だから愛した

佐治尚実

1-つまらない飲み会

 安っぽい照明の下で、誰かの声や手が忙しなく行き交う。十人ほど集まった居酒屋の個室で江口礼嗣えぐちれいじは、両脇から甘い声をかけられても心許無く飲んでいた。


「なあなあ聞いてたぞ、江口さ、お前さ、あの子に手を出すなよ」


 普段から仕切りたがり屋な友人のさかいが隣から絡んできた。ちょうどそこに座っていた女の子がトイレに立ったのを見計らったのだろう。椅子から尻をはみ出させた堺とは古い付き合いで、高校のサッカー部では同じポジションを奪い合っていた仲だ。大学に進んでスポーツの類いをやめた堺の身体は縦にも横にも大きくなり、飲み会があればどこへでも駆けつけ、勉強よりも遊びに明け暮れていた。


 堺が無作法な動作で、手にしていたビールジョッキをテーブルに置いた。中身が飛び跳ね、礼嗣のバンドTシャツのロゴ辺りに、黒いしみを作った。


「んだよ、ふざけるな」


 礼嗣は折りたたんでいた長い足を寛がせた。


「悪い、悪い、それ高そうだな、まっ、こういう場所に着てくるのが悪いんだって」


 そう、堺は開き直って、こちらを見ずにジョッキを呷る。

 礼嗣は呆れて言葉も出ない。これは恋人の由比ゆいと一緒に観に行ったライブTシャツだ。それはそれは思い出が詰まっている。

 直ぐさまテーブルのおしぼりに手を伸ばしたら、反対側にいた女の子がハンカチで拭いてくれた。ほつれや汚れのないピンク色のタオルハンカチだった。


「江口くん大丈夫? かっこいい服なのに、もったいない、堺くん酷いよ」


 彼女は礼嗣に笑みを浮かべたまま、堺を一瞥した。大学の学部が同じで、ふわふわと笑う黒髪の彼女は人気アイドルのセンターの子に似ていた。


「ありがとう、きれいなハンカチが汚れるよ」


 礼嗣はそっと彼女の白い手をTシャツから離す。


「ほらっ、そういうとこだぞ」


 堺が乱暴な仕草で指を差し、無神経な口調で礼嗣を嘲る。


「なんだよ」


 と、礼嗣はぞんざいに堺の手を払う。


明日香あすかちゃんに手を出すなよ、そうやって違う相手ばかり侍らせて調子づいてるから、いつか恋人にも愛想を尽かされるぞ」


 明日香って誰だ。ああ隣の子か。


「説教かよ」


 不意に由比の顔が浮かんだ。堺は自分と由比が付き合っていることを知る数少ない友人だった。


「お前が知らないうちに、悲しんでいたらどうする」

「なんだよ、お前が飲みに来いって誘ったくせに、俺は友人として来ているだけだろうが」

「お前のきれいな顔は女の子に受けるからちょうどいいんだ、それより恋人をここに連れてこいよ」


 堺の勢いに任せた言葉に、さあっと血の気が引いた。由比をその他大勢の集まる居酒屋に同席させる。火山が噴火してもあり得ない話だ。


「いやだ」


 礼嗣が言うと、堺が鼻で笑った。


「自分だけ良くて相手は駄目だってさ、それ独り善がりって言うんだぞ」


 フラれてしまえ、と堺は酒臭い息を吐きかけてきた。その臭気から逃げようと、堺の正論があまりに胸を抉るから、コートと鞄を持って席を立った。取りあえず顔を出して一杯飲んだのだから、堺への義理は果たした。それの何が悪いのだ。友人思いではないか。


「帰るわ、お疲れ」

「もう来るなっ」


 堺のその矛盾した台詞を何度聞いたか分からない。


「江口くん帰らないで」


 引き留める子もいたが、


「またね」


 と、礼嗣はやんわりと断って店を出た。繁華街の呼び込みを躱しながら、十一月の夜風が襟足の短い首元に吹き荒ぶ。炭火の臭いがついたキャメルのコートを着て、スマートフォンで由比にメッセージを送った。


【今から帰る】


 簡素な文に既読が付くのを待つも、一向に変化はなかった。まだ夜の八時なのに由比は何をしているのだ。今夜、礼嗣が付き合いで飲みに行くと伝えたら、由比はぐっと堪えるような顔をし、物分かりの良い恋人として「いってらっしゃい」と送ってくれた。あの時の健気な由比を思うだけで、本当は行きたくないのだと、その唇を貪りたくなる。由比の思いを確かめたくて、わざと嫉妬させた。だから、礼嗣は我慢して浮気性な恋人を演じた。由比とは高校二年の夏から付き合い始め、大学が違うからと一緒に暮らし始めて二年がたつ。それでも由比が毎日、何を感じているのか把握できないでいた。降り積もる焦りに礼嗣は、自分で自分の首を絞めていると自覚し、どうにもやりきれない思いに懊悩していた。

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