第6話 「はじめに言葉ありき」

――休息日、広場の大樹の下。


「エー、ビー、シー……」


 ベルが年季の入った黒板にチョークで文字を書いていく。子供たちと私は、彼女の澄んだ声に合わせて、覚えたての音を口にした。私たち耳長族アルフの避難民からも、希望者として私以外に子供が数名と、物好きな大人が数人、この青空教室に参加していた。休息日の広場に市場は立たないようで、梢の合間から差し込む木漏れ日が、子供たちの真剣な横顔を照らしていた。


 授業では、誰かが発音につまずくと、ベルは優しく自分の唇に指を当てて「こうよ」と手本を示し、できるまで根気強く付き合ってくれた。子供たちは彼女の口の動きや舌の使い方を食い入るように見つめ、驚くべき速さで吸収していく。


 対して私の発音は、どうしてもエルバ語の訛りが抜けないらしく、何度もベルに直された。あっという間に子供たちの輪から取り残され、落ちこぼれの気分だ。それでも、ヨルンの寄宿舎で見たようないじめはここにはない。いわゆるガキ大将のような快活な少年も、授業が始まれば大人しくベルの指示に従っている。この村では、間違うことは恥ずかしいことではないらしかった。


「では、これから文章問題をしてみましょう。いま配ってもらいますからね。午後からは、この台本を使って読み合わせをしますよ」


 もう一人の先生役の村人が配り始めたのは、手書きと思わしき紙の束だった。待ちに待った文章だ。これで単語を覚えられる。持ち帰って、夜に復習しよう。


 受け取った束の表紙には、「ロバの音楽隊」というタイトルと、素朴で愛らしい動物たちの絵が描かれている。ページをめくると、それぞれの役に自分の名前を書き込めるようになっていた。読み書きを同時に覚えさせ、その成果を劇の成功という形で確認するつもりらしい。実に合理的だ。


「みんな、よく聞いて。この劇を、今年の収穫祭で発表したいと思います。一月後、お父さんやお母さんたちの前で披露しますからね!」

「はーい!」と、子供たちの元気な返事が青空に響き渡った。


「あ、あのぉ、私もお祭りに参加していいのでしょうか?神聖な儀式なのでは……?」

 おずおずと尋ねる私に、ベルは悪戯っぽく笑った。

「ヘレン。あなたももう、この村の女の子なんだから、出ないとダメよ」

 子供たちは思い思いに動物の役を取り合い、最後に残った悪役の「女泥棒」が、私の役になった。


 昼食休憩を挟み、午後の授業では早速台本の読み合わせが始まった。昼ごはんは子供たちの母親たちが持ち寄ったおかずと、大鍋で炊き出されたふかし芋だ。素朴だが、温かくて美味しい。


 食後、小さい子たちは昼寝のために家に戻り、大きい子たちは広場を駆け回っている。私はと言えば、午前中に詰め込んだ新しい言葉で頭がいっぱいで、木の椅子から立ち上がれずにいた。子供は元気すぎる……。


 一息ついていると、木のコップを持ったベルが「調子はどう?」と隣に腰を下ろした。「頭が破裂しそう」と返すと、彼女はころころと笑った。私たちは、他愛もない話をした。ベルの村での日常、私がヨルンで過ごした日々。重苦しい話題は避け、シスター仲間との失敗談などを話すと、彼女は楽しそうに聞いてくれた。村の外から来た私との会話は、彼女にとっても新鮮なのかもしれない。


 「ロバの音楽隊」の台本は、童話なのでさほど長くはない。主人公のロバが仲間と出会い、泥棒たちの家を見つけ、協力して追い出す。私のセリフは三行ほどで、ほとんどは動物たちに驚かされて逃げ出すだけだ。


 一度読めるようになれば簡単だが、それでも子供たちの覚えの速さには舌を巻いた。一度聞いただけで、私よりも流暢にセリフを口にし、役の動きまで頭に入っているようだ。ベルによれば、毎年収穫祭で上演される定番の演目なのだという。それにしても、この吸収力たるや。


 読み合わせが終わると、それぞれの家から持ち寄られた余り布で衣装作りが始まった。と言っても、既存の服に飾りをつけていくだけの簡単な作業だ。

 ……女泥棒役を、除いては。


 ベルはどこからか、黒い布と、黒い塗料で染め上げたのであろう長裾の服を持ってきて、「これを使ってね」と私に手渡した。


 ――これは、どう見ても不審者そのものでは?


 着替えを終え、黒い布で顔をすっぽりと隠した全身真っ黒の女が部屋から現れると、子供たちは案の定、腹を抱えて大笑いし始めた。やがて私を取り囲み、けらけらと笑いながらもみくちゃにされた。その日は結局、稽古が終わるまでその格好で過ごす羽目になり、様子を見に来たアルダさんやジョンおじさんにも、なんとも言えない目で見られてしまった。


 …………。


――夜、テントに戻った私は、対訳表を作ろうと、急ごしらえの机で台本と紙に向き合っていた。


 子供向けの台本だから難しい言い回しはない。だが、そもそも基礎となる単語が圧倒的に足りていない。台本と白紙をにらめっこすること数刻、対訳表は二ページほどしか埋まらなかった。


 ――辞書が欲しい。教会にも専門書はあったけれど、メナー語の辞書なんて見たこともない。商人や学者なら持っているかもしれないが、ヨルンでは亜人族メナー自体を見かけなかった。もし存在するとしても、ダラスのような大都市でなければ手に入らないだろう。取り寄せれば、何ヶ月かかるか。いや、そもそもこの村からどうやって注文するというのか。


 自作するしかない。一つ一つ、ベルに尋ね、単語を採集していくしかないのだ。


 ふと、思考が別の方向へ向かう。

 この村の子供たちは、劇の台本にあるような、ごく簡単な文章しか読み書きを習わない。大人になれば、勉強しようなどとは思わないだろう。興味を持つきっかけがないのだから、本を読む習慣も根付かない。それはつまり、高等教育を受ける機会が永遠に失われることを意味する。ベルのように、外部の知識を得た者はごく少数だ。北にあるという大きな村も、似たようなものだろう。


 算術の授業もない。お金の代わりに配られる紙幣も、村の中で消費されて終わる。子供たちが覚えられるのは、お使いで必要な足し算と引き算くらいだ。


 幸いなことに、私は今、メナー語を学ぶ機会を得ている。そして、私は彼らが持たないものを持っている。ヨルンから逃げてきて、ジョンおじさんに頼りきりで、私は何も返せていない。簡単な治療と、炊き出しの手伝いだけだ。教会では、読み書きや算術はもちろん、歴史や法律、基本的な科学も学んだ。


 ――私は、ここに基盤インフラを築くべきではないか?


 私が今まで見てきた亜人族メナーは、この村の人々を除けば、貴族に仕える者か、あるいは裏通りの物陰に生きる者たちだけだった。私たちと同じ姿かたちで、言葉が少し違うだけなのに、なぜ彼らは陽の当たる場所を歩けないのか。


 読み書き算術。そして、外の世界についての知識。それがあれば、彼らの中にも都市で生きたいと願う者が現れるかもしれない。私が今まで学んできたことは、そのための助けになるはずだ。


 衝動が、胸の奥から突き上げてくる。

 朝になったら、人を集めよう。ジョンおじさんやアルダ、そしてベルに、この考えを話してみよう。


 これはクシラ様が私に与えた試練であり、使命なのかもしれない。

 私は震える手でペンを握り直し、対訳表の続きを書き始めた。

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