第1話、始まりの駅 下
そいつの頭からは短い角が一本突きでていた。口元には鋭い牙、その間にちらちら見える舌の先がとがっている。この牙と舌で人の血液をすするという。
食人鬼には痛覚がないといわれるが、本当かどうかアオは知らない。少なくとも体を切りとった程度では動きを止めないとわかっている。間合いを見ながら彼女を背中にかばい、矛を構えなおす。
「あー、無事ですね? そんならよかった」
ようやく気づいたが、少女の後ろ、影になっているところにひとりの女が倒れていた。そうか、この人をかばっていたのか。彼女たちから気をそらさなければならない。少女が逃げてくれれば、残ったケガ人ひとりを守りながらなんとかできる。
……できるか? 基本的には食人鬼一体に対して三人以上で対処する。食人鬼を駆除するには、つまりそのすべてを塵に変えるためには核を破壊するか日光を当てればよい。しかし日没後でありここは地下である。組合と鬼害対が来るまでもちこたえればいいとは言うほど簡単ではない。
組合とはこの場合、都の吸血鬼防除組合であり、鬼害対とは警視庁の吸血鬼害対策特別捜査隊のことで、要するにこういうことに対応する組織だ。どちらにもすでに駅員が通報しているだろう。
彼女が自力で逃げてくれれば少なくともひとりは被害が減る。そう考えてアオはややクセのある口調で声をかけた。
「あっちに走ってってくれません? 組合か鬼害対、そろそろ来てると思うんで」
「私にまかせよ。おまえはむこうに回りこめばよい」
その返答はおかしなものだった。アオは逃げられるかと聞いたのだ。思いもよらない返事に、脳がぽっかりと空白をつくった。まかせるとはどういうことか。
食人鬼の腕が伸ばされ、太い爪がアオの胸を狙うように飛んできた。体をぐっと沈みこませると腕の外側に柄を当てる。内側にはらい落とし、そのままかわして矛先を突きだす。しかし狙いが甘かった。力ずくで振りはらわれそうになり、折られる前にすばやく矛をたぐるように体を引く。
「っ! くっそお……」
彼女といえば動く気はないらしい。倒れた女を守るように、自分の影に隠すように立っている。
「おまえの影を預けてくれ」
考えている余裕はなかった。彼女の言葉に引っ張られるように体が動いた。
体当たりするように迫って来た食人鬼に対して腰を落とし、伸びた左腕に
(影だって?)
うっかり薄氷を踏んでしまったときのような冷たい心臓のしびれがあった。自分の影が勝手に動いた。その黒色はすぐに食人鬼の首を鋭い
首が塵に変わり、支えのなくなった頭部がぐらりと傾いた。影がずるんと落ち、すべって何事もなかったかのようにアオの足元に戻った。食人鬼の背後に着地したアオが振り向きざま、すばやく右手をひねって眉間を突く。頭部が割れ、塵になって舞い散った。首から上をなくした食人鬼がゆらりと振りかえった。
「……残念。運が悪いな」
彼女がたいして残念でもなさそうに言った。欠けた食人鬼の体を再生してみせる命の中心、核となるものはたいてい人間でいう心臓か脳にある。今回は胸のほうだったかあ……とアオは矛を手元に返す。
頭部を一度壊されたのに反し、食人鬼は動きに支障が出た様子はない。それでも不愉快であったらしい。獣のような咆哮をあげてもがき、アオに向かって爪を振りまわした。ちぎれた首からいびつな風船が膨らむように頭が生えてくる。
爪が柱をえぐり、強引に振りはらった。破片が飛ばされ壁にぶつかり傷を作る。それらをすべてさばきながら矛を突きおろした。振りおろされるそれをつかもうとやつの手が伸びる。早い。かわすように矛を抜いたところにも手が飛んでくる。いなすのが精一杯で踏みこめない。
ふり落とされた手が床をえぐった瞬間、アオの影から黒いトゲが飛びだし食人鬼に迫った。食人鬼は思わずといった様子で飛びのく。その隙に遠心力にまかせて大きく切りあげる。左腕がばらりと切れて床に落ち、塵に変わった。
これなら駆除できるか。アオは胸に攻撃を入れようと飛びこむ。突きあげた矛は大きな右手を打ち抜き、ざっくりと切り裂いて落とした。ガラ空きになった胸を貫こうと矛をたぐったとき、食人鬼は足元の床を蹴りぬいて破壊した。メキメキッと嫌な音がしてばらばらとフロアタイルがなかに落ちこんでいく。
「な……」
アオが慌てて跳びのいたとたん、深い穴ができ、食人鬼が消えた。床下に吸いこまれるように姿を消していた。荒れはてた通路には、わずかな塵しか残らなかった。
静寂の後、ふっと息がもれた。一転、軽い声で結果を確認する。
「あちゃ、逃げられたか」
「そのようだ。……おい、生きているか。よし」
彼女は振りかえって足元に倒れたケガ人を見る。アオもしゃがみこみ脈に触れた。出血はあるが死ぬほどではない。気を失っているだけだ。隠れていた駅員が顔を出したので救急車を呼ぶよう伝える。駅員が飛んでいく背にもう一度ふうと息を吐いた。
「ああ、えーっと……」
アオは少女に話しかけようとして、なにから聞こうかと考えた。少女は奇妙なものを見るように、じっとアオの顔をのぞきこむ。それから小さく首をひねった。
「なるほど、これが今どきのイイ男か。興味深い」
「……今、それ言います?」
聞きたいことはたくさんあるのに、その気をそがれてしまった。とりあえず先にケガ人の手当てをしようとしたとき、先ほどの駅員とは別の足音が駆けてきた。
男女二人。若い女は警察のジャケットに銀の
鬼害対の女は周囲を見まわし危険がないのを確認すると、アオに向かいあった。ケガ人がいることに気づいた男がすぐにアオから引き継いで手当てに入る。
「鬼害対、
アオは立ちあがって軽く頭をさげた。
「あー……それが逃げられました。申し訳ありません」
「こちらも遅くなりました。退却させられただけでもよかったです」
「退却というか……」
どう説明しようかとアオは迷った。その腕章を見た男が割って入る。
「うちに来る予定だった生松さんか。おれは都組合の
「ええ、そのとおりです。生松アオといいます」
アオは急増した鬼害に対応するため東京に来たところだった。予定の時刻などとっくに過ぎていて、走っても間にあわなかっただろう。遅れた口実ができて助かった。
「ああ、予定とはあなたでしたか」
天児と名のった女がそれを聞いて納得したようにうなずく。「ひとりで食人鬼を相手できるなんて、いい腕ですね」。
「いや、守ったのは彼女でして。……食人鬼は床下に潜ったようです」
「床下、とは?」
目を移した先の床には大きな穴があった。そのなかには真っ暗な空間が広がっていて、食人鬼ははそこに逃げたと考えられる。捜索する必要があるだろう。
その穴の横にかがんでいた少女が、視線に気づいて腰をあげた。
「ここにはもういない。地下に逃げたようだ。……やっかいな」
「地下に?」
「そう。空洞の下にも穴を開け、さらに地に潜った。そういう吸血鬼の眷属だろう」
吐き捨てるように言った少女は何者か。
「……あなたは?」
彼女の胸元には青いビーズが何連かになったネックレス。こちらを見る目は影のように黒い。その目を不意に緩ませ、くったくなく彼女は笑みをみせた。
「人間は、私を神と呼んでいたよ」
嫌な沈黙が落ちた。なんの冗談だ。それを意にかいさず、その神とやらは言う。
「ああ、つまり、妖精だ。そうだな……うん、ユエンでいい。よろしく」
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