だから愛した
佐治尚実
1-つまらない飲み会
安っぽい照明の下で、誰かの声や手が忙しなく行き交う。十人ほど集まった居酒屋の個室で
「なあなあ聞いてたぞ、江口さ、お前さ、あの子に手を出すなよ」
普段から仕切りたがり屋な友人の
堺が無作法な動作で、手にしていたビールジョッキをテーブルに置いた。中身が飛び跳ね、礼嗣のバンドTシャツのロゴ辺りに、黒いしみを作った。
「んだよ、ふざけるな」
礼嗣は折りたたんでいた長い足を寛がせた。
「悪い、悪い、それ高そうだな、まっ、こういう場所に着てくるのが悪いんだって」
そう、堺は開き直って、こちらを見ずにジョッキを呷る。
礼嗣は呆れて言葉も出ない。これは恋人の
直ぐさまテーブルのおしぼりに手を伸ばしたら、反対側にいた女の子がハンカチで拭いてくれた。ほつれや汚れのないピンク色のタオルハンカチだった。
「江口くん大丈夫? かっこいい服なのに、もったいない、堺くん酷いよ」
彼女は礼嗣に笑みを浮かべたまま、堺を一瞥した。大学の学部が同じで、ふわふわと笑う黒髪の彼女は人気アイドルのセンターの子に似ていた。
「ありがとう、きれいなハンカチが汚れるよ」
礼嗣はそっと彼女の白い手をTシャツから離す。
「ほらっ、そういうとこだぞ」
堺が乱暴な仕草で指を差し、無神経な口調で礼嗣を嘲る。
「なんだよ」
と、礼嗣はぞんざいに堺の手を払う。
「
明日香って誰だ。ああ隣の子か。
「説教かよ」
不意に由比の顔が浮かんだ。堺は自分と由比が付き合っていることを知る数少ない友人だった。
「お前が知らないうちに、悲しんでいたらどうする」
「なんだよ、お前が飲みに来いって誘ったくせに、俺は友人として来ているだけだろうが」
「お前のきれいな顔は女の子に受けるからちょうどいいんだ、それより恋人をここに連れてこいよ」
堺の勢いに任せた言葉に、さあっと血の気が引いた。由比をその他大勢の集まる居酒屋に同席させる。火山が噴火してもあり得ない話だ。
「いやだ」
礼嗣が言うと、堺が鼻で笑った。
「自分だけ良くて相手は駄目だってさ、それ独り善がりって言うんだぞ」
フラれてしまえ、と堺は酒臭い息を吐きかけてきた。その臭気から逃げようと、堺の正論があまりに胸を抉るから、コートと鞄を持って席を立った。取りあえず顔を出して一杯飲んだのだから、堺への義理は果たした。それの何が悪いのだ。友人思いではないか。
「帰るわ、お疲れ」
「もう来るなっ」
堺のその矛盾した台詞を何度聞いたか分からない。
「江口くん帰らないで」
引き留める子もいたが、
「またね」
と、礼嗣はやんわりと断って店を出た。繁華街の呼び込みを躱しながら、十一月の夜風が襟足の短い首元に吹き荒ぶ。炭火の臭いがついたキャメルのコートを着て、スマートフォンで由比にメッセージを送った。
【今から帰る】
簡素な文に既読が付くのを待つも、一向に変化はなかった。まだ夜の八時なのに由比は何をしているのだ。今夜、礼嗣が付き合いで飲みに行くと伝えたら、由比はぐっと堪えるような顔をし、物分かりの良い恋人として「いってらっしゃい」と送ってくれた。あの時の健気な由比を思うだけで、本当は行きたくないのだと、その唇を貪りたくなる。由比の思いを確かめたくて、わざと嫉妬させた。だから、礼嗣は我慢して浮気性な恋人を演じた。由比とは高校二年の夏から付き合い始め、大学が違うからと一緒に暮らし始めて二年がたつ。それでも由比が毎日、何を感じているのか把握できないでいた。降り積もる焦りに礼嗣は、自分で自分の首を絞めていると自覚し、どうにもやりきれない思いに懊悩していた。
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