第5話

 本来は、シンディが十五か十六歳になった時点で結婚するはずだった。


 しかしもう十七歳だ。


 どうして結婚が延期されているのか、それは偏にシンディのイケメンアレルギーのせいだ。


 世間には公表していないが両家の人間は知っている。息子を無理とか言うそんな失礼な嫁は御免だと婚約を解消されてもおかしくないのに維持されているのは、


「うちの息子の顔ってある意味凶器だけれど、キュン死に卒倒して無理なのと違ってシンディちゃんタイプは逆に珍しいから、面白い夫婦になると思うわ」(グリーン伯爵夫人談)

「ハハハなぁに、最終的には頭に袋でも被ればいいだろうに。万一シンディさんが吐きそうになってもその袋をエチケット袋にすれば一石二鳥だろ。あ、いや、目の穴が開いてるから漏れるかハハハハハ!」(グリーン伯爵談)


 と彼の両親に物凄く寛大な理解があるからに他ならない。

 シンディが招待されたグリーン家の昼食会の席でそんな話になったのだ。

 ローワー家の娘としては、既に肩代わりをしてもらっていた借金を破談にするからてめえで払えと塩をぶちまけられずに済んで胸を撫で下ろしていた。


「エドもこの私に似れば良かったのになあ」

「あなた、それはエドに人間と結婚するなって言うのと同じですよ」

「どういう意味だいハニー!?」

「うふふ、ゴリラ好きのわたくしのような女がいたからこそ、あなたは結婚できてこーんなに格好良い息子を拝めたのですよ? わたくしの他にここまで奇特な好みの女なんていません。あなたのゴリラな外見はわたくしだけが独り占めして良いものですもの。息子に遺伝するのでさえも譲れません」

「つ、妻よ……アイラブユーだっ!」


 しかも伯爵夫妻がイチャイチャし始めたのでエドモンドと先に昼食の席を辞したものだった。エドモンドとはその日はしばらく気まずかった。

 婚約者が優しい男に育ったのがよくよくわかったシンディでもある。


 とにかく、シンディがエドモンドの美顔を克服するまではと延ばしていたのだ。


 そして克服できるだろう唯一の方法を現在実践している。


 ただし、十八歳までに克服できなければそのまま結婚する手筈にもなっていた。そうなればシンディは早死に決定だと自分でも危ぶみ、克服しようと絶賛奮闘中だ。


 エドモンドが酔漢から助けてくれたあの夜のように無愛想で冷徹であればあるだけ、胃もたれせずに触れられる。ここのところその作戦は順調だった。


 結婚式は早まるかもしれない。


(それならそれでも構わない。結婚に相思相愛なんて幻想は持ってないもの。エド様も私が気絶しないし彼自身お人好しだから私を大事にしてくれるだけで、特別好きだから結婚したいわけじゃないだろうし)


 婚約者としての義務感からの好意があるだけだろう。自分も人の事を言えた義理ではないしそれで十分だとシンディは思っている。

 エドモンドの腕に手を添えて二人でダンスホールに向かうそんな冷めたシンディは、微笑みを浮かべながらこそりと横の婚約者に釘を刺すのを忘れない。


「エド様、ダンス中に塩対応が崩れたら――結婚後は別居で」


 一瞬、エドモンドは硬直し足を縺れさせそうになったものの、堪えたようだ。やや目元が潤み赤くなったけれど会場の熱気のせいだと誤魔化せる程度だ。

 他のダンス組と同じように向かい合う。これから流れる曲は二人で踊る曲だからだ。多人数でくるくるとパートナーを何度も交換するように踊る賑やかな曲もあるが、シンディはそういうのには参加しない主義だった。うっかりどこかの見知らぬ神イケメンと踊るような不運があれば、自信を持ってダンスホールを汚すと言える。用意されていた軽食の数々はしっかり胃袋に収まってしまっているのだ。要らぬ顰蹙ひんしゅくを買うのは御免だった。


 周りの組は互いに綻んだ表情でいるのに、エドモンドは鉄面皮のようだ。対するシンディは淑女らしい微笑みでいる。


 二人は出席する舞踏会では概ねこんな感じだった。


 その様子から、結婚せずに別れるのではと囁かれてもいる。だがしかしそれはない。


 勿論シンディにもそのような意図はない。だだ、結婚それまでに少しでも彼には塩対応に長けてほしいと願ってはいた。

 腰に手を回され近い距離で顔を寄せ合いながら、こうやって踊る度に彼とのダンスの相性がとても良いのだと実感する。身長差も理想値なのかもしれない。世辞ではなく踊りやすい。

 エドモンドが芸能事に練達しているからだろうか。


(きっと沢山の女性と踊った経験があるからよね。リードの仕方をよくわかってるのって)


 シンディが理由をつけて社交界から遠ざかっている間、エドモンドは一人で集まりに参加していたのだろうか。訊いた事はなかった。一人で参加する人も当然いるが、彼は神イケメンのエドモンド・グリーンなのだ。いくら観賞用と大多数がそうしていても、中には本気のほの字で勇気ある猛者だっていたかもしれない。そうだ、同伴者の一人や二人いたに違いないのだ。


 いつ見ても優雅な婚約者をじっと見つめる。今は眉間に無理をしてしわを寄せている。


(ふふ、エド様ってばかわ…………私どうかしてるわ、可愛いだなんて)


 シンディは自分に呆れて少し笑いそうになって慌てて場を弁えなければと表情を整える。


(ええと何だっけ、ああそうそう同伴者よ。世の中には私よりも大人で綺麗で、私と違ってこの顔にも好意的に平気な女性だっているかもしれない。ううん、皆無じゃないよねきっと)


 決してシンディが特別なわけではないのだ。多少珍しいだけなのだ。今更ながらそんな事が心に引っ掛かった。


(私とエド様は好き合って婚約したわけじゃない。単に偶然が重なっただけ……ってわかってるじゃない)


 瞬きを忘れたように見つめていたからか、とうとうエドモンドが動揺を瞳にのせた。厳しい顔付きがじわじわと弛み頬が少しずつ赤さを増している。優しい蕩けるような笑みを向けられたら最後と、シンディはハッとする。


(こんな所で――吐けない!)


 どうにかエドモンドの気の弛みを引き締めなければ。


(気を逸らす何か、気を逸らす何かを言わないと!)


「エド様、知っています? どうも私はマゾだと思われているようです」


 シンディは大真面目だった。自分の不名誉な評判は嫁ぎ先にも悪い影響を与えかねないのを心配している彼女は、その件で何らかの解決策を模索したいと考えていたのだ。こういう事はエドモンドにも一緒に考えて欲しいとも。


 いつもダンスは完璧なはずのエドモンドがステップを思い切り踏み外した。


 彼の顔にも避けようもなく焦りが浮かび、大きくバランスを崩して倒れそうになる。

 転ぶ、とシンディは思わずぎゅっと目を瞑った――刹那、ふわりと全身が浮遊感に包まれる。そろりと瞼を上げて驚いて大きく瞠目してしまった。


(えっえっ、お姫様抱っこ!?)


 混乱しそうになったもののシンディは転ばないための動きだったのだろうと即座に察して内面の落ち着きを取り戻すのに努めた。それでも人前でこれは結構恥ずかしいものがある。目立って仕方がない。

 周りを窺えば皆一様に驚きを顔に乗せている。完全に二人の一帯だけダンスが止まっていた。ダンスホールの遠くの組も異変を察知して動きを止めていく。


「エ、エド様、ダンスを再開しませんと」


 シンディが急かすようにすれば、彼女を見つめ下ろしていた彼もはたと我に返ったようで、ゆっくりと足を床に下ろしてくれた。


「ありがとうございます」

「いや、こちらこそ悪かった」


 ホッとして告げれば彼はふいと視線を逸らしてシンディから一歩離れた。

 まだ曲は途中だ。中盤と言っていい。


「エド様?」

「踊ることは踊ったんだし、ダンスは終わりだ」

「あ……」


 彼は演技の一環なのか素っ気なく呟くやくるりと踵を返して足早に一人でダンスホールを抜けていく。唐突に取り残されたシンディは呆気とするしかない。演技とわかっていても突然の塩対応に戸惑ってしまったのだ。


(いえ、ええと、どうしたのかしら。冷たい男でいてくれた方がマシではあるけど、これはさすがに変な噂になるんじゃないの?)


 シンディとしてはそれは望まない。それでなくても最近の自分達には仲が拗れているどころか破談になる的な予想よりも酷い噂が流れているのだ。

 社交界を見ればやはり家同士の事情で婚約や結婚させられよそよそしいカップルなどざらだ。だから彼女も大した問題にはならないと少し甘く見通していた感は否めない。

 しかしギリギリセーフと言えていたのが、ダンス途中下車、これはさすがにまずい。


(エド様と話し合ってどこまでが適切か大体のラインを決めておかないと。でないと親達を無駄に案じさせるだけよね)


 シンディははしたないと思われようと今だけは仕方ないと小走りでエドモンドを追いかけて、その背のすぐ後ろから声を掛ける。


「エド様、少し庭かバルコニーに出ませんか?」

「そんな暇はない。知り合いに挨拶をしないといけないんだ」


 エドモンドはあっさりシンディを退けると更なる早足でさっさと歩き去った。


「え。――え?」


 予想していなかった。シンディはただ単に接しているとき無愛想でいてほしいだけで、ここまでの拒絶は想定していない。望んでいなかった。

 しばし呆然と佇んでいた彼女はぐっと拳を握りしめ顎を上げる。


(や、やっぱりすぐにでも演技の幅を決めておかないと。こっちも合わせづらいわ。何よりもこのまま放置プレイされたら、私のマゾ説が確定の域でしょ。そこをエド様にもきちんと考えてもらいたかったのに)


 淑女の基本たる微笑を張り付けてめげずに追いかける。

 その嬉しそうな微笑みがマゾ説を深めているのだとは思いもしない。


「エドさ――」


 他の参加者に遮られて見えなくなっていた婚約者の背中を見つけ再び声をかけようとした矢先、シンディの耳には彼の談笑が、目には彼の腕に手を触れる知らない女性の姿が入った。

 彼のご尊顔を目の前にしていても平然としている。

 案の定、平気な女性はいるのだ。ただ、シンディは初めて目撃した。これまではたまたま顔を合わせなかっただけなのだろう。


 後ろ姿で表情は見えないが、エドモンドの耳が赤くなっているのには気付いた。照れているのかもしれない。


 閃くように思う。


(ああ、大人の恋……)


 現在は社交シーズンだからお互いすぐに会える王都にいるが、普段はそれぞれの領地に暮らしているのだ。領地同士は決して近いとは言えない。


 シンディにはシンディの時間があるように、エドモンドにもエドモンドの時間がある。


 知らないエドモンドがいるのは当たり前だ。美しい大人な女性の知り合いだっているだろう。


 彼は十七のシンディよりも六つも上で、女慣れ以前に、これまで好意を寄せたり親密になった相手がいたっておかしくない。今まで考えもしなかった自らの愚かなお気楽さに自己嫌悪する。


 傍まで近付いたのに結局声を掛けずに進路を横に曲がった。


 だって何故だか声を掛けられなかった。

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