ティルマンという男
最初に異変に気が付いたのはティルマンだった。
「このマグノリアっていう人は?」
面会者名簿の見慣れない名前を目ざとく発見した彼は、受付に確認をとりにきていた。
「はい。ダンテ君の友達で、今は福祉事業に携わっていて、その一環で難病に苦しむ若い女性患者の支援と交流を目的に来たそうです」
「ふーん……」
ティルマンはこの時に警戒心を持った。ベアトリーチェとマグノリアが出会って、2日目の出来事だった。
ベアトリーチェと交流を初めて3日目にして、マグノリアは頭を抱えていた。健常者よりも体力のないベアトリーチェにはダンテと同じ手が使えない。男と比べて過程も多い。そして何よりも、マグノリアの心の中の何かが、彼女自身のことを邪魔していた。
「ごめんなさい、退屈でしょう?」
ベアトリーチェは自分の治療に付き添うマグノリアのことを気遣った。その気遣いは、マグノリアの心の色をその日も変えていった。
「……そうね。確かに、退屈だわ」
マグノリアは椅子に座りながら、ベッドで治療をするベアトリーチェのことをぼんやりと見ていた。細い腕から伸びたチューブが機械へと繋がれ、その機械は静かな音を立てていた。
「……昨日は、楽しかったわね」
「ええ、とっても楽しかった。お化粧があんなに良いものなんて、私知らなかった」
心の底から嬉しそうな顔をするベアトリーチェを見て、マグノリアは優しく笑った。
「ねえ。一昨日、あなたが言ってた事って何なの?」
「え?」
「ダンテが私を選んだら『喜んで祝福する』って。何で、あんなこと言ったの?」
「……彼と離れ離れになってから、私、色々考えるようになったの」
「もう……好きじゃなくなった、とか?」
「ううん、逆だった。好きな気持ちがどんどん大きなっていって、もう爆発しそう」
ベアトリーチェは静かに笑った。
「でも、私のこの気持ちが彼を縛り付けてるんじゃないか、って。最近、そう思うようになってきて」
マグノリアは少しだけ身を乗り出してベアトリーチェの話に耳を傾けた。
「ダンテって本当にすごいの。ずっとずっと、ずーっと勉強して、普通の人の半分の時間で学校を卒業して、今度の学校も本当は卒業まで6年かかるはずなのに、また普通の人よりも短い時間で……全部、私の為に」
興奮気味に話し始めたベアトリーチェが徐々にその語気を弱め始めた。
「私がいなければ、彼にはもっと素敵な人生があったんじゃないかって……マグノリアみたいな綺麗で素敵な女性と……きっと、彼にはそんな幸せな人生があったんじゃないかって……」
ベアトリーチェはそのまま黙り込み、機械の音だけがその場に流れた。
「……それは違うんじゃない?」
マグノリアが重々しく口を開いた。
「彼はあなたと出会って変われたの。ダンテの人生はあなた無しでは輝かないと思う」
「……どうして、そう思うの?」
「どうして、か。……どうしてかしらね?」
マグノリアはため息をついてから言葉を繋いだ。
「きっと一生懸命生きるあなたを見て、自分も頑張らなきゃって思ったんじゃないかな」
それは自らの心情を吐露するような言葉だった。マグノリアは自分の見えない部分の変化にその時に気が付いた。
「あなた、ちょっと眩しすぎるわ。でも、大丈夫。ダンテほど一途な人はいない。頑固とも、融通が利かないともいうけどね。彼ならあなたの夢をきっと叶えてくれる」
学生の時からそうだった。ダンテには一つの事しか見えていない。そしてそれを叶えるための努力を怠らない。そういう人間がいかに強く、いかに恐ろしいか。マグノリアは誰よりも近くでそういう人間を見てきた。彼女は確信をもってそう言った。
「……ありがとう、マグノリア。でもね、私の本当の夢は、彼にお医者さんになってもらうことじゃないの。彼はもう、忘れちゃったと思うけど」
「え……そうなの?」
マグノリアはさらに身を乗り出してベアトリーチェの話を聞こうとした。
「ええ。それさえ叶えば……彼が今すぐに帰ってきて、私をどこかに連れ去ってくれないかなって。本当はずっとそう思っているの。誰にも邪魔されない、静かなところで、彼と二人っきりで……そしたら、私はもう死んでもいい……ううん、私……やっぱり嫌かも。だけど……」
ベアトリーチェが言葉を詰まらせた。
「……そう」
マグノリアは察したようにベアトリーチェに対して優しく微笑んだ。
「ダンテと結婚したら、子供は何人欲しい?」
「えっ……」
「もう諦めたの?わからないじゃない。とんでもない奇跡が起こって、もしそうなったら、子供は何人欲しいの?」
「……男の子と女の子、一人ずつがいいわ」
「いいわね。名前も考えましょう」
彼女たちの間に何かが芽生え始めていた。
「失礼するよ」
ノックと共に白衣姿の男が病室へと入ってきた。
「マグノリアさん、少しお話がしたいんだけど、今大丈夫かな?」
その男は人のよさそうな温和な顔をしたティルマンだった。
ティルマンはマグノリアを病院の屋上へと連れだした。そこは他に人気がなく、病院の関係者もほとんど訪れない静かな場所だった。
「ベアトリーチェと仲良くしてくれているみたいだね、ありがとう」
ティルマンがマグノリアに明るい調子で礼を述べた。
「いえ……仕事の一環ですから」
対するマグノリアは彼に対して警戒をしていた。彼女はルカの言っていた言葉を思い出した。街の支配者がわざわざ名指しで注意するほどの人物。それがティルマンだった。
「福祉事業、素晴らしい仕事ですね」
「ええ。私も誇りに思っています」
マグノリアは出来るだけ言葉数を少なくした。余計なことをしない、言わない。それが自分よりも格上の相手をするときの鉄の掟だった。
「単刀直入に申し上げましょう。目的を聞かせてもらいますか?」
「難病に苦しむ若い女性患者の支援と交流です」
スラスラと言葉が出た。ティルマンはいきなりの揺さぶりを仕掛けてきた。しかしマグノリアは表情ひとつ変えることなく、その仕掛けをかいくぐった。
「そうですか。もし、病院側で至らない点や改善すべき点があったら、遠慮なく言ってください」
「今のところ問題はありません。この病院はとても清潔ですし」
「恐れ入ります。ところで、ルカは元気かな?」
「……え?」
躓いた相手をティルマンは見逃さなかった。
「遠縁の親戚なんでしょう?まあ、私が君の立場なら、ルカの言う事なんか聞かないけどね?」
ティルマンの繊細さの欠片もない言葉を聞いたマグノリアは、腹の底から湧きあがった怒りにも似た激情をなんとか吐き出さずに堪えた。この男は愚かだ。ルカの恐ろしさを何もわかっていない、ただの愚か者だ。そう思いながら、マグノリアはすべての感情を抑え込んだ。ティルマンは穏やかに微笑んでいた。その微笑みを見た瞬間、マグノリアは自身の敗北を悟った。
「大体察してくれたようだね。さすがルカの血縁者だ。頭が良い。でも、万が一ベアトリーチェの身に何かあったら……」
ティルマンは一瞬だけ鋭く眼を光らせ、すぐに元の温和な顔つきに戻した。
「その時は容赦なく病院から君をつまみ出す。面会謝絶だ。そんなことにならないように、よろしく頼むよ?初めてできた女の子の友達に、彼女はとても喜んでいる」
それだけいったあと、彼はマグノリアに背を向けて院内へと戻っていった。ティルマンという男はある意味、ルカよりも恐ろしい力を持った男だった。繊細さの欠片もない言葉、それはティルマンの恐るべき罠だった。マグノリアは、その言葉に対して沈黙するという、考えうる限りもっとも最悪な方法でその罠にかかった。しかしマグノリアがその言葉にいかなる対応をしようとも、ティルマンの罠を回避することはできなかった。その事実を理解したマグノリアは敗北を悟り、茫然自失の状態となった。ティルマンはもっとも残酷な方法でマグノリアの心を打ち砕いた。すべてをわかった上で、彼は自分の愛する者たちの為に、確信的にその方法を用いた。そうすることで、彼はマグノリアの目的を明らかにする事ではなく、マグノリアに目的を達成させないようにする事を実現した。
マグノリアは顔を青白くさせてベアトリーチェの病室へ戻った。計画の中止。彼女にとって、それは自分の身の破滅に近い意味を持っていた。
「どうしたの、マグノリア?顔色が悪いわ」
皮肉なことに、その事に気が付いたのは病床にいるベアトリーチェだった。
「……ごめん……なさい」
自然と口からその言葉が出た。マグノリアはその場で泣き崩れた。もはや彼女の心は黒でも白でもなく、薄汚れた灰色になっていた。
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