第32話・ウロボスの雪解け

「長老、山から降りてきた魔物は殲滅できた。安心してくれ」

「……そうか」


 部屋の扉から背を向けて、あぐらをかいて座り込む老人にシャルルは声をかけた。

 ウロボスのすぐ傍らにいたフェンリル、シリウスは尻尾を大きく振ると、シャルルの方へ歩いていき、太ももに顔を擦り付けた。


「何事もなかったか?」

「……」


 シャルルの問いにウロボスは答えない。

 だが、見たかぎり、長老がずっとこもっていたこの部屋に異常はない。

 シリウスも首を振るのを見て、シャルルは「そうか」と言いながら表情を和らげた。


「……では、我々は失礼する」


 老人に礼をして、シャルルは踵を返す。


「あああ、あのっ」


 ソニアは慌ててぺこぺこと頭を下げながら老人に声をかけた。


「わたしっ、あなたにお会いできてよかったです。あなたのご立派な姿を忘れることは、私はきっと生涯ないでしょう」

「……」


 ソニアは素直に本心を伝える。

 彼の心の氷塊を融かすことはできなかったけれど、彼の生き様を知る一人となれた。

 彼を待ち受けるこれからの運命を思うと胸は痛むけれど、最期の姿を見送れてよかった、と。そう思うことにしようとソニアはウロボスの背に微笑みを向けた。


「……では」


 ソニアもシャルルの背を追いかける。


「ーー待て」


 低いしわがれた声に、シャルルとソニアは揃って振り返った。


 そこには、すっくと立ち上がったウロボスの姿があった。


「オレも連れて行け」


「……長老!」


 ウロボスは年齢を思わせないしっかりとした歩様でこちらに向かってきた。ソニアはそれを喜色満面で迎える。


「……ハッ。小僧、『どうしてだ?』という顔をしてやがるな」

「す、すまない。あれほど頑なだったあなたがどうして、と。正直、驚いている」


 目を丸くしているシャルルにウロボスはわざとらしくため息をついてかぶりを振った。


「もう満足した。さっき、貴様らに守られていたオレは死んだんだ」

「え、ええと、それは、どういう……」

「いちいち全部言わなくちゃわかんねえのか」

「す、すみません」


 ウロボスはソニアにも呆れた表情を向ける。


「テメェらに守られた命だ。テメェらはオレに死んでほしくねえんだろ。救われた命だ、テメェらのいいように従ってやる」

「……長老……」

「……もう二度は言わねえ。オレのことは好きにしろよ」


 そう言うと、ウロボスは今までのようにシャルルとソニアから顔を背けてしまった。


 ◆


 そうして、シャルル、ソニア、ウロボスの三人はティエラリアへ向かうこととなった。


 シャルルはラァラに何かを指示する。

 ラァラはすうと息を吸うと、大きく数度遠吠えをした。


「任務完了と、しばし今の位置で待機してほしいという知らせだ。フェンリルたちは耳がいいから、さきほどの時間までで移動した距離だったらちゃんと聞こえて待っていてくれていると思う」

「さすがフェンリル……有能ですねっ」


 ラァラの頭を撫でると、ラァラは気持ちよさそうに喉を鳴らした。

 さきほどまで腹に風穴が空いていたとは思えないほど、ラァラの足取りは軽く、体調はよさそうだった。

 ただ、白銀の被毛についた血痕だけは痛々しいままだったが。


 大人が三人に対してフェンリルは二頭しかいないので、ラァラにはソニア、シリウスにシャルルとウロボスが分かれて騎乗することになった。


 目が不自由なシリウスのため、ラァラが前を駆けていく。その後ろをけして離れずシリウスがついていった。


「……そのフェンリルはどうしたんだよ、血まみれのくせに元気じゃねえか、不自然に腹のところだけはきれいな毛だしよ」


 ポツリとウロボスが呟く。


「あ、えと、お腹に穴が空いてたんですけど、その……私が治して。お腹のお肉と毛が治ったとこだけ血がない、って感じですね……」

「はぁ? なんだそりゃ」

「う、ええと、なんと申し上げればよろしいか……」


「ラァラは魔物に襲われて腹に穴が開くほどの大怪我を負った。けれど、彼女が聖女の癒しの力で治したんだ」


 ソニアの拙い説明をシャルルが言い直すとウロボスは片眉を大きくあげ、目を眇めた。


「……ハッ。本当に『聖女』か。よくまあ、あの国から聖女を娶るなんて思い切ったことをしたもんだ」

「ええと、その」


 ソニアがティエラリアに嫁ぐに至った経緯は複雑だ。そもそもは『偽物』のつもりで嫁いでいかされたわけで。


(それに、まだ、「そうなんです、私、聖女なんです」とは、さすがに……言えない……っ!)


「大地の民は独自の聖女信仰があると聞くが……」


 口籠るソニアに被せるように、シャルルはウロボスに問いかける。

 ウロボスは「ああ」と静かに答えた。


「大地の民に言い伝えられている聖女の伝説がある。大神は最も愛した土地神が眠る国の尊い生まれの子に祝福を与えて贔屓するんだと。それでアルノーツの王家の女は『聖女』の力を持って生まれるんだって話だ」

「たいして、ティエラリアは大神が愛していた恋人たち……土地神ではなく、フェンリルの神が眠る大地だから大神の祝福を得られずこのようにひどく寒い国になってしまったとも言われているな」

「人間くせえ神サマだよな、しかも、たまに神サマは間違える・・・・らしい」

「間違える?」


「祝福の量を間違えることがあるらしい。そのせいで愛する土地神の眠る国をダメにしかけて以来、間違えた後は『調整』をするんだと」

「なんだか、大雑把な話ですね……」

「神話だ、口伝なんだからいい加減に決まってんだろ、ガキどもに聞かせるうちに変に御伽話じみた表現にもなってやがる」


 ウロボスはふん、と皮肉げに口を歪ませた。


「オレたち大地の民の祖先はその大神様が間違えた時に莫大な恩恵を受けたらしい。アルノーツはダメになりかけたが、大地の民の集落はその過剰な祝福のおかげで豊かに暮らせたことがあったそうだ。それ以来、いいことがあったらそれはアルノーツにいる聖女様のおかげだよ、って言われるようになったわけだ」

「な、なるほど……?」


「……祝福の量、『調整』……」


 シャルルは怪訝に眉間に皺を寄せた。


 やがて、先行していた隊に追いつくその時まで、シャルルは険しい表情をしているのだった。


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