第21話、見送り 下

 コウのバッグにアオがアメを詰め込んだ時、それは来た。


「迎えに来たぞ」


 夜闇にカラスがおりると同時、人の形になった。灰色の魔女だ。魔女は青緑の目でコウを見るなり「ふむ」とうなった。彼は彼が殺したものにのろわれた。だから、誰も彼を傷つけることはできなくなった。魔女は手を差し伸べる。


「さあ、行こうか。世界は可能性に満ちている」


 コウは迷いなく魔女の手を取って、シガンを振り返った。彼女と行けばいつか本当に吸血鬼となり、人でいた時のことなど忘れてしまう。


「……シガン、ごめんね」

「もういいよ」


 シガンはコウのことを深く聞かなかった。知ったとして「ぼくが襲われたのはしかたなかった」とはならない。許すにしても「かわいそうだから」という理由になってしまう。それは何だか、嫌だったから。

 シガンは許さない、と思った。許せないと。けれど、ここで一区切りつけようと思った。自分が次に進むために。コウのためではなく自分のために言う。


「なあ、ぼくはぼくでなんとかするよ。だから、おまえもおまえで行ってこい」

「……うん。ありがとう、行ってきます」


 コウはホウキにのり、魔女の後ろにまたがった。

 突然起こった風に浮かんで上空へ舞い上がる。思わずきゅっと身を縮めて魔女にしがみついた。目を開けていられなかった。ぎゅんと曲がって、それから直下に落ち、また急上昇してぐるりと回ったような気がした。冷たい風が吹きさっていった。


「見ろ、いい夜だぞ」


 おそるおそる目を開けると、満月に足りない月がそこにあった。空を飛んだらシガンとアオに手を振ろうと思ったのに、もう街の光が雲の下にきらめいている。天と地の間に二人は浮かんでいた。


「わぁ……」


 一瞬、何もかもを忘れた。すごいと思うことさえできなかった。あの月も、星も、街の光も、自分も、みんなこの世界の一部だって思えた。ぼくはまだなにも知らない。だからぼくの本当のことを探しに行く。


 世界はコウが生まれる前からあって、死んだ後もそこにある。そんな大きな世界もまた自分の一部だと信じられると、全てに優しくなれる気がした。






「終わったな」

「……ああ、これで終わった」


 コウが魔女と月夜に飛び去った後、シガンはふらりとキッチンに行って冷蔵庫から酒を出して来た。缶チューハイ。ビールや日本酒より甘い酒がいい。


「飲むか?」

「もらっても?」


 アオも酒に好き嫌いはない。差し出された缶を受け取ってタブをあける。甘いアルコールの匂いがやって来た。シガンがグビリと飲んで大きく息を吐く。ぷはっと甘い炭酸が鼻を抜ける音。


「お祝いだ」


 シガンは缶を掲げて言った。


「おめでとう、コウ」

「そうだな。おめでとう」




 ひと缶を飲み干したとたん、シガンはずるりと崩れ落ちた。真っ赤な顔に、ぐうぐうと濁った鼻息を鳴らしている。


 アオは肩に彼の腕を乗せ、敷いた布団にまで持っていく。「ゆりかごゆらゆら……」。ごろんと布団に転がったシガンはたどたどしく子守唄を歌い始めた。コウに歌ってやっていたのが昔のことのようだ。それもすぐに聞き取れなくなり、寝息に変わっていた。


「ん?」


 耳をすませば何かが聞こえる。部屋の中ではないなあと窓を開けると、ひんやりとした空気に歌が聞こえてきた。何の歌かはわからないが、節がついた美しい言葉の流れ。鮮やかな声だけが夜にひっそりと響いている。寿ぎの歌だ。門出を祝う歌だった。


 歌っているのはユエンだろうか。空から降ってくるようだ。外に出てみると、アパートの平べったい屋根の上に彼女は立っていた。手足が節に合わせて伸びる。そして大きく空気の中を泳いだ。くるくると、子供が水たまりを踏むように踊る。


 アオはベランダの手すりに足をかけ、二階まで上がり、さらに手をかけて屋根に登った。そこまで来て、ユエンに声をかけられなかった。その美しい声にのまれた。


「アオ」


 晴れ晴れとした夜にその声が呼ぶ。知らなかった、そんな顔をするなんて。


「見るなと言ってるわけじゃないから、かまわん」


 風がアオの背中を舐める。月は明るいのに、空はこんなにも冷たく透き通っている。


「……アオは明日帰るのだな」

「うん。明日の朝には」

「私も帰ろう。別れるのが惜しくなる」


 驚いた。ユエンにも情があって、人を心配することを知っていたはずなのに。その顔がひどく切なげに見えた。長い時を生き、数えきれないほどの死を見てきて、それでも彼女はひとりで笑いたかったわけではない。そんなことに、今更気づいた。


「忘れないよ」

「うん?」

「ユエンさんのこと」

「……そうか。私はもう忘れてしまった。多くの人間といたことを」


 はるか遠くを見てユエンはつぶやく。そして、大きく口を開けて笑った。


「だが、楽しかったよ。ああ、きっと楽しかったとも」


 その顔が本当に楽しそうで、アオは胸がキュッとなるのを感じた。


「だから、それでいい」

「そうだなあ、それでいいのかもしれない。だけど、俺は忘れたくないと思っとる」

「……まあ人はそれでもいい」


 そう言うなり、ユエンはアパートの屋根から飛び降りた。音もなかった。慌ててアオもその後を追って飛ぶ。着地したとたん、じーんと足裏のしびれを感じたが、ユエンに気づかれないように何もなかったふりをして立ち上がった。







「お世話になりました」


 書き置きと封筒、中身は今月の家賃と壁紙代だ。シガンはぼんやりとした頭でそれを手に取った。昨日の酒がまだ残っている。

 この三ヶ月はコウの見た夢のようなものだと思った。コウが欲しかったものをユエンが夢に見せた、そんな気さえした。シガンは夢の登場人物で、夢が覚めれば消えてしまうのではなかったか。


 昔から、欲しいものは姉たちに取られていた。絵を描くのは好きだったが、もっと好きなやつがいくらでもいた。自分のためにも誰かのためにも描けなかった。がんばってダメだったときが怖かった。そうしているうちに何をしたらいいかわからなくなった。


 同居していたのは大学の同期で実にいいやつだった。「風呂そうじ終わり」「サバ缶食べていいよ」といった伝言だけですむのがよかった。同居人が売れて家を出ると言ったとき、シガンは「おめでとう」と喜ぶふりをした。

 それからすぐ吸血鬼に襲われて、怖くて仕方なくて、そんな自分が情けなくて嫌だった。誰かむりやりにでもこんな自分を変えてくれと願った。そんなときに来たのがアオだった。


 シガンは大きくのびをする。気楽ですがすがしく寒い朝だ。


 こうしている間にも、細胞は死んで生まれている。命とは物質ではなく現象だ。ぼくとはそこにあるものじゃなくて、何をしてきて、何をするかだ。


 うるさいと思っていたのに今は静かすぎると感じる。思い通りにならない日々だったけれど、その優しいウソもシガンの「好き」だった。

 ぼくは自分の描きたいものを描きたい。誰かに理解してほしい。自分の「好き」を描いて、「それもいいね」って言ってほしい。本当に単純で、くだらない理由だ。

 そんな考えが、理屈ではなく、静かに体の内になじんでいく。その気分は悪くなかった。自分で自分の背を叩いてやりたくなった。






 そして早朝の東京駅。

 人の声、足音、そして放送の音があちこちから好き勝手に飛んでくる。少しでも迷えば人の波にぶつかりそうだった。


「ええと、北海道新幹線は……あっちだ。新函館北斗までだよな?」

「そうか」


 それを聞いて、ユエンが改札に向かっていく。アオのほうを見もせずに。

 そんな、なんでもないように別れるのか。たった三ヶ月、一緒にいただけの人間だ。その間に俺は助けられて、助けたいと思って、彼女の前でぼろぼろ泣いた。


 そんな諦めに反して、アオは思わず手を伸ばしていた。左手で細い手をとったあと、何を言ったら正当な理由になるのか考える。


「どうした。使い魔契約のことか? 解除するとどうなるかわからな……」

「……きっぷある?」

「ない」


 やっぱりだ。アオはがっくりと肩を落とした。それでも、ユエンが手を振りはらわないのをいいことにぎゅっと握って引っ張る。


「買ったげるから、こっち来て。ちゃんと乗ったか、最後まで見てるから」


 ひかえめに握り返された手をひいて、きっぷ売り場へと向かう。

 人が多い。来る人と行く人がうまく別れて大きな流れを作っている。アオはユエンを引っ張っりながらその流れに割って入っていった。


 つながった手が、縫うように人の間を抜ける。この手は誰でもなく『ユエン』をしっかりとつかんでいた。


「わかった。それならよい」


 そして二人は人混みへと紛れていく。誰も彼らに注目するものはいなかった。




(終)

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死の守り神は影に添う 星見守灯也 @hoshimi_motoya

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