第2話 「眠らない街、ヨルン」
鍛冶屋の入り口に向かって声をかけると、馴染みの
「...よう、ヘレン」
「うん。また鍵、壊されちゃった」
「どれどれ......」メッツは私が差し出した壊れた錠前を受け取ると、眉をひそめた。「あーあ、こりゃひでえ。鍵穴が無理やりねじ曲げられてる。直しようがねえな」
「どうしよう?買いなおしたほうがいいかな」
「まあそうだな。安い鍵だししょうがないが......」
メッツは後ろの棚の引き出しから同じ鍵穴を探すと、手にもってじっと考え始めた。切傷の跡がある猫耳を無意識にわしわしと掻き、やがてゆっくりと私に振り向いた。その目には、いつもの気だるさとは違う、鋭い光が宿っていた。
「......どうしたの?」
「――いや。ヘレン、お前、総督府通りのほうってもう行ったか?」
「ううん、これから雑貨を買いに」
「やめとけ。街での用事が済んだら、寄り道せずに教会にまっすぐ帰って、しばらくは籠ってろ」
「なんで?」
「いいから。俺の言うことを聞け」
有無を言わさぬ口調だった。彼は手にもった鍵穴を棚に戻すと、隣から一回り大きくて頑丈そうな錠前を取り出した。有無を言わさず私の手に握らせ、「割引だ」と言って会計を済ませると、私は早々に鍛冶屋から追い出されてしまった。袋の中の鍵は、明らかに値段が高そうな代物だ。袋には余分に入っていた。もらいすぎな気がする……。
あとで返しに行けばいいかと思いつつ、言いつけられた食品や雑貨を求めて市場へ向かう。
港前の倉庫地区は、南の街から来たのであろう夥しい数の貨物馬車でごった返していた。ひっきりなしに荷が運び込まれ、人々の怒号と馬のいななきが響いている。目的の市場はこの喧騒の先だ。
市場はいつもと変わらず活気に満ちていた。テントの配列もいつも通りで、目当てのものは迷わずすぐに買えた。荷物を教会の輸送箱に積み込み、これで一応仕事は終わり。あとは報告するだけだ。
ふと、市場の反対側、一段低くなっている居住区の屋根の隙間から、細く黒い煙が立ち上っているのが見えた。風向きのせいか、こちらには匂いも音も届かない。子供たちのきゃあきゃあと遊び回る声が、のどかに聞こえてくる。
少し散歩でもして帰ろうか。橋に差し掛かった、その時だった。
腹に響くような大きな爆発音が、三度、立て続けに轟いた。軍艦の祝砲だろうか。だとすれば、港まで戻れば見られるかもしれない。
ぼんやりと港の方を眺めていると、向かいから勢いよく走ってきた男に肩を突き飛ばされた。
「おい、早く逃げないと巻き込まれるぞ!」
「いたた......え?」
男は返事も待たずに走り去っていった。見れば、周りの人々が皆、パニックに陥った顔で私とは反対方向へ、つまり港の方へと必死に逃げていく。
通りの奥に目をやった瞬間、私は息を呑んだ。先程の細い煙ではない。黒煙が渦を巻き、その根元では、まるで巨大な松明のように真っ赤な炎が天を舐めている。あそこは確か、総督府のある辺りだ。
気が付くと、私は人の波を逆らい、炎へと向かって駆け出していた。
何人かとぶつかり、罵声を浴びせられたが、謝っている暇はない。煙の匂いが濃くなり、熱気が肌を焼く。燃えているのはやはり総督府だった。建物の前には暴徒と化した群衆が、火炎瓶を投げ込みながら何かを叫んでいる。怒号と炎の音で、言葉は何も聞き取れない。
その時、脳裏にジョンおじさんの言葉がよぎった。――総督は、酒場のあの階に!
私は人垣を抜け、燃え盛る総督府の向かいにある酒場へと駆け込んだ。主人の制止を振り切り、宿屋の奥にある階段を駆け上がる。
「――総督!総督!」
一番奥の部屋の扉を叩いて叫ぶが、反応はない。ドアノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。軋む音を立てて扉を開ける。
「総督?……い、いますか?」
部屋の奥から、くぐもったうめき声が聞こえた。総督の声だ。
「……来るな」
声のした方へ足を進めると、そこに立っていたのは見慣れない軍服の男だった。背が高く、顔には深い切り傷の跡がある。そして床には、腹を押さえて倒れ伏す総督の姿があった。
その時、私を追ってきた酒場の主人が部屋に飛び込んできた。
「――総督様!てめぇ、帝国の軍人じゃねえか!なんで総督に手ぇ出してやがる!」
熊のような体躯の主人が、軍人へと飛びかかった。不意を突かれた軍人は体勢を崩し、二人はもつれ合うように床に倒れ込む。
い、今のうちに!
私は総督に駆け寄り、傷の深さまでは分からないながらも、動かせると判断し、両腕を掴んで部屋の外へと引きずり出した。
一階まで引きずり降ろし、居合わせた人々に助けを求め、教会へと運んでもらう。治療は間に合うはずだ。でも、ちゃんとした医者に診てもらわないと……。
その道中、血相を変えて走ってくるジョンおじさんと合流した。
「ヘレン!教会には戻るな、港へ行け!」
おじさんいわく、教会にも暴徒の一部がなだれ込んで来たらしく、私たちは裏道を通って港の海軍病院へと向かうことになった。
港へ無事たどり着くと、何人かの同僚シスターと合流できた。教会に残っていた人たちは、暴徒に捕まってしまったらしい。殺されはしないだろうけども……。
総督は病院に運び込まれるなり、緊急手術室へと消え、半日以上出てこなかった。
私たちは軍属ではないので本来は港をうろつけないが、非常事態ということで海軍の居住区画が避難民に解放された。私たち無傷の者は、負傷者の手当てや炊き出しのサポートに回る。火災と煙で煤けた教会服は脱ぎ捨て、支給された清潔な白衣に着替えた。
翌日、総督が入院している病室の前で記録をつけていると、鮮やかな赤い軍服をまとった老軍人が駆け込んできて、「総督の部屋はここかね?」と尋ねた。私が頷くと、彼は部屋に飛び込み、扉を固く閉ざした。
聞き耳を立てていたわけではない。けれど、扉の向こうから漏れ聞こえてくる激しい口論の断片を繋ぎ合わせると、おぞましい全体像が浮かび上がってきた。このヨルン植民都市と近隣の都市が連合を組み、神聖エルバ帝国からの独立を企てている。あの赤い軍服は帝国陸軍のもの。つまり、これは帝国軍内部の反乱……クーデターなのだ。
総督は帝国から派遣された統治者だ。独立派からすれば、排除すべき悪魔なのだろう。それでも、納得なんて到底できなかった。
やがて、赤い軍服の老人は嵐のように去っていった。入れ替わるように、ジョンおじさんが静かにやってきた。
「ヘレン、話がある。場所を変えよう」
居住区の隅で配給のスープをすすり終えた後、ジョンおじさんは重い口を開いた。
「いくつか伝えることがある。まず、あの教会にはもう戻れない。俺たちはこのまま、別の土地へ派遣されることになる」
彼の顔は、いつもの年輪以上に深く、絶望が刻まれていた。
「それからもう一つ。帝国から、開拓地の教会すべてへの支援が打ち切られた。この反乱を教会上層部の誰かが首謀した、という濡れ衣らしい。真偽は分からん。だが、もう今までのような生活はできない。これは事実だ」
彼は一枚の地図を広げた。ヨルンからずっと北を指している。
「海軍と話をつけてきた。彼らが所有している北の教会跡地を、我々が使っていいそうだ。そこで、新たに軍港都市を建設する計画がある。我々はその街の在地教会として、一から生計を立てる」
彼は私の目をまっすぐに見た。
「もう一つの道は、帝国行きの軍船に乗ることだ。向こうの教会のどこかに異動する。俺の故郷のタブリンなら、異教徒や異人種に寛容な交易都市だ。住みやすいだろう。……ヘレン、お前はどうしたい?」
「……前の教会は、どうなるんですか」
「取り壊されるか、別の建物として接収されるか。いずれにせよ、我々はヨルンから追い出される」
「私は……生まれてからこのかた、教会しか知りません。北へ行くしか……」
「一応言っておくが」と、おじさんは続けた。「お前はもう大人だ。この騒動も長くは続かん。どちらかが勝ち、街は再建される。ヨルンは大きくなる。仕事には困らん。シスターを辞めるなら、教会からささやかながら餞別も出るだろう」
彼の言葉は優しかったが、私の心は決まっていた。
「いいえ。そういうことを言いたいんじゃありません」
私は顔を上げた。
「言い方を変えます。私も、北へ行って手伝います」
「……わかった。じゃあ、お前もリストにいれておく」
ジョンおじさんは、それだけ言うと静かに立ち去っていった。
総督府が燃やされる。教会――私の家――にはもう帰れない。新しく街をつくる。頭の中はぐちゃぐちゃだったが、一つの確かな思いだけが、焼け跡の心の中心で、小さな炎のように揺らめいていた。
私たちは、ここで終わるわけにはいかない。
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