第14話 お話があって参りました
会社を出た時にも降っていた雨が、田原小鳩の住む、大宮市の某駅前でも降り続いていた。
タクシー乗り場には列が出来ている。列が伸びているので、私はひさしのある部分からはみ出して、お気に入りのピンク色の傘をさして立っている。
田原小鳩の原稿が入っているカバンを、無意識のうちに胸に抱いて雨水から守っていた。
タクシーにはカーナビもついているし、私のスマホには地図アプリも入っている。
住所だけしか知らない家を訪ねるのに、なんの障害もないのだから便利なものだ。
いや、唯一、この雨だけが障害か。
住所にあった名前のアパートの近くでタクシーを降りたときには、道路に打ち付けられた雨水が膝まで跳ね上がるほどの豪雨へと変わっていた。
まるで地面からも雨が降っているみたいな状況で、傘はもはや意味を成していなかった。――原稿の入ったカバンを守ること以外には。
集合ポストにある、手書きの『田原』の文字を指でなぞる。
外からみてもわかるほど、ベランダ同士の間隔の狭いアパートは恐らく単身用だ。豪雨のなか突然、若い女が訪ねてきても、家庭がひっくり返るなんてことはなさそうだ。
という懸念も、実際にアパートに着くまでには微塵も浮かんでいなかったのだけれど。
つくづく私は考えが浅いのかもしれない。
ドアの前に立った私は、妖怪みたいになった髪の毛を軽く直す。ハンカチで水気を絞ると、髪の先から大量の水がにじみ出てきた。それから、ふっ、と息を吐いて、覚悟を決める。
二階の一番端の部屋。二〇一号室が田原小鳩の部屋で間違いない。
――ここまで来たんだから、会わずには帰れないでしょ。
指を静かにインターホンのボタンに沈めると、ドアの向こうでインターホンの音が響くのが漏れ聞こえてくる。
部屋の中からは何も反応がない。人の気配が皆無だ。
時計を見ると、時刻はすでに十九時半を過ぎている。まだ仕事が終わっていないのだろうか。ていうか、夜勤のある仕事だったりしたらどうしよう。
「待つ以外、どうしようもないか」
閉じた傘を外廊下のフェンスにかけると、その場にしゃがみこんで待つことにした。
田原小鳩の帰りを待つ間に、気になっていた事を検索しておく。一つの解に行き当たった私は、それをメモに書き写して、スーツの胸ポケットにしまった。
いよいよ全くやることのなくなった私は、ただ待つことになった。濡れたシャツが、体温を容赦なく奪っていく。
カバンを抱えこんだまま、指に息を吹きかけて彼を待つ。なんだか、ストーカーにでもなった気分だ。
実際、外階段を上がっていく人たちはみんな、不審げな顔をして私を見ていた。
田原小鳩はまだだろうか……指の感覚が少しずつ無くなっていく。それと同時に眠気が襲ってくる。これ、雪山で遭難したときのやつでは?
寝たら死ぬやつでは?
そんなことを考えていたところまでは、覚えている。
「……ですか? ……大丈夫ですか?!」
聞き覚えのある声がした。なんだか焦っている声。
大丈夫ですよ、私は人を待っているだけですから。大丈夫……。
「じゃない! 田原小鳩!」
「うわ! びっくりした!」
「田原小鳩さんですよね!?」
声の主を逃すまいと、ぼやけた視界にあるもやもやした人型の、肩のあたりに腕を伸ばした。
人型は大きな音を立てて、尻もちをつく。そのせいで掴む場所を見失った私は、バランスを崩して、しゃがんだ姿勢のまま前に倒れ込んだ。
コンクリート製の外廊下に打ち付けた膝から、痛みと痺れが腰まで這い上がってくる。
「いっ……たたたた」
「大丈夫ですか?」
私の体を、男性の腕が支えていた。おかげで、顔から突っ込まずに済んだらしい。
「ありがとうございま……うきゃあ!」
私の上半身を支える右腕の先には当然、右手があり、体に渡された腕の先にある手が触れるのは、ごく自然的な成り行きで、胸であった。胸ポケットに入れたメモが、かさりと小さな音を立てる。
という状況を、胸を掴まれながら冷静に判断できるわけもなく、私は反射的に悲鳴をあげた。
「え、どうし……? あ、違う、違うんです誤解です」
男性が慌てて腕を引き抜いたことで、私は外廊下につっぷした。
「あ、あの、ここで何を……? 迷子ですか?」
迷子のわけないだろ! バリバリの成人女性だし、バリキャリシゴデキ編集者候補だ! ……今は半人前以下だけど……。
突っ伏したままわなわなと震える私に、「飲みすぎ? 救急車呼びます」とさらに失礼かつのんきな事を言ってくる田原小鳩の手首を掴んでやる。それから、ゆっくりと顔を起こす。
「ひえっ」という悲鳴が上がる。
完全にひいた顔の田原小鳩を見上げて、私は笑顔を作った。
「お話しがあって参りました、田原小鳩さん。いえ……巌流島
眉間に生あたたかいものが垂れて、それで、床で擦って額を切ったんだろうなと他人事みたいに思った。
*
田原小鳩は、声の印象通りどこにでもいそうな大人しそうな男性だった。
中肉中背。肌は結構きれいで、眼鏡の奥の切れ長な瞳に知性を感じさせる。
経歴には三十七歳とあったけれど、もう少し若く見える。たとえば、大学生と言われても納得しそうな感じ。
私の傷を見て渡してくれたハンカチは、きちんとアイロンが掛けられていた。マメなんだろう。
汚れるから、と断ろうとすると、私の額に直接ハンカチを押し当てた。
血を拭うと、カバンのポケットから取り出した絆創膏を貼ってくれる。親切だし、やっぱりマメだ。
ただし部屋には入れてくれない。
「――これでよし、と。じゃああの、帰ってくれますかね」
田原小鳩の部屋の脇は、雨の日には随分とうるさくなるみたいだ。
「嫌です」
「嫌って言われても……リリンのえーと」
「
「奔馬さんに、失礼なことを言ったのは謝りますけど、家に凸られるのはさすがに困りますよ。風邪ひきますから早く帰った方がいいですよ」
うーん、優しい。いきなりやってきた私の怪我の手当をして、風邪の心配までするとは。これが姉妹肛虐小説を書いた人物なのだろうか。
「失礼なことを言われたなんて思っていません。むしろ私が、余計なことを言ったせいで、田原さんになにかあったらと思って、来てしまったんです」
「何か?」
「たとえば事故とか、それから……筆を折る、とか。田原さん、今回の短編賞には応募されていませんでしたよね? リリンじゃない投稿先を見つけられたというのなら良いのですが」
田原小鳩は、分かりやすく顔を紅潮させた。
落ち着きなく眼鏡をいじると、私から目をそらして、外廊下のフェンスに掛けておいた私の傘を手に取る。
彼の手の中で、ピンク色の傘がゆらゆら揺れた。
「事故はないですよ、違反は切られましたけど。いやあ、久々ですよ、切符を切られるの。動揺していたんでしょうね。……はい、傘。雨足も少し弱まりましたし、いい雨宿りになったでしょう。帰って下さい」
傘を押し付けて、田原小鳩はポケットから鍵を取り出した。ドアの鍵穴に鍵を入れようとするが、手が震えて上手く入らないのか、ガチガチと嫌な音が響くだけだ。
「あの、まだ小説書いてますよね? 書くのやめたりしてませんよね?」
「もう良いですから、帰って下さい! 僕が書いていようといまいと、関係ないでしょ!」
「ありますよ! 私、真剣に読んだんですから! いい作品だったんですから!」
腕にとりすがって、田原小鳩に告げる。彼はそんな私の方を見もしないで、鍵をずっとガチガチとやっている。
「だから、あなたにそう言われても、何にもならないんですよ! 書こうとしても、セクハラ小説を書いていた奴だっていう評価を思い出して、何も書けないんです!」
その時、やっと鍵がはまった。カチリ、と解錠の音がして、田原小鳩は素早くドアを開けて体を滑り込ませてしまう。
とっさに、右足が前に出た。ドアの隙間に足を挟み込んだのだ。
「ちょ、押し売りみたいなことしないで下さい! 警察呼びますよ!」
「分かりましたから、これだけ。これだけ受け取って下さい!」
胸ポケットからメモを取り出して、ドアの隙間から田原小鳩に手渡す。
ドアが閉まる直前、くしゃくしゃのメモを握りしめる彼の、困惑する顔が見えた。
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