(8)
こうなってしまっては、夏子を
土御門保憲と蘆屋いすゞは、半夏子を彼女の住まいに送り届ける事にした。
恵比寿の仮社屋。仮とは言うものの、元は大名屋敷の建物を利用しており、実に立派なものだ。近くには大きなビール工場もある。これから開発が進んでいく地域と見えて、造成中の建物もあちこちにある。
そんな大名屋敷の敷地の一角。離れになっている二間続きの書院が、彼女一家の仮の住まいらしい。
「――夏子!」
彼女の母・静代は、彼女の姿を見るなり駆け寄り抱き締めた。
「ごめんなさい……」
矢文騒動で、すっかり
――その後、保憲といすゞは仮社屋の応接間に場所を移し、事情を説明する事となった。夏子は気持ちが落ち着くまで、侍女と共に自室で休むようだ。
畳の上に絨毯を敷き、そこに椅子とテーブルを置いた、急ごしらえの応接間である。二人の向かいに腰を下ろし、半静代は深々と頭を下げた。
「お世話をお掛けいたしました」
恐縮した様子で、いすゞも頭を下げ返す。
「こちらこそ、夏子ちゃんを説得できなかった上、危ない目にまで遭わせてしまい、申し訳ございませんでした」
半静代は、五十過ぎの年増ではあるが、かつては相当の美貌を誇っていたのだろう、今も柳眉にその面影がある。先進的な夏子とは違い、女優
これは後ほど、夏子から聞いた話としていすゞに聞いたのだが、静代の実家は元は士族で、世が世なら、山奥の養蚕家の次男になど嫁ぐような家柄ではないそうだ。士族の没落で生活が困窮したため、経済的援助を目的としての婚姻である。一方、半家からしても悪い話ではなかった。士族として社交界に顔のある家柄だったため、商売を広めていくのにその人脈が必要だったのである。
そんな貫禄を持ちつつも、良家のお嬢様らしく、少々おっとりしたところもあるようだ。静代は、夏子と太輔の縁談について、
「あの子が
と、軽く考えていた。
「家出するほど嫌だったなんて。あの子とよく話し合ってみる事にします」
「……それで、なんですが」
保憲は上着のポケットから紙切れを取り出した――矢文の手紙である。
「恐らく、夏子さんは何者かに後を尾けられておりました。その者がこの矢文の送り主かと思いますが、内容にお心当たりはおありですか?」
前橋の御曹司とおまえは、結婚してはならない
おぞましき呪いが、おまえの人生を滅茶苦茶にするだろう
その文言を小声で音読した静代は、ブルッと身を震わせた。
「ございません。まさか、夏子と太輔さんの縁談に反対する人がいるなんて」
「村の方々も、お二人の縁談には好意的なのですか」
「ええ。……お恥ずかしい話ですけど、夫・聡と義兄・滋はとても不仲で、このままでは半製糸工業の行く末は危ない、と言われております。ですが、太輔さんと夏子が結婚してくれれば、ふたつの家がひとつになる訳ですから、丸く収まると。村の人のほとんどが養蚕に関わっていますから、皆様喜んでくれております」
「なるほど……」
保憲は難しい顔をして腕組みをした。
「筆跡に心当たりは?」
いすゞの質問にも、静代は首を傾げた。
「さぁ……」
「筆跡などどうにでもなる。本当に字を書き慣れない者が書いたのかもしれないが、利き手でない方の手で無理に書いたとも考えられる」
「それはそうね……」
しかも、薄い墨で滲みが酷い。字の細かい部分などは、隙間が潰れてしまっているほどだ。
保憲はしばらく物思いに
「弓道のできる者は、村におりますか? それも、かなりの腕の」
「弓道、ですか」
保憲は気付いていた――あの矢文は、床柱を狙い撃ちしていたと。
当然、夏子に当たるのは避けなければならないが、夏子にさえ当たらなければ、どこに当たっても良かったはずなのだ。
だが、矢は床柱に真っ直ぐ突き立っていた。床柱は
するとなぜ、床柱という困難な的を狙ったのか。そう犯人の立場になって考えてみると、思い当る動機はふたつ。
ひとつ目は、一種の演出。どうせなら、絵面が印象的な方が良い。
ふたつ目は、己の弓の腕の誇示。上級者ならば、それなりの成果を見せたいと、無意識に考えたのだろう。
当然、保憲は矢の刺さった方向から、弓が射られた場所を特定していた。
あの茶室は、土御門邸の裏手に当たる竹林の脇に、竹垣と枯山水を挟んで建っている。普段はあまり使わないため、夏子を迎えるとあって、使用人たちが窓を開けて換気をし、軽く掃除をした――そのため、窓は開け放たれていた。
枯山水に面した窓は、竹藪からは丸見えだ。昼間も薄暗い竹藪に普段
そして、竹垣の高さがこれまたちょうど大人の肩ほどで、それを支えに的を絞れば、安定して弓を射る事ができただろう。
そこまで分かっておきながら、枯葉の積もった竹林に足跡は残っておらず、少々古ぼけた竹垣は元々あちこち欠けており、弓を射った痕跡は発見できなかった。
ただひとつ、犯人が残したと思われる手掛かりは、先述した「相当な腕の弓の使い手である」という事だけだった。
静代は少し思いを巡らせていたが、やがてハッと表情を強張らせた。そして一瞬、まるで汚らわしいものでも見るような目をしたのを、保憲は見逃さなかった。
「……村に、猟師をしている者がおります。猟銃も使いますが、家が貧しいため弾が
「その人の名前は?」
すると静代は再び、汚らわしいものを見るように眉根を寄せる。
「
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