タイムリープしたら、推しと恋をする世界線でした。

矢口愛留

本編

1. Intro



愛梨あいり。こういうことだから、別れてほしい」


 私は、目を疑った。

 学生時代からの親友――いや、親友だった女性の肩を抱いているのは、私の婚約者、修二しゅうじだ。

 その女性、朋子ともこのお腹は、見るからに膨らんでいる。もう、安定期を過ぎた頃だろう。


「修二……どうして? 朋子とは、いつから……?」


「――五年前から」


「五年前……?」


 五年前といえば、高校三年生の頃だ。

 その頃、私たちは友人としていつも一緒にいたはずなのに、そんなの全然気付かなかった。

 それに――


「嘘でしょう……? だって、私たちが付き合い始めたの、二年半前だよね」


「ごめん。愛梨とは最初から遊びだったんだ」


 目の前が真っ暗になっていく。

 私も修二も就職して、落ち着いたら結婚するはずだったのに。


「朋子……どういうことなの?」


 私は、もう一人の当事者に顔を向けた。

 愛おしそうにお腹を撫でているが、私を見るその目には、昏い侮蔑の色が宿っている。


「ごめんね」


「ごめんじゃ、分からないよ」


「……じゃあ、友達のよしみで、一つだけ。もっと財布の紐、しめた方がいいわよ」


 二人の笑い声が、遠くで聞こえる。

 何も見えない。聞こえない。


 気付いたら私は、駆け出していた。

 くたくたになるまで働いたのに、貯金も、もうない。先月のお給料も、全部修二に渡してしまった。


「――もう、いいか」


 最後に、大好きなあの人の声を聴きながら黄泉路を行こう。

 カバンの中からヘッドホンを取り出す。



 ――さあ、仮面舞踏会マスカレードがはじまる

 百鬼夜行、花の輪舞ロンド

 踊ろう、星の夜を

 踊ろう、月が消えるまで

 今宵だけは、身分を忘れて――



 ああ、澄んだ歌声が心地良い。

 さよなら、ありがとう。


 目をつぶって、溺れるように。

 私は、星の合間へ落ちていった。





 ピピピピピ……


 目覚まし時計に手を伸ばし、音を止める。

 なんだか、嫌な夢を見た。

 修二と朋子に騙されて、全てを失う夢。


「夢、だったらいいのにな」


 けれど、朋子の肩を抱く修二の姿が。膨らんだ朋子のお腹が。

 二人の蔑むような表情が、瞼の裏にしっかりと焼き付いている。


「――仕事、行きたくないな。休んじゃおうかな……」


 そうだ、それがいい。

 きっと瞼も腫れているし、一生懸命働いていたから有給もある。

 私は、枕元に置いたスマホのメーラーを開いた。


「……あれ? 会社のメールがない?」


 アドレス帳を見ても、履歴を見ても、会社のメールどころか電話番号も、同僚の連絡先も入っていない。


「なんで? データ消えた?」


 私は少しだけ焦りながら、スマホを操作する。

 とりあえず直近の予定だけでも確認しておこうと、カレンダーを開く。

 そこには――


「え? R和元年、五月……?」


 今日の日付が、なぜか四年前のものになっていて、私は目を疑った。

 なぜ? スマホがおかしくなったのか?

 今はR和五年の秋だったはずだ。


 私は急いでテレビをつけた。見慣れたニュースキャスターが喋っている。

 髪型を変えたのだろうか、少し若返ったような気がする。


「――では次のニュースです。本日から元号が変わり、R和元年となりました。街では号外が配られ、デパートや商店街では特別セールも――」


「……え? 嘘……」


 何の冗談だろうか。

 フラッシュの焚かれた中で、総理大臣が、R和と書かれた札を見せながら喋っている。

 四年前に何度も見た映像が、さも最近撮られましたとばかりに、繰り返し再生されていた。

 スマホのニュースアプリを開いても、やはりR和元年のニュースがずらりと並んでいる。


 冗談でなければ、まさか。


「タイムリープ、した……?」


 そう考えれば、会社関係のアドレスが全て消えているのにも納得がいく。


 先程は急いでいてちゃんと見なかったが、スマホのロック画面も、修二とのツーショット写真ではなくなっていた。

 ロック画面の私は、高校の制服を着てカチューシャをつけ、テーマパークのプリンセス城を背景にジャンプしている。

 一緒に映っているのは、同じく制服姿の修二と朋子と、もう一人の友人、優樹ゆうきだ。


 あの頃の私は、修二に淡い想いを抱いていた。

 けれど告白する勇気がなくて、そのまま卒業して、一度疎遠になってしまったのである。

 修二は朋子と五年前から付き合っていたと言っていたから、この写真を撮った頃にはもう、修二と朋子は付き合っていたのだろう。全く気付かなかった。


「R和元年の五月ってことは、四年半前……高校を卒業してすぐ、か」


 私と修二は、別々の四年制大学に。朋子は短大に。優樹は専門学校に進学した。

 道が別々になって、私たち四人はそのまま疎遠になっていたのだが、成人式の同窓会で修二と再会して……私は修二と付き合うようになったんだ。


 この時間軸では、まだ修二と私は付き合っていない。

 一方、修二と朋子は、もう、付き合っている。


「なんだか、バカみたい」


 ――もっと財布の紐、しめた方がいいわよ。


 朋子の言った一言は、確かに現実として、私の心にぐっさりと深く刺さっている。


 今思えば、修二には何かとプレゼントを渡していた気がする。

 バイトをして一生懸命稼いだお金も、就職してからもらったお給料も、たくさん貸したけれど、返ってこなかった。

 修二は、「社会人になって、初任給が出たら返す」と言っていたが、気づいたら夏のボーナスまで延び、思ったよりボーナスが少なかったからと冬のボーナスまで延期されて。


 けれど、結婚しようという約束があったから、私は彼を信じて待つことにしたんだ。

 私が、浅はかだった。


「今度は……バイト代、推しのためにでも使おうかな」


 私には推しがいる。

 大好きなバンド『masQuerAdesマスカレード』のギターヴォーカル、『公爵デューク』だ。


 masQuerAdesはギターヴォーカルの『公爵デューク』、ギターの『士爵ナイト』、ベースの『男爵バロン』、ドラムの『侯爵マーカス』、キーボードの『伯爵アール』の五人で構成されるロックバンドである。


 メンバー全員が仮面で顔の上半分を隠していて、その素性は不明。

 紅一点である『伯爵アール』がドレスを着ている他は、煌びやかな貴族男性のような衣装を身に纏っている。


 基本的に箱推ししているのだが、その中でもデュークは私にとって別格。最推しだ。

 伸びやかで透き通った歌声。美しいハイトーンボイス。繊細なメロディ。

 ギターをかき鳴らすその指はしなやかで、踊るようにネックを滑っていく。


「四年半前ってことは、まだ結成したばかりだわ。デビュー前、ブレイクする前のmasQuerAdesを、生で観れるかも」


 masQuerAdesのことを考えたら、少しずつ元気が出てきた。

 そうだ、この時間軸では、私はまだ何も失っていないんだ。

 バイトも春休みから始めたばかり。通帳アプリを開くと、バイト代もちゃんとまるまる残っている。


 そうと決まったら、早速。

 スマホで『masQuerAdes』と検索をかけると、すぐにヒットする。


 予想通り、まだデビュー前だった。今の段階では、キーボードの伯爵アールも加入していなくて、四人編成だ。今週末、近くにある小さなライブハウスで、ライブが予定されている。


「早速チケット取らなくちゃ。よーし、今度は修二と朋子になんて引っかからないぞ。バイト代もお給料も、私が好きなように使うんだから!」


 ふと、部屋のすみに目をやる。

 そこに置かれた電子ピアノには、うっすらと埃が積もっていた。

 受験のためにやめてしまったピアノの上――タイムリープ前はmasQuerAdesのグッズが所狭しと並んでいたが、今は音楽誌とファッション誌が雑に放り投げてあるだけだ。

 CDがないなら、久しぶりに自分で演奏でもしてみようか。


 音楽の海に沈んでいると、失恋の痛みも忘れられる。

 ……まあ、この時間軸では、まだ恋も始まっていない――というか、どの時間軸でも、本当の恋なんて存在しなかったみたいだけど。


 タイムリープの謎は、私ごときが考えたところで、分かるはずもない。

 けれど、全てを失う前に戻ってきた。


 ――そうとなったら、今度こそ、幸せな人生を謳歌してやるんだから。


 私は強く心に決めて立ち上がり、ピアノの埃を払うと、その蓋を開いたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る