「俺の部屋に、あざとい男子大学生が住みついた話。」

@deruta-kaku

第1話

――俺がこの世で一番嫌いな人間。それは、社会を舐め腐ったZ世代の大学生共だ。というか、こんな仕事をしていると、誰でもこいつらの事が嫌いになっていくだろうとも思う。




 地方にあるオフィスのとある一室で、28歳のいわゆる『ゆとり世代』である俺(赤山 悟)は、そんなイライラとそれに勝るほどの眠気をひたすらに我慢していた。無音の部屋で、右手で持ったボールペンをカチカチカチカチと連打した後、左手にペン先を突き刺して何とか苛立ちと眠気を抑える。




 俺のその行動が気になったのか、隣に座っていた髪の長い男が切れ長い目でチラッとこちらを見てくる。隣にいるこの覇気のない長髪の男は、俺の初めての部下である新卒の西園寺だ。俺と西園寺は、今日この狭い一室で監禁でもされてしまったのかと思うくらいの長時間を一緒に過ごしていた。最初はお互いに気を使って会話をしていた俺達も、今では無言のままぎこちない時間を共に過ごしていた。




(……いつまでこの仕事が続くんだ)




 壁にかかってある時計をチラッと見てみると、やっと16時を過ぎたところだった。突然、グ~ッと腹が鳴り、そういえば忙しすぎて昼食も食べていなかったことを思い出す。疲れ切った二人は、その腹の音を聞いても何も会話をすることはなかった。




(仕事の定時は18時だからあと2時間……。ただ、この調子だと昨日と同じで定時に帰れるわけがない。終電までに間に合えばいいけど……)




 俺も西園寺も目をうつらうつらとさせながら、今にも椅子に座ったままガクンと夢の世界に落ちてしまいそうだった。今にも瞼が完全にくっついて開かなくなってしまいそうな俺の目の前には横長なテーブルがあり、その奥には何個ものパイプ椅子が綺麗に横一列で整列されている。




――コン、コン!!




 無音だったその部屋に、ノックの音が2回響き渡る。僕と西園寺は同時にビクッとなり、慌てて目をパッチリと開く。眠気が少し覚め、今度はイライラが俺の心の中で相対的に大きくなっていく。




(……ノックを2回するのはトイレの時。就活ではマナー違反だって習わなかったのか?まあいいけどさ)




 日々の激務で、こんな些細なことでもストレスでイライラが溜まってしまい、眉間には自然としわが寄る。俺は意図的に「ふうっ」と一呼吸をして心を落ち着けて、ドラマに出てくる愛妻家で優しいパパのような声をイメージしながら返事をする。




「ゴホンッ……はい、どうぞお入りください」




 俺は口角をギュッと上げて猫背になっていた姿勢を正し、椅子で座ったまま部屋に人が入ってくるのを待つ。ふと俺の隣に座っている新卒の西園寺の方を見ると、起きてはいたが見事に表情が死んでいた。……注意をしてやりたいけど、流石にこのタイミングで口頭での注意はできない。俺は肘で軽く西園寺の体を突いた。




「しっ、失礼いたします!!」




 真っ黒なスーツを着た男子大学生が一人だけロボットのようなぎこちない歩き方で室内に入ってきたかと思うと、それに続いてぞろぞろと男女の大学生が部屋に入ってくる。ネクタイがひどく寄れている男子、明るすぎる茶髪でメイクが濃い女子、眼鏡をかけていて地味だが真面目そうではある男子、いろんな大学生の顔や服装を面接官として順番に眺めていく。『失礼いたします』という言葉がやまびこのように連鎖していく。




――俺はこんな光景を今日何度も見飽きるくらい目にしている。そう、俺は実はタイムリープをする能力を持っていて、世界を救うために何度も同じ時間を……なんていう話が現実にあるわけもなく、ただこれが、今日で5回目の集団面接だというだけである。




 俺は、某地方都市にある中堅機械メーカーである『アイシマテック株式会社』に人事担当として勤務している。人事担当だからといって、人事に特別興味や思い入れがあるわけではなく、配属でただそうなっただけだ。元々は営業を志望していたが、俺には向いていないように思われたらしい。確かに俺はコミュニケーションが得意とは言えない、と自分でも思っている。




 人事担当である俺の仕事で一番の目標ノルマは、『優秀な大学生をできるだけ沢山採用すること』という極めてシンプルでバカでも分かりやすいものだ。ただ、シンプルだからこそ難しく大変な仕事であることを、俺はこの数年間の日々の業務で痛感してきた。――会社の本社は東京ではなく地方都市。さらに田舎にある工場への転勤もある。事業内容はイマドキの大学生にはあまり刺さらないであろうBtoBの製造メーカー。会社から支給される制服は男女ともに程よくダサい。(人事はスーツ着用なのでラッキーだった。)もう平成も終わってしまったというのに、社内には昭和の雰囲気がプンプンと残っている。




 ……だがしかし、俺は今日だけで5回も集団面接をしている。決してタイムリープをしているわけでもないのに。




(……マジで失敗した!もうこれ以上来るなZ世代!!)




 俺は頭の中でそんなことを考えながら、強張った作り笑顔で面接をマニュアル通りに進めていく。本来はこんなに大学生から応募が来るような企業ではないのだ。今の現実の方がおかしいのだ。




 こうなってしまった経緯を簡単に説明しておこう。新卒採用に例年苦戦していた弊社は、ワンマン社長の鶴の一声で莫大な予算を新卒採用に使うことになった。そして、その予算で我々人事部は社長の指示のもと、大量の合同就職説明会に大きなブースで参加したり、地元の駅内に胡散臭いポエムみたいなキャッチコピーが書かれた大きなポスターを出稿したり、絶妙に可愛くないオリジナルキャラクターが躍るYoutubeやTiktokの動画広告を出したりと、様々な露出を予算の限り増やしていった。その結果、十人十色、様々な経路でたまたま弊社のことを知った地元志向の大学生たちが大量に面接にやってくることになったのだ。そして、その予想外な集客効果のせいで、社内で数少ない人事担当である俺や西園寺が、倒れそうになるほど激務になってしまっているのだった。




 一見この現状を周りから見ると、嬉しい悲鳴と言うか、知名度のない中小企業が採用プロモーションに大成功した事例のようにも思えるかもしれない。だが、応募者が増えたからと言ってそれだけで採用が上手くいくほど人事の仕事は単純な訳ではない。認知度が上がるということは、その辺の馬鹿に見つかる、という事でもある。つまり、会社の認知度の高まりとともに、「この会社もついでに受けとこう」と考える社会を舐め腐ったたようなZ世代の大学生達が面接を受けに来ることになる。そうなると、単純に仕事量も激増する上、そんな奴らとコミュニケーションを取っていくストレスも馬鹿にならないだろう。俺はその現実に気付いた時、体から魂が抜けたのかと錯覚してしまうほど唖然とし絶望してしまった。




「ありがとうございます。では、弊社を志望した動機はなんですか?左の方から順番にお願いします」




 色々と俺が頭の中で考えている間に、西園寺がマニュアル通りに面接を進めていってくれていた。先ほどの肘突きが効いたのだろうか。西園寺は頼りない部分もあるが、上下関係はしっかりとわきまえており、意外とこういうときにサボらず真面目に仕事をするところは嫌いじゃない。一番左のパイプ椅子に座っていた男子大学生が、緊張しているのか言葉に詰まりながらも質問に回答す。




「えーっと……、私は将来地元で働きたいと思っており、せ、先日の県内で開催された合同就職説明会で弊社……じゃなくて御社のことを知りましたッ。そこで初めて御社の製品を見て、あのー、その技術力に感動したから志望しています!」




(長いこと喋っていた割には、どこでも言えそうな志望動機だな……。この男子大学生は業界研究とか企業研究とか、ちゃんとやったんだろうか?そのうえ嚙みまくってるし、面接の練習も足りていないんだろうな。)




 俺は心の中でそうツッコむ。長時間の面接でイライラが溜まっており、言わなくても良いことまで言ってしまいそうになるが、なんとか唾を飲み込んで我慢する。




「……ありがとうございます。では、あなたのどんな能力を弊社では生かせそうですか?」




 俺はニッコリとした笑顔を作りながら、その男子大学生にさらに質問をする。人事担当の仕事は、優秀な大学生を見極めることである。俺にとっての採用面接とは、社会を舐め腐った大学生を見抜く人狼ゲームのようなものだ。




「えーっと、その、僕は学生時代、ボランティア活動でゴミ拾いをやっていて、それで僕はそこでリーダーとして……」




 大学生は予想外の質問だったのが、しどろもどろになりながらもなんとか自分のPRを話していく。俺はその話を聞き流していきながらも、それを勘づかれないように口角を挙げてにこやかに相槌を打っていく。




(頭に入ってこんな……。もっと端的に教えてくれよ。この噛み噛み男は人狼で間違いないな)




 最近は圧迫面接なんてやるなよと上に言われるからニコやかに接しているが、どうして俺がこんなにも年下の野郎相手に気を遣わないといけんのだと内心では思っている。まあ、女子相手にだったらいくらでも気を使うが。そんなことを考えながらも、仕事だから仕方がないと俺は大学生との人狼ゲームをひたすらに続けていった。








「――赤山先輩、今日もお疲れさまでした。」




 西園寺が立ち上がったかと思うと、俺にそう言ってお辞儀をしてきた。毎回同じことの繰り返しで気づかなかったが、さっきの面接で今日予定されていた面接は最後だったようだ。今日1日で計8回の集団面接が終わった。俺は一日中イライラと眠気と戦っていたような気がする。時計を見ると、もう定時である18時を過ぎていた。




「おう、西園寺もお疲れ様。」




 疲れ切った俺は端的にそう返事をする。俺は面接に使っていた部屋を出て、自分の席へと戻っていく。一息つきたいところだが、まだ仕事が全て終わったわけじゃない。これから今日の8回分の面接を踏まえて、1人1人を細かく採点していく。そして、次の二次面接に進む人達を決めていかないといけない。




(今日もめちゃくちゃ書類が溜まったなぁ……。終電までに間に合うかな)




 俺は机の上に大学生たちの履歴書や評価シートなどの書類を広げて、ため息をつく。パラパラ漫画を見るかのように、顔写真付きの履歴書を順番に見ていくが、正直顔も覚えていない奴らばっかりだった。今回の面接で特別優秀だと感じる奴も居なかった。履歴書をめくっていくと、一人気になる男の顔写真が目に入る。




(あ、こいつは、さっきの噛み噛み男。きっと社会を舐めてて、就活の準備もろくにやってない奴だ。)




 人事担当の仕事は、優秀な大学生を見極めることだ。それと同時に、社会を舐め腐った大学生を見抜く仕事でもある。俺は頭を抱えて考え込む。




(こいつを二次面接に進ませるべきか、どうか……)




 俺は少し考えた後、ペンを取り出して、評価シートの下の方にある『合・否』の欄に〇をつけた。――俺が丸を付けたのは、『合格』の合の文字だ。




(たぶん、こいつはこの感じだと他の会社でも落ちまくる。だからこそ、内定を出したら仕方がなく弊社ウチに入ってくれる可能性が高い)




 この売り手市場の新卒採用で、弊社みたいな人気の低い会社は優秀な人だけを採用しようとしても結局内定辞退をされてしまう可能性の方が高い。人事の仕事をするうえで一番避けておきたい事態は、全員から内定辞退をされてしまって誰も採用できないことだ。だからこそ、他の会社では採用されないであろう社会を舐め腐ったやつを見極めて、そいつをうまく他の就活生の中に混ぜて上司に報告する必要があるのだ。




 実際、今俺と一緒に仕事をしている西園寺も大学生時代は社会を舐め腐ったような奴だったが、こんな感じで内定をもらって、そのまま一緒に働くことになった経緯がある。去年採用ができたのはわずか数人で、その他大勢のまともそうだった奴はもれなく内定を辞退していったのだ。




――結局、俺は今日面接した大学生達のほとんどに合格を出し、二次面接に進んでもらうことになった。今までの経験上、これだけ合格を出しても実際に二次面接に参加するのは半分程度だ。優秀でない大学生にどんどん合格を出すのは癪だが、これも仕事だから仕方がない。




「――赤山さん、少しお時間大丈夫ですか?」




 ようやく今日の分の書類仕事が終わったタイミングで、西園寺が俺に声を掛けてきた。




「どうした?もう仕事終わったのか?」




 俺は椅子の背もたれに寄りかかりながら、立っている西園寺の方を見上げてそう尋ねる。




「……あの、いきなりなんですが、僕この会社を辞めたいと思っていまして」




 突然の、西園寺からの言葉に、後ろから頭を鈍器で殴られたかのような衝撃が走る。




「会社を……辞めたい?」




 西園寺から聞いた言葉をそのまま口に出して繰り返す。




「……はい、そうです」




 駄目だ、また面接のときのようにイライラが止まらなくなってきている。言わなくても良いことをつい口に出してしまいそうになる。こいつは、一人の人間を採用するのにどれだけのカネを使っているか知っているのだろうか。次に入る人を採用するのがどれだけ大変か知っているのだろうか。




「お前、まだ新卒で会社に入って数ヶ月だよな?」




「……はい、今月で3ヶ月目です」




 西園寺は入社してからたった3ヶ月。今のZ世代はこんなに短期間で会社を辞めるものなのか?ゆとり世代の俺ですら、入社時は『とりあえず3年』という言葉を信じて仕事を頑張っていたというのに。正直会社を辞めるのは勝手にしていいが、結局のところ西園寺を採用したのは俺だし、現在の上司も俺。このタイミングで辞められたら、絶対俺に社内の批判が集中して飛んでくるだろう……。




「一応君の上司として聞いておきたいんだけど、会社を辞める理由は?」




「先輩や会社の人達は好きなんですけど……。元々人事をやりたかったんじゃなくて、営業をやりたかったというのもあって、他の会社の営業として働くつもりでいます」




(分かっていないな。やりたいことをやるんじゃなくて、社会の歯車として上手くやっていくのが仕事ってものなんだよ。俺だって元々は営業志望だったが、今は仕方なく人事をやってるんだ。)




胸の中でイライラがどんどん溜まっていく。そしてついに俺は、その溜まりに溜まった怒りを抑えることができなくなってしまった。




「そっか。まあ、この会社で上手くやれないんなら、他の会社でも大変だと俺は思うけどな」




最悪だ、言ってしまった、と後悔しても遅かった。俺がその言葉を言い放ってすぐに、西園寺の目がうるうるとしてきているのが分かった。だが、彼は職場では涙を流してしまわないようになんとか悔しさを飲み込んで我慢しているようだった。




――俺はこんな奴になりたくてこの会社に入ったんだろうか。大学生の頃の俺が今の俺を見たらなんて思うだろうか。




「はい……。それは理解しているつもりです。先輩にはご迷惑をおかけして大変申し訳ないです」




西園寺は静かにそう答えて、深くお辞儀をした。謝られると、俺はもう何も言うことができない。




「……分かった。今日はもういいから、帰りなさい」




俺がそう言うと、西園寺は大きく頭を下げて、自分の席へと戻っていった。








 ――俺が会社から帰るころには、外は既に真っ暗になっており、街灯の光と小さな星が点々と光っているだけだった。周りに明かりがついているビルはほとんどなく、きっと普通の会社員はもう家に帰ってまったりとTVでも見ながら過ごしているんだろうなと想像する。




 当然、既に終電は逃してしまっていた。都会であればまだ電車が走っていたりするのかもしれないが、俺が住んでいるのは中途半端な地方都市だ。周りにはタクシーも見つからず、仕方なく歩きながら自宅へと向かっていく。




「……はぁ。俺も会社辞められるんなら辞めてぇよ」




周りに誰もいない細い夜道で、ぽつりと俺はそう呟く。




(大学生とか、Z世代と関わるのはもうコリゴリだわ……。あいつら何考えてるのか分かんないよ。恐怖だよ。)




 俺はとぼとぼと歩きながら、考え事をする。とりあえず三年、と考えて騙し騙し人事担当として仕事をしてきたが、やっぱり俺には向いていないのかもしれない。もうこの会社で3年は働いたし、今が辞めるタイミングなのかも。




(いっそ独立してフリーランスとして働くか……?でも今までの人事の仕事経験じゃ個人で働けるようなスキルなんて持ってないしな……。)




 考え事を始めると止まらなくなった。このままこんな仕事を続けるのは嫌だが、無職になってご飯が食べられなくなるのももちろん嫌だ。俺に向いている仕事なんてこの世にあるんだろうか。




「らんららら~♪」




 突然、どこかで聞いたことのある曲のメロディーが、透き通った中性的な声の鼻歌で聞こえてくる。こんな時間に誰が歌ってるんだ?と左右を見てみるが誰もいない。暗闇の中目を凝らして前をしっかりと見てみると、グレーのパーカーを着た若い男の子らしき人物が鼻歌を歌いながら俺の方に向かって歩いてきていることに気付いた。その男の子は、酔っぱらっているのか、フラフラと左右に蛇行しながら歩いてくる。




(どんだけ酔っぱらってるんだあいつ。お酒を覚えたての大学生か?)




 今時、こんなにフラフラになりながら鼻歌を歌う奴なんてなかなか見かけない。こいつもまた忌まわしのZ世代なんだろうか。本当に何を考えているのか分からない。危ないから声を掛けたほうが良いのかもしれないが、この時間から面倒くさいことに巻き込まれてしまうのも嫌だ。




(とっとと通り過ぎてしまおう。早く帰りたい。早く帰りたい。早く飯を食いたい。昼飯も食べてない。)




 俺はそう考えながら早足で歩いていき、そのフラフラと歩くパーカー男子にぶつからないように通り過ぎようとする。だが、通り過ぎようとしたその瞬間、俺が彼の右側を通ろうとすると彼も同時に右にやってきて、俺が左に行こうとすると彼も左に体を持ってくる。結果、28歳の俺とその大学生らしき男子はお互いの全身を思いっきり衝突させてしまった。




「痛ってええ」




 勢いよくぶつかった俺はその場でコンクリートの道路に尻餅をついた。すぐには立ち上がれないほどの痛みが体中に響き渡った。




「……いてててっ」




 前を見ると、相手のパーカー男子も俺と同じように後ろに倒れたようだった。さっきまで暗くて良く見えていなかったが、近くで見るその男の顔は童顔で肌が白く、20歳くらいに見えた。適度に長い髪の毛は茶色に染めてあるようで、ちょっとだけヤンチャな感じもした。きっと俺が予想していた通り、酒を覚えたての大学生か専門学生かだろう。




(なんでぶつかってくるんだ……。俺はもうZ世代はコリゴリなんだよ。仕事以外でまで俺の人生に関わらないでくれ)




 俺がそんなことを考えて嫌な顔をしていると、パーカー男子がスッと立ちあがり声を掛けてくる。




「あ、ごめんなさい……。わざとじゃないんです……。」




 彼はそう言って、俺に手を差し伸べてくる。まだ酔っぱらっているのだろう、体はフラフラと動いている。俺はそれを無視して、なんとか重い体を持ち上げて立ち上がる。




「気をつけろよ……。じゃあな」




 俺はそう言ってそのまま家に帰ろうとする。早く帰りたい。早く帰りたい。早く飯を食いたい。この大学生に構っている場合じゃない。俺は仕事で疲れたんだ。俺は明日も早いんだ。




「……お兄さん、本当にごめんなさい!」




 彼はそう言って俺の手をぎゅっと掴む。まだ若い彼の手は柔らかく、女の子の手のようだった。彼の行動に驚いた俺は、仕方なくそこで彼と会話を続けることにした。




「うん、許す。だから手を放してくれ。」




「あ、すみません。でも今離すとどこかに行かれそうなので離しません。」




彼はそう言うと、手をさらに強く握った。年下の男になんて手を握られたことのない俺は、何とも言えないむずかゆい気持ちになる。




「……はあ。君、大学生?未成年じゃないよね?」




「えへへ、ピカピカの20歳ですよ!」




彼はそう言うと、パーカーのポケットから器用に片手でごそごそと財布を取り出し、学生証を見せる。俺は警察とかじゃないからそこまで確認したい訳じゃないと思いながらも学生証を見ると、確かに20歳そこららしかった。




「もしやお兄さん、若さが羨ましいと思っちゃいましたか?」




彼はあざとい顔で俺の方を上目遣いで見て、そう聞いてくる。




(なんだこいつ……まだ酔っぱらっているのか?)




そりゃ若いのは羨ましい、とは思ったが、素直にそう答えるのはこの大学生の術中に嵌っているようで嫌だと思った。




「いいや。俺は今の大学生とかが大嫌いだから、羨ましくもなんともないね。むしろ早く生まれてラッキーって思ってる」




俺はムキになってそう答える。




「へえっ、そうなんですね。変わった人ですね」




 彼はそう言って少し寂しそうな顔をした。なんか大人げないことを言ってしまったな、と少し罪悪感を感じてしまう。言わなくても良いことを言ってしまうのが俺の悪い癖だ。




「……ところでなんですが、お兄さんはお仕事帰りですか?」




 少しの沈黙の後、続けて彼が尋ねてくる。仕事の話はしていないが、流石に俺が社会人であるという事は分かったらしい。スーツを着てビジネス用の鞄を持っているから当たり前ではあるか。




「まあそうだが。君はこんな時間まで何してたんだ?大学生とはいえ危ないだろう」




「今日、友達とお酒飲んでたんですけど、そのまま終電逃しちゃって……」




「ふーん。友達は一緒に居ないのか?置いてかれたのか?」




「僕が一人で帰れるよって言って、電車に乗ったのは良かったんですけど、そのまま逆方向に行って変な駅で降りちゃいました。でもいつもこんな感じなんです。」




「……危なっかしいやつだな。今日は家までは帰れるのか?」




「……いや、家まで歩くと結構遠くて、どうしようかなと思ってて」




「……」




 しばらく続いた会話のラリーが自然と止まる。なんだか面倒なことに巻き込まれる予感がする。このままコイツを置いて帰ってしまいたかったが、俺の右手はコイツに固く握りしめられてしまっている。




「あの、お兄さん、僕をお家に泊めてくれませんか……?できることなら、なんでもしますからっ」




 彼はまたあざとい顔で俺の方を見てそう提案した。男に『なんでもしますから』と言われても困る。俺は咄嗟に拒否しようかと思ったが、ふと西園寺のことを思い出す。今日は本当に最悪な一日だった。だが、もし何かこの日のうちに少しくらい良いことができたら、このモヤモヤした気分が晴れるかもしれない。




「……まあ、話聞いてたら流石に可哀そうだから、泊めてやるくらいならいいけど」




 仕方がないなあ、という感じで俺は彼の提案に合意する。すると、彼はぱっと花が咲くような笑顔で、「ありがとうございます!本当に助かります!!」と僕の両手をぎゅっと握った。彼のその笑顔を見て、なんとなく自分まで嬉しくなってきてしまった。




 後で考えると、無意識のうちに、俺はこの男子大学生に何かしらの救いを求めていたのかもしれない。仕事の愚痴を言ったり、悩みを相談したりしたかったのかもしれない。この時本当に助けられたのは彼ではなく、心の荒んでいた自分の方だと、内心どこかで思っていたりもした。




――ただこの時の俺は、このあざとい男子大学生がまさか俺の住んでいる部屋に住み着くことになるとは、夢にも思っていなかった。

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