朝露のような恋

村田鉄則

第1話 死に場所

 ザー

 ザー

 波の音がする。

 日本一大きいが、他府県の人に馬鹿にされがちな湖に足を踏み入れ、私はゆっくりと確実に奥の方に進んでいる。淡水なので塩の香りはしないが、人口密度の比較的高い土地に隣接する部分であるためか、ゴミや藻の混ざった何とも言えぬ生臭い香りが鼻に染み付いた。

 ただ、その汚さが私の死に場所にはちょうど良い気がした。

 私のような人間…人間という愚かな生き物として生まれた私…

 昨日、けがれた私には…

 

 ふと立ち止まって、月をぼんやり眺めていると、そのような色々な負の感情が脳から滝のように溢れ始めた。


 一方で、ドブのような匂いのする湖の中で死ぬ私、私が死んでも未来永劫光り輝くであろう美しい月。この状況において生まれたそのマイナスとプラスの対比に関しては、なんだか退廃的で美しく正の感情が脳髄からもたらされた。


 ああ、早くこの世から去りたい。

 1歩ずつ歩みを進める。

 気づいたら、すでに私の胸元まで湖面は達していた。

 もうすぐ、こんな醜い世の中から解放される…

 やがて湖面は私の耳元まで達し…

 漸く私は解放され…

 

 そう思った時、私の耳元で声がした。

「駄目だよ。死んじゃ」

「え!?」

 後ろを振り向くと、真後ろにいつの間にか黒髪の少女がいた。髪は長く、艶があり月光を反射して美しくきらめいていた。顔は薄暗くて見えなかったが、声質的に私と歳は近そうだ。

 私が入水自殺じゅすいじさつを始めたときは、午前4時だったので、まさか人が止めに来るとは思わなかった。


「こんな汚れた湖で死んだら、死んでも魂がきちんと浄化されないよ。地縛霊になっちゃう」

 少し低くボーイッシュな綺麗な声でそう彼女は囁いた。

 その直後、彼女は私の腕を掴んで引っ張り、湖岸まで全速力で走って行った。私は抵抗もできず、されるがままに連れてかれた。すごい力である。

 湖上から湖岸に出た後、ベンチに置いてあった通学カバンから彼女はミネラルウォーターを取り出し、私に手渡した。

「飲む?」

 入水自殺に時間がかかって、体力を消費していたこともあり、ひどく喉が渇いていたので、私は彼女に何も言わず、すぐさまそれを飲んだ。

 飲んですぐ、

 ―――生き返る!

 そう思った。さっきまで死のうとしていた人が考えることではないなと思い少し笑えてきた。

「良い笑顔だ」

 そう言った彼女の方を見ると、彼女もまた笑みを浮かべていた。

 

 いつの間にやら、夜が明け始めてきた。

 彼女の濡れた黒髪はなんだか色めかしく、彼女の背の方にある日の光を水の粒が吸収し、反射して、輝いてみえた。それは、後光にも見え、なんだか光り輝く彼女のことが私の命を救いに来た天女のように思えた。

 図書室で読んだ本で知ったのだが、天女伝説がこの県にはある。読んだのがつい先日であり、それがこの錯覚を呼び起こしたのかもしれない。目の前にある湖ではなく、北陸に近い場所にある小さな湖が舞台ではあるが。

 彼女の顔は日光に照らされ、明瞭になってきた。鼻がすっと高く、目は真珠のように大きく澄んでいて、瞼は二重でまつげも長い。肌は色白で透き通っており、まるでよくできた彫像のような面立ちだった。


 日が先程より更に上がってきた。

 彼女の長い髪に纏わりついていた水の粒は、朝露が消えるように乾いていく。


 私の命も、朝露のように、はかなく消えていくはずだったが…

 だが…

 彼女のおかげで…

 私は救われた。

 

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