の光に包まれ、部屋の中は電気を点けなくても明るい。足音を気にしながらゆっくり部屋へと向かうと、床に置いておいたはずの盛り塩が見当たらなかった。
「ゴクリ……」
まさかとは思うが、いやまさかは考えないようにしよう。きっと怜奈が片付けたんだろう。そうだ、日本酒のあてに塩が合うというじゃないか。彼女もなかなか乙な飲み方をするもんだ。
その時、リビングのソファーからこちらをじっと見ている女性の影が――
「……おかえり」
「ひゃーー! で、出っ……おかえり? もしかして怜奈?」
「うん。おかえりコーヤ」
「あ、うんただいま。今日は早起きだね。会社、早いの?」
てっきり寝起きだからと思ったけど、彼女はひどく疲れているように見えた。無理して笑っているのがよくわかる。
「今日は会社、休むことにした。ちょっと体調悪くて……」
「大丈夫? 風邪でもひいた?」
彼女は下を向きながら首を横に振った。よく見ると髪も乱れ、顔色も悪い。
「コーヤ……」
彼女はゆっくり立ち上がり僕の方を見た。
「ちょっと話せるかな? 大事な話があるんだ」
心臓の鼓動が強く、早くなる。ついにこの時が来たんだという不思議な高揚感。まるで舞台の本番が幕を開けたように、緊張感が体に走る。
「うん……コーヒー淹れよっか。怜奈も飲む?」
「うん。ありがと」
コンロに火が灯るとシューという音が静かな空間に響き渡る。ドリッパーにフィルターをはめ、いつもより少し多めに豆を入れる。お湯が沸くまでの間、どちらとも喋らない。怜奈はすでにダイニングテーブルの自分の席に座っていた。
二つ並べたお揃いのマグカップ。怜奈の方だけ牛乳を少し入れた。コーヒー豆にお湯を注ぐと、いい香りが辺りに立ち込めた。豆を蒸らしている間に僕は考えた。
こうして怜奈にコーヒーを淹れるのも最後だろう。物語の終焉はいつだって寂しいもんだ。楽しかった時間を思い出し、そこには戻れぬ無常さを知る。まだ彼女は近くにいるのに、もう遠くへ行ってしまったように思えた。
「シナモン入れる?」
「うん」
マグカップを置くと、彼女はしばらくそれを見つめた。そして一口だけそれを飲んでから、ぽつりと話し始めた。
「私……天助くんと浮気をしてました。……ごめんなさい」
「……うん」
「三年間、あなたを裏切り続けてました……ずっと騙していました」
消え入りそうな声で彼女は話した。泣くのを必死に堪えているのか、マグカップを握る手が震えていた。
「なんで? って訊くのも野暮かな?」
彼女の瞳が揺れる。正しい言い訳がどこかに落ちていないか探すように。でも、そんなものは最初からどこにもない。嘘に疲れた彼女の心は、全て話せと彼女を突き放す。
「最初は……最初はちょっといいなくらいの気持ちだったの。天助くんにはコーヤと違う魅力があって。彼が私に好意を持っているのもわかってた。それで隠れて二人で会っているうちに……私もだんだん好きになって」
堰を切ったように彼女の目から涙が溢れ出す。
「ううぅ……ごめんなさい。あなたがどれだけ大切な人かを忘れてました。自分に甘え、あなたに甘え、いい加減な態度であなたに接することが当たり前になってました。ごめんなざぃ! ごべんなざぃぃ!」
彼女は両手で顔を覆いテーブルに額を擦りつけた。その姿を見て、なぜだか僕は怒りも憎しみも湧くことがなかった。最後の最後に、彼女は嘘をつかず真実を話してくれた。僕はそれで満足できた。自然と心は前を向いていた。
「ありがとう、正直に話してくれて。実は君の浮気はもう知ってたんだ」
彼女は泣きじゃくりながら顔を上げて言った。
「やっぱり、知ってたんだね……スマホ、見られちゃったんだよね?」
「ううん。見たのはバッグだよ」
「ふぇ? バッグ……? 私なんか入れてた?」
「いやバッグの中身じゃなくてね。えーっと、バッグの思い出?」
ダメだ。いい言葉が見つからない。彼女の頭の上にはハテナマークが浮かんでいた。僕はナクトを取り出し電源を入れた。百聞は一見にしかず。これこそ最適解だろう。
「ほら。これが怜奈のバッグが見たものだよ」
僕はあの日見た映像を彼女に見せた。慣れたのかどうかはわからない。ただ最初は具合が悪くなるほど苦痛なものだったけど、今見ると割と平気になっていた。逆に怜奈の顔がどんどん青褪めていった。
「これって私? えっなんで? これ天助くんが撮ったやつ?」
「天助が撮った? なにそれ?」
「違っ! で、でもこれどういうこと? どうやって撮ったの?」
彼女は完全にパニック状態となった。でもそれは仕方あるまい。ナクトはそれほど荒唐無稽な代物なのだ。
僕は一から、これまでの経緯を全て話した。最初は眉間に皺を寄せ難しい顔をして聞いていた彼女も、途中からは半分口を開け
「そうだったんだ……だからあの日コーヤの様子が変だったんだね」
「あんなにはっきり見ちゃうとね……それに、似たようなことが前にもあってね」
僕はこの際だと思い、過去にあった幼馴染と弟のことを怜奈に話した。自分がしたことと重ねてしまったのか。彼女は再び泣きながら僕に何度も謝った。
「そんなことがあったなんて知らなかった……なのに私……」
「それは怜奈には関係ないことだから気に病むことはないよ。僕も話してなかったし」
彼女はしばらく下を向き、なにやら考えているようだった。そして突然床へ這いつくばると、体を小さくしながら土下座をした。
「許してくれるなんて思ってません! 今更何をと思われてるのもわかってます! でも……私はやっぱりあなたが好きで……だからもし――」
彼女の言葉を遮るように、僕は怜奈の体を起こしてあげた。なんとなく言おうとしていることはわかる。もし逆の立場なら僕もそうしたかもしれない。でもそれは決して叶わぬことなのだ。彼女もきっとわかってくれるだろう。
「怜奈に見て欲しいものがあるんだ」
僕は再生ボタンを押してナクトを彼女に渡した。
そこにはからくり時計が見た映像が流れ始める。
僕らの恋が始まった、あの瞬間の光景が。
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