第42話、見送り 下
コウのバッグにアオがアメを詰めこんだとき、つむじ風が訪れた。
「迎えに来たぞ」
夜闇にカラスがおりると同時、人の形になった。赤毛に青緑の目。灰色の魔女だ。魔女はコウを見るなり「ふむ」とうなずいた。彼は彼が殺したものにのろわれた。だから、もう誰も彼を傷つけることはできなくなった。魔女は手を差し伸べる。
「さあ、行こうか。自由で可能性に満ちた我々の世界へ」
コウは迷いなく魔女の手をとって、シガンを振りかえった。彼女と行けばいつか本当に吸血鬼となり、人でいたときのことなど忘れてしまう。
「……シガン、ごめんね」
「もういいよ」
シガンはコウの事情を深く聞かなかった。もし知ったとして「しかたなかった」とはならない。それに可哀想だから許すというのは、なんだか嫌だった。
でも、ここで一区切りつけようと思った。次に進むために。コウのためではなく自分のために言う。哀れなケガ人でいるのは楽だけれど、描きたいものができたから。
「なあ、ぼくはぼくでなんとかするよ。だから、おまえもおまえで行ってこい」
「……うん。ありがとう、行ってきます」
コウは魔女の乗るホウキの後ろにまたがった。
起こった風に浮かんで上空へ舞いあがる。コウがきゅっと身を縮めて魔女にしがみつく。思わず目をつぶった。ぎゅんと曲がって、それから直下に落ち、また急上昇してぐるりと回ったような気がした。冷たい風が吹きさっていった。
「見ろ、いい夜だぞ」
おそるおそる目を開けると、満月に足りない月がそこにあった。空を飛んだらシガンとアオに手を振ろうと思ったのに、もう街の光が雲の下にきらめいている。天と地の間に二人は浮かんでいた。
「わぁ……」
一瞬、なにもかもを忘れた。すごいとさえ出てこなかった。月も、街の光も、自分も、みんなこの世界の一部だって思えた。ぼくはまだなにも知らない。だからぼくはぼくの本当のことを探しに行く。
世界はコウが生まれる前からあって、死んだ後もそこにある。そんな大きな世界もまた自分の一部だと信じられると、すべてに優しくなれる気がした。
「終わったな」
「……ああ、これで終わった」
コウを見送ってから、シガンはキッチンに行って缶チューハイを出して来た。
「飲むか?」
「貰っても?」
アオは酒に好き嫌いがない。差しだされた缶を受けとってタブを開けるとアルコールの匂いがした。ぐびと飲んで大きく息を吐く。ぷはっと甘い炭酸が鼻を抜けた。
「お祝いだ」
シガンは缶を掲げて言う。
「おめでとう、コウ」
「そうだな。おめでとう」
一気に一缶を飲み干し、笑い声をあげる。そのとたん、シガンはずるりと崩れ落ちた。耳まで真っ赤にして、にごった鼻息を鳴らしている。眠ってしまったようだ。
アオは彼の腕を肩にまわし、ふとんに連れていく。「ゆりかごゆらゆら……」。ふとんに転がったシガンはたどたどしく子守唄を歌いはじめた。コウに歌ってやったのが昔のことのようだ。それもすぐに聞きとれなくなり、静かな寝息に変わった。
「ん?」
耳をすませばなにかが聞こえる。外だろうかと窓を開けると、ひんやりとした空気に歌が響いていた。なんの歌かはわからないが、節のついた美しい言葉がひっそりと落ちていく。寿ぎの歌だ。門出を祝う歌だった。
歌は空からふってくるようだ。外に出てみると、アパートの平たい屋根の上にユエンが立っていた。手足が歌にあわせて伸び、星空のなかを優雅に泳いだ。くるくると、まるで子供が水たまりを踏むように踊る。
アオはベランダの手すりに足をかけ、ひょいと二階まであがり、さらに手をかけて屋根に登った。そこまできて、言葉にならなかった。歌にのまれた。
「……アオ」
ふと歌が止まり、にこやかな声が呼ぶ。知らなかった、そんな顔をするなんて。風がアオの背中をなめる。月は明るいのに、空はこんなにも冷たく透きとおっている。
「よかったな」
「うん、よかったなあ」
「妖精を育てたところで人間にはならない。吸血鬼を倒し、あるいは見逃す。あれだけが可哀想だなんだというのはつじつまがあわない。それは人間の勝手だ。それでも、人がそうするというのなら、それでいい」
「そういうものか」
「ああ。そういう人間が、私は好きだ」
ユエンは両手を大きく広げてみせた。アオにはその手の距離が人間と妖精の距離のように思えた。人間は他のものとのよいつきあいかたを考え続けなければならない。
「……そうかもな。俺は、明日の朝には帰るよ」
「私も帰ろう。別れるのが惜しくなる」
驚いた。ユエンにも情があって、人の心配をするのだと知っていたはずなのに。その顔がひどく切なげに見えた。長い時を生き、数えきれない死を見送ってきて、それでも彼女はひとりで笑いたかったわけではない。そんなことに、いまさら気づいた。
「ユエンさん、ありがとう。俺たちを助けてくれて。俺を助けてくれて」
「私は目的をはたした。……人間は気にしなくていい」
「そっか。でも、忘れないよ」
「うん?」
「ユエンさんのこと」
「そうか。私はもう忘れてしまった。多くの人間といたことを」
はるか遠くを見てユエンはつぶやく。そして、大きく口を開けて笑った。
「だが、楽しかったよ。ああ、きっと楽しかったとも」
その顔が本当に楽しそうで、アオは胸がきゅっと締めつけられるのを感じた。
「だから、それでいい」
「そうだなあ、それでいいのかもしれない。だけど、俺は忘れたくないと思っとる」
「……まあ、人はそれでもいい」
言うなり、ユエンはアパートの屋根から飛びおりた。音もなく。慌ててアオもその後を追って飛ぶ。着地したとたん、じーんと足裏のしびれを感じたが、ユエンに気づかれないようになにもなかったふりをして立ちあがった。
「お世話になりました」
書き置きと封筒がテーブルの上に残されていた。中身は今月の家賃と壁紙代だ。シガンはぼんやりとした頭でそれを手にとった。昨日の酒がまだ残っている。
この三ヶ月はコウの見た夢だったんじゃないかと思った。コウが必要だった時間をユエンが夢に見せた、そんな気さえした。シガンは夢の登場人物で、夢から覚めれば消えてしまうのではなかったか。
昔から、ほしいものは姉たちにとられていた。絵を描くのは好きだったが、もっと好きなやつがいくらでもいた。がんばってもダメだったときのことを考えると怖かった。そうしているうちになにをしたらいいのかわからなくなった。
同居していたのは大学の同期で実にいいやつだった。「風呂掃除終わり」「サバ缶食べていいよ」といった伝言だけですむのがよかった。そいつが売れて家を出ると言ったとき、シガンは「おめでとう」と喜ぶふりをした。
気がふさぐなか、吸血鬼に襲われて、怖くて自分が情けなくて嫌になった。誰かむりやりにでもこんな自分を変えてくれと願った。そんなときに来たのがアオだった。
シガンは大きく伸びをする。気楽ですがすがしく寒い朝だ。
こうしている間にも細胞は死んで生まれている。生命とは物質ではなく現象だ。ぼくとはただそこにあるものじゃなくて、なにをしてきて、なにをするかだ。
うるさいと思っていたのに今は静かすぎると感じる。思いどおりにならない日々だったけれど、その優しいウソもシガンの「好き」だった。
ぼくは何者にもなれなかった。それでもぼくは自分の「好き」を描きたい。「それもいいね」って言ってほしい。本当に単純で、くだらない理由だ。
そんな思いが、理屈ではなく静かに体の内に落ちてなじんでいく。その気分は悪くなかった。自分で自分の背を叩いてやりたくなった。
そして朝の東京駅。
人の声、足音、放送の音があちこちから好き勝手に飛んでくる。少しでも迷えば人の波にぶつかってしまいそうだった。異形となったアオの右目さえ、行きかう人々はとくに気にすることなく通り過ぎていく。
「ええと、北海道新幹線は……あっちだ。新函館北斗までだよな?」
「そうか」
発車案内を見あげるアオを気にもせず、ユエンが改札に向かっていく。
そんな、なんでもないように別れるのか。それもそうだ、たった三ヶ月、一緒にいただけの人間だ。でも、その間に俺は助けられて、彼女の前でぼろぼろ泣いた。
内心の諦めに反して、アオは思わず手を伸ばしていた。左手で細い手をとった後、何を言ったら正当な理由になるのか考える。ぐるぐると思考を働かせ、どうすれば彼女を引きとめ、無事に見送れるのかと思いめぐらせた。
「どうした。ああ、使い魔契約のことか? 解除するとどうなるかわからな……」
「……きっぷある?」
「ない」
やっぱりだ。アオはがっくりと肩を落とした。それでも、手を振りはらわれないのをいいことに、ぎゅっと握る。ユエンは不思議そうに見あげ、まばたきをした。
「買ったげるから、こっち来て。ちゃんと乗ったか、最後まで見てるから」
ひかえめに握りかえされた手をひいて、きっぷ売り場へと向かう。人が多い。来る人と行く人がうまく別れて大きな流れを作っている。アオはユエンを連れ、その流れに割って入っていった。つながった手が、ぬうように人の間を抜ける。
「わかった。それならよい」
そして二人は人混みへとまぎれていく。誰も彼らに注目するものはいなかった。
(終)
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