第41 side 夕貴 あの日から一週間
あの日から、一週間が経った。
彼女が家に来てくれたお陰で、お母様の様子は変わった。
「夕貴、少しだけ話せるか?」
「お父様……。どうしました?」
「実はな。母さんが……すい臓がんだってわかったんだ」
父の言葉に私は、固まってしまった。
「夕貴……母さんを愛してくれていたんだな」
「えっ……あっ……」
お父様に言われてわかった。
私は、お母様を心の底から愛していたのだ。
「母さんは、治療をしないかもしれない」
「えっ?」
頭が真っ白になる。
お母様は、治療を望まない。
それって、私が生きている今より……。
「大丈夫か?夕貴」
膝の力が抜けた私をお父様が支えてくれた。
「大丈夫だから、心配しないで」
「また、私より美貴をとるのねって思ったんだろ?夕貴」
「そんな事は……」
「いいんだよ。私も思ったから」
「お父様……」
「美貴が病気なのはわかっていたし、亡くなってから悲しい気持ちを感じていた。だけどな、それよりも寂しかった。私は、ずっと……。母さんが見るのは、美貴ばかりで」
「だから、篠宮と浮気をしたんですか!あっ、いえ。ごめんなさい」
お母様がすい臓がんで治療もしないという話を聞いたせいで、私は動揺してしまっていた。
お父様に言うつもりなどなかったのに……。
「やはり、見ていたのか……」
「えっ……あっ……」
「いいんだよ。あの時の私は、愚かだった。篠宮は、私の傷に寄り添ってくれてね。私は、篠宮を受け入れてしまった。慰めて欲しかったんだ。美貴を失った悲しみを……。相手にされない寂しさを……。コウキ君も不倫していたのだから夕貴が私をそんな目で見るのもわかる」
お父様に言われて、私は自分がどんな目を向けているのが気になって、下を向く。
綺麗に磨かれた机には、私が映っている。
汚いものを見る目で……。
私は、お父様を許せていないのだ。
「すみません。どんな目かわからないです。お母様の事を聞いて動揺してしまっていて……」
「そうだったか……。私が勘違いしてしまったようだね。すまない。でもね、夕貴。私は篠宮との事を許されなくていいと思っている。夕貴にも母さんにも許して欲しいとは思わない。だから、懺悔もするつもりはないんだ」
「私はいいですが……。お母様は、傷ついたのではないですか?」
「母さんは、きっと気づいていないよ。別の事は、気づいていたけれど……。篠宮との事は、気づいていない」
「別の事とは何ですか?」
「夕貴が気にする事じゃない。これは、夫婦の問題だから……」
夫婦の問題だからと言われてしまうと結婚していた私には、何も言う事は出来ない。
いや、そもそも私にお父様を咎める事は出来るのだろうか?
あの頃の私も私自身の心が壊れないように必死だった。
それを……。
「夕貴には、花井がいただろう?だけど、母さんには誰もいなかった」
「そんな事……皆さんは……」
「皆さんは、子供を亡くしていないんだよ。だから、本当は私が寄り添わなければならなかったんだ。夫として父親として私はずっと逃げてばかりだった。だけど、それじゃいけないって思っているんだ」
「どうするんですか?」
「説得をするつもりだよ。だけど、母さんは頑固だからね。無理かも知れない」
「その時の為に覚悟をしておけということですね」
「ああ。そういう事だ。あっ、それと……夕貴が知っている事は母さんには秘密にしておいてもらえるか?」
「わかりました。忘れます」
「母さんが夕貴に話してくるまでの間だから……」
「お母様は、私に話してくれるでしょうか?」
「話すに決まってるだろう。娘なんだから……」
お父様の言葉に驚いていた。
娘……。
本当にお母様は、そう思ってくれているのだろうか?
「母さんも、意地を張っているんだと思う。美貴が亡くなって夕貴や私を許せないと思った感情は嘘ではないだろう。ただ、そんな感情は一瞬だったのではないだろうかと思っている。その後は、悲しみの檻に一人閉じ籠り……。誰もわかってくれないと意地を張ったんだろう」
「私は、あの時どうすればよかったのですか?」
「どうしていても未来は同じだったんだよ。だから、夕貴は自分を責める必要はない。愛する者に拒絶されても傍に居続けるなんて無理なんだよ。だって、そんな事をすれば自分自身が壊れてしまうから」
お父様はきっと今の私なら解ると思って話してくれたのだろう。
その気持ちはよくわかる。
コウキに拒絶されて、それでも居続けるのは辛くて悲しかった。
証拠をつかんでからは、さらに苦しくて辛くて……。
まるで、針の上を歩いているような苦しみだった。
「それはまるで、針の上を歩いているような苦しみだから」
私と同じ言葉をお父様が口に出していて驚いていた。
「目を見開いてどうした?何か驚かせたか?」
「い、いえ」
「お互い辛く苦しい日々だったという事だな」
「そうですね」
「母さんも同じように苦しんでいたんだと思う。いや、もっとかもしれないな」
「どういう事ですか?」
「母さんは、夕貴を愛している。だから、もっと苦しんだんだよ。今の夕貴になら、その意味がわかるだろう?」
愛している者を拒絶し、否定する。
確かに、今の私にはその苦しみや痛みがわかる。
コウキを愛していたから……。
「おはようございます」
「おはよう、しほりさん」
「おはようございます。おじ様」
「絵茉ちゃんと少しだけ遊んでもいいだろうか?」
「はい。お願いします」
「じゃあ、絵茉ちゃん。おじさんと向こうに行こうか」
お父様は、しほりさんの娘を連れてリビングを出て行った。
「夕貴さん、大丈夫?」
「お母様がすい臓がんなんだって」
「そんな……」
「治療は、望んでないみたいなの」
「そうなの……」
「そんな悲しい顔しないで。一つだけ聞いてもいい?」
「何?」
「子供が病気で亡くなってしまったら、悲しい?」
「もちろん悲しいわ。絵茉が亡くなったら、私は生きていけないもの。それでも生きていかなければならなかったとしたら、代わってあげたとかもっと出来る事があったとかああしなければよかったとずっと後悔を抱えて生きていくでしょうね」
「それは、死ぬよりも辛いわね」
しほりさんは、私の頬に優しく手を当てる。
「長く暗いトンネルをたった一人で歩いて行く感覚。もし、絵茉に姉弟がいたとしたら……。私は、絵茉を失う事よりも残された姉弟を傷つける事の方が辛くて悲しいと思う」
「しほりさん、それってどういう意味?」
「どう言えばいいのかわからないけど……。悲しみに向き合っている方が楽なのよ。傍にいる誰かに向き合う事よりもずっと……」
「お母様は、私を愛しているとお父様に言われたの……。しほりさんの言葉通りなら私は……」
「夕貴さんのお母様は、夕貴さんを愛していると私も思う。本当は、傷つけたくないけれど……。傷つけなくちゃ生きていけなかったんだと思う。そうしなきゃ、向き合えなかったんじゃないかな」
「私と向き合う為に私を傷つけていた……そんな事……」
「もしそうだとしたら……。夕貴さんのお母様は……」
「治療を拒むぐらい。生きていたくないほど苦しんでいた」
私は、頬にあるしほりさんの手を握りしめる。
「どうなるかは、わからないけれど……。向き合ってみるわ」
「私が傍にいるから」
「ありがとう……。でも、大丈夫よ!私だって、いい大人なんだから」
「無理はしないで、夕貴さん」
「無理だと感じたら、しほりさんに話を聞いてもらうわ」
「はい」
私は、あの日からずっと逃げていた。
お母様が私を嫌っていると思っていたから向き合う事が何より怖かったのだ。
だけど、今、お父様やしほりさんの話を聞いて違うとわかった。
お母様は、私以上に向き合う事が怖かったのだ。
美貴……。
お母様と向き合う勇気をお姉ちゃんにわけてちょうだい。
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