(14)

 日本の産業界にその名をとどろかせる大企業に君臨する老人は、だが小柄で弱々しい姿をしていた。

 薄い白髪を撫で付け、畳に置く手には無数の皺が刻まれている。深紅の襟から覗く首は痩せこけ、細い声しか出ないようだった。長年の苦労を全身に纏った半清嗣翁は、だが穏やかな微笑を浮かべて顔を上げた。

「少しお話をしましょう。馨子さんは、また後でお越しなさい」

 そう言われた馨子は深々と一礼し、座敷を後にした。


「――さて」

 清嗣翁は二人に座布団を示した後、正面に膝を向けた。

「養蚕の話を聞くのに、わざわざこの村までお越しになる事はないでしょう。前橋の工場で事足りるはず。荻島君ですか、あなたがたを招いたのは」

 保憲の背筋に戦慄がはしる。この弱々しい老人の眼光は、一切衰えを見せていない。

 白旗を揚げたとばかりに、保憲は姿勢を正し頭を下げた。

「土御門と申します。ご遺言の写真にある人物を探して欲しいと頼まれました」

「土御門……おやおや、これは華族様であられますか」

「兄が、です。私はただの居候です」

 そう言って顔を上げた保憲の表情は、いつもの人を喰ったものに戻っていた。

「では、回りくどい事を言っても意味はありませんな――写真の青年は、清一氏のご子息ですね?」

 さすがの老獪ろうかいも、これには目を泳がせた。

「さすが陰陽師殿であらせられる。見抜かれましたか」

「いえ、あなたの目的が分かりません。それを直接伺おうと、こうしてお邪魔した次第です」

 老人の目に警戒する光が戻ったのを確認してから、保憲は続けた。

「彼が二十年ほど前に亡くなっているのを、あなたはご存知でしょう」

「…………」

「それを探せと、なぜ荻島弁護士に依頼されたのですか?」

 清嗣翁はしばらく挑むような目で保憲を見据えていた。それから不意に表情を崩し、襟に手を当てる。

「白を禁じられたこの村でも、開室の儀の裃は白と決まっておりまして。なぜだかご存知ですかな?」

「…………」

「その昔、沼田藩に組み入れられた時、殿様に文句を言われたそうです。儀式というのは白装束で行うものであると」

 保憲には、急に語り出した清嗣翁の意図が分からなかった。しかし老人は続ける。

「ですが、うちのご先祖が反抗したのですな、白装束を纏おうとも、心は平家であると。だから、襟だけ赤いのです」

 保憲は眉を寄せた。真意を語るつもりはないと言いたいのか。それとも、潔癖けっぺきを装っていても、中身は血塗られているとでも言いたいのか。

「つまらない話をしましたな。これから行う開室の儀というのは、その程度のものでしてな。儀式などと偉そうに称しておりますが、ただ室からお蚕の種を出すだけの、つまらないものです」

 何度も「つまらない」と言う老人は、ハハハと力なく笑った。

「形式というのは厄介です。形式に囚われ過ぎれば、それ自体を目的と勘違いしてしまう。ただ……」

 言葉を区切った老人は笑みを消した。

「目的を見失えば、全てを失います」


 ◇


 その後、再び馨子の案内で、保憲といすゞは研究所の合掌造りに向かった。

 中二階の茅葺き屋根の建物。昔の養蚕農家の代表的な建築で、現役当時は一階を住居、屋根裏を養蚕場として使っていたようだ。それを近年移築し、屋根裏の養蚕場はそのままに、一階に繭を煮る釜だの糸取りのための器具だのを置き、作業場としているらしい。

「研究所と呼ぶだけあって、新しい工程や繭の改良を、工場に出す前に試験する施設でもあるのです」

 馨子の説明である。

 まだ蚕がいないのでどの器具も止まっていたが、普段ここで働いている女工だろう、二十人ほどが保憲たちを物珍しそうに眺めた後、建物の奥へと向かった。

 そこには、屋根裏へ上がる、梯子のように急な階段がある吹き抜けと、屋根続きに裏山へめり込むように建てられた小屋があった。小屋から先は土間になっており、薄暗い空間は既にそこが洞窟の内部である事を示している。

 どこからともなく冷気が流れ込んで、肌を刺すような感覚に、保憲はゾクッと身震いした。

風穴ふうけつ、というのはご存知ですか?」

 馨子が保憲に囁く。

「いえ……」

「ここは、岩山の下にある洞窟です。岩山といっても一枚岩ではなく、細かな岩が石垣のように複雑に組み合わさった構造をしているので、冷たい隙間風が入るのです。そこに冬場の雪を詰めておき、氷室のようにして温度管理をします――その室の入口が、あの扉です」

 馨子の示す先は、瓢箪ひょうたんの窪みのように洞窟が狭まっている。そこに重々しい鉄扉が据えられ、物々しく注連縄が掛けられていた――例の赤い紙垂のものだ。まるで封印されているように見える。

「確かに封印ですわね。種はとても弱いですから、閉鎖された室に病気や虫なんかが入り込むと、簡単に全滅してしまいますので」

「難しいのですね」

「ええ。でも先祖代々受け継いだ技術がありますから、それを守ってさえいれば、そんな事にはなりません」

 にこやかに語る馨子に、だが保憲は奇妙な違和感を覚えていた――先程まではほとんど無視に近い対応だったにも関わらず、いすゞを差し置いて彼に話し掛けてくるのはどういう訳か。


 間もなく儀式が始まった。

 洞窟の壁沿いに、女工たち、保憲といすゞ、馨子が並ぶ。

 その間をすり足で、清嗣翁、次いで、シャツに裃という簡易的な儀装の中年男二人が入って来た。馨子が保憲に耳打ちする。

「前のがうちの主人の滋、後ろが東京の聡です」

 滋は色白でふくよかで、平和な時代の殿様を絵に描いたようなおおらかさがある。一方聡は、日焼けし引き締まった、逞しさと険しさを感じさせる人物だ。清嗣翁の性質が極端な形で二人の息子に分けられたようだと、保憲は思った。

 三人は扉の前まで来ると頭を下げて畏まり、神主を迎える。

「十三塚神社の西宮司です」

 今度はいすゞが囁く。西宮司は衣冠束帯いかんそくたいの装束で、真っ赤なほうを身に着けていた。これは神職としての位による色だろうが、中に着たひとえまで赤なのは、この村ならではだろう。

 主役三人、そして後ろに控える保憲たちと女工たちに向かい、西宮司は赤い大幣おおぬさを振ってお祓いをする。それから扉に祝詞を奏上し、聡が差し出した三方さんぼうに置かれた短刀を清嗣翁に渡す。それにお神酒を掛けて清めたところで、翁はゆるりと前に出た。

 その短刀で、観音開きの鉄扉を封じた注連縄を断つ。短刀は入口の上の金具に収められ、今年一年の守刀とするらしい。

 その後、翁はかんぬきを外し、鉄扉に手を掛けた。重々しい金属音の後、清冽せいれつな冷気が扉の隙間から流れ出る。

 ――まさに「開室の儀」である。

 そして翁は室の中に消え、間もなく戻ってきたのだが……。

 翁が手にした薄い木の箱を見て、息子二人と馨子、そして女工たちは悲鳴を上げた。


 箱に敷かれた紙に、粟粒のように細かな種が散らばっているのだが、そのどれもが、血を垂らしたように真っ赤だったのだ。


「……呪いだわ」

 しばしの沈黙の後、女工の誰かが震える声を発した。

「十三塚の祟りだわ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る