7 憧憬




 井戸の前できょろきょろと頭を左右に回すガレ。

 何かを探している様子の彼女の隣にローリーが並ぶ。


「どうかしたの?」

「フィリーはどこかなって思って」


 ガレはローリーを見やり、また視線をあちこちへと向ける。


「フィリーならもう区域に行ってるはずだよ」


 ローリーはガレの背中を押して井戸に並ばせようとした。ガレは彼の誘導に従って列へ足を向ける。


「もう? 最近フィリーは仕事に行くのが早いんだね」


 ガレは目を丸くして感心したように呟いた。


「ねぇ。なんだか仕事熱心すぎて心配になっちゃうくらいだよ」


 ローリーもガレに同意し、監獄のある方向へ顔を向けた。

 恐らくフィリリアは、今日も誰よりも先に仕事場に辿り着いている。


 ネーベルが六時の区域に現れてから数か月が経っていた。

 聖水を撒くフィリリアは、まだ彼がこちらに来ないことを確認するように顔を上げる。彼もフィリリアがどのくらいに区域に来るのかとっくに把握しているようだ。今日もまた似た時間に姿を現すだろう。

 フィリリアは霧が立ち込める地面を見下ろし手を止める。ここ一か月の間はガレやローリーと顔を合わせることもなく仕事場に来ることが普通になっていた。

 黒の大木の根元に腰を下ろし、フィリリアはバケツを隣に置く。

 彼が現れる前に仕事を終わらせることが最近の彼女の密かな目標だった。

 仕事をしながらよりも、しっかり終わらせてから彼の話を聞く方がずっと楽しめることに気がついたからだ。


 身体に寄せた膝を抱え、フィリリアは頭を傾け腕に乗せる。

 瞳に映るのは自らが補強した真白の世界。

 外側から微かに差し込む光が反射し、細かな水滴の澱んだきらめきが彼女の瞳に入り込む。

 しばらく光を見つめていると、静寂を遮る音が聞こえてくる。彼女の耳はその音に反応してぴくりと動く。耳の振動に導かれ、彼女の唇の端も微かに横に開いていった。


「フィリー。お疲れ様」


 ネーベルが彼女の影を見つけて立ち止まる。片手を上げ、自分はここにいるよと彼女に伝えた。

 フィリリアはもたれていた頭を起こして曲げた膝を下へとおろす。


「今日も待っててくれたの?」


 ネーベルはいつも座っている丸太に腰を掛け、嬉しそうに尋ねてきた。


「仕事が早く終わって館に戻ってもやることはないの。それに、ネーベルが今日こそは来ないんじゃないかって気になって。もしあなたが来ないのなら、それは看守に報告しないと」


 彼との会話の時間がすっかり日常となったフィリリアの話す言葉はいつの間にか砕けていた。彼女自身もいつからそうなったのか覚えていない。無意識のうちに、彼に褒められる時に感じた照れにも慣れてきた。ネーベルはそのことを少し寂しがるが、フィリリアは残念そうにする彼に対し、してやったり、と内心は愉しんでいた。


「看守には報告しなくたって分かるんじゃないの? 俺がこの中でくたばったって」

「そんなことない。魔術師だからといってみんなが全能の神ではないのよ」


 ネーベルが嫌味を込めて笑うので、フィリリアも目を細めて真実を返す。


「だからわたしが、あなたのことを見ているわ。霧の中、何日も放置されるなんてあまりにも悲惨だから」

「フィリーの親切心には感謝しないと罰が当たるかな?」

「ふふふ。牢獄は罰ではないの?」

「それは禁句だ、フィリー」


 ネーベルは身体を仰け反らせて軽快に笑った。彼と話すのはとりとめもない話題ばかり。フィリリアが彼の罪について言及しても、彼は嫌な声など一つも出さずに軽やかな返答をする。彼は監獄に収容されたことに対して不平不満を語らない。例え彼の犯した罪がこの場に相応しくないとしても。

 意地悪を言ったことを責めもしない彼に、フィリリアはふと疑問を口にする。


「ネーベル。あなたはここに収監されたこと、恨めしくは思わないの?」


 フィリリアの問いに、ネーベルは笑い声を止めて肩の力を抜く。


「そうだなぁ。恨みがあるかないか、どちらかと訊かれれば間違いなく"ある"と頷くだろう。だけどそんな恨みは意味がない。俺たちは魔術師には逆らえないんだ。世の決まりを求め、受け入れたのは俺たちと同じ普通の人間だ。その結果がこれだと言うのなら、俺に反抗する術などない」


 ネーベルは落ち着いた口調で川の流れのようにさらりと言う。

 フィリリアは彼の声に逆らうこともなくじっと彼の影を見つめる。


「それに俺は今やここの英雄だ。そんな存在になれるなんて想像すらしなかった。思いもよらないことが起こる。ここに入ったばかりのころから状況もだいぶ変わった。それが良いか悪いか、最終的な結論を求めてみてもいいとは思う──でも、現状を受け入れることも悪くはないって、俺は考えるようしてるよ」


 太ももの上に置いたフィリリアの両手にぐっと力が入った。彼が嘘をついていないことが分かるから、余計に胸が痛むのだ。


「けれど──ネーベルにはまだ夢があるでしょう?」

「夢?」

「ええ。わたしには分からないことだけれど、人は夢を叶えても、また次の夢を描くものだと聞くから。ネーベルほどの"英雄"ならば、たくさんの夢を描いたはず。ブレスレットを取り戻した彼女の姿を、もう一度見てみたくはない? 旅で出会った人たちと、もう一度言葉を交わしてみたくはないの? あなたには、まだまだたくさんの可能性があったはずだと思うの。夢を叶えられる人なんて限られてる。でもネーベルには、その力があるのだから」

「フィリー……?」


 フィリリアの声が張り詰めた糸の如く微細に震えていることにネーベルは気づく。

 しかしフィリリア本人は気がつかない。制御の利かない感情に心臓の奥から凍えていくようだった。寒さで指先も震え、反対に瞳は熱い。


「ネーベルは確かにブレスレットを強引に奪い返した。それは──立派な罪です。でも、ここに入れられるほどじゃない。あなたも分かっているんでしょう? それでも……でもあなたは、それを受け入れるの? 受け入れてもいいの?」


 ネーベルはまだ何も言わなかった。

 フィリリアの言いたいことはこれで終わりじゃない。彼はそれを理解していたからだ。


「わたし……あなたが憎い。ここにいるべきじゃないのに……何もできないわたしが言うことじゃない。でも……──でも憎いの。夢を不意にしたあなたのことが」


 フィリリアの瞳を霧が撫でる。その拍子に、彼女の瞳を覆っていた雫がぽたりと頬を駆け抜けた。


「夢、か」


 ネーベルが彼女の言葉を繰り返す。フィリリアは濡れた頬を手の甲で拭き、次が流れてこないことを確認してから彼に聞こえないように鼻で息を吸い込んだ。


「まさか次の夢を気にかけてくれる人がここにいるなんて。やっぱり、ここにいる現状を受け入れるのも悪くないってのは正解だって、自分を許してしまうな」

「……ネーベル。違うわ」

「ありがとうフィリー。俺の夢のことを思い出させてくれて。確かに俺にも次の夢がある。でもこれが叶わない夢だとしてもいい。夢見ているだけの今でも心が湧きたつんだ。叶う時が来るのが怖いくらい、夢見るだけで全身に力が漲る。こんなこと、はじめてだよ」


 ネーベルは丸太に両手を乗せて後方へ体重をかける。霧に覆われ微かにしか見えない空に向かって彼は微笑みかけた。


「フィリーも窓から外を見ている時、すべてを忘れるくらい夢中になるだろ? それと同じ。だからもう少し、俺も夢を見ていたい」

「……──うん」


 フィリリアは寝る前に見る光景を思い出し、こくりと頷いた。

 止める暇もなく全身を巡った先刻の衝動。感情に任せてネーベルに無防備な言葉をぶつけてしまったことを反省し、フィリリアは肩をすくめる。


「ごめんなさい。わたし……憎いなんて言って……」

「いいんだ。素直な気持ちは不愉快なんかじゃない」


 ネーベルは体重を背中の後ろにかけたままクスリと笑う。


「せっかく夢を叶えたのに、その後で監獄の英雄で満足してるようじゃ腹も立つさ」


 決して彼女のことを責めはしない。

 フィリリアは彼の気遣いに心苦しさを覚え、思わず首を横に振る。


「違うの。わたしが憎いのは、自分自身なの。あなたに八つ当たりをしただけ」

「フィリーが? フィリーのことを……? どうして?」


 ネーベルはぽかんとした様子で首を傾げた。

 フィリリアは右手の拳を心臓の前に持っていく。どくどくと脈打つのが服の上からでも分かる。フィリリアは瞼を閉じて深呼吸をした。


「前に守り人の話をしたこと、覚えていますか?」

「もちろん。魔力を扱う素質のある人たちが集められてるんだったよね?」


 口を開いたフィリリアは、ネーベルの答えを聞いて瞳を開ける。


「そう。わたしたちは魔術師たちから魔力を分け与えられ、訓練の後ほとんど強制的にダズワルドに留まる。前にも言った通り、それはわたしの誇り。特にわたしは、先祖代々守り人を務めてきた家の末裔なの。先祖さまはみんな魔術師たちからの信頼を得て、右腕として活躍してきた。だからわたしも期待されて、それに応えられるようにって意気込んでいたの」

「フィリーは今や期待以上の存在だろうね」

「ふふ……そうだといいのだけど」


 フィリリアは間髪入れず褒めてくるネーベルの言葉にはにかんだ。


「魔力はね、個人が持つ器がどれほどの力を受け入れられるかで扱える器量が決まるの。そのためにみんな訓練するのだけど……でも、前の区域で体調を崩した守り人のように、器が不安定になって魔力との均衡が取れなくなると風邪をひいてしまうの。正確には風邪ではないんだけど、症状は重い風邪にかかったような状態になるから、みんなそう呼んでいるの」

「へぇ……やっぱり、結構過酷なんだ」

「うん──能力が向上すれば、体調の回復も早くなっていくんだけどね。だけど酷い時にはこの前みたいに外の病院で入院しなくちゃいけない。わたしたち守り人がダズワルド監獄の外に出られるのは、そういう時だけ」


 フィリリアは心臓の鼓動を聞いていた拳を太ももへと戻す。


「そういう時、大事な仲間だから、無事に戻ってくるのか心配になる。でも一方でね、羨んでいるわたしもいるの」

「羨む?」

「そう。そんな自分が嫌になる。でも、どうしてもその感情を止められないの。わたしたちは自我のない頃からずっとここにいる。霧のない世界など知らない。だけど体調を崩せば外の世界を見れる。苦しいだろうけど、きっと、それはとても素晴らしいなって、思ってしまうの」


 フィリリアの声がほのかに光を帯びる。

 ネーベルは彼女の声を逃がさぬように掴めない霧を握りしめた。


「フィリーは外に入院したことないの?」


 ネーベルの問いにフィリリアは彼に見えるようにゆっくりと頷く。


「そっか……」

「うん。わたしの器は特殊なんですって。多分、先祖代々務めてきたから、子孫の適応能力にも有利に働いているのかも。だからわたしは外に出たことがないの。風邪を引くことなんてないから。この先もずっと、それは変わらない。魔力を扱う能力があることが誇らしい。でも、時々思うの。これでは縛られているも同然だって」


 フィリリアは自虐的な声で笑ってみせる。


「──……じゃあ同じだ」


 ネーベルの声は笑っていなかった。冷たい霧を暖かくしてしまうほど朗らかな音程。けれど決して軽んじることはない。


「ふふ。確かに、わたしもこの霧に囚われているのかもしれないわ」


 フィリリアは立ち上がり、霧靄に近づき手を伸ばす。

 霧の塊は彼女の肌を拒むように漂う。するすると滑らかに、彼女の手は霧の中へと入っていった。彼女の肌を纏うものは透明な空気のみ。

 フィリリアは瞬きも忘れて伸ばした手を見つめる。

 霧が逃げていく。これができるのは限られた人間だけ。

 霧払い。

 看守たちが中を調査するときに使う魔術の一つだ。


 フィリリアは慌てて手を引っ込める。

 反対の手で戻した手を包み込んでも、冷たいだけで異常はなさそうだ。

 

「フィリー?」


 突如として黙った彼女を不思議に思い、ネーベルは立ち上がって彼女を呼ぶ。フィリリアは彼の声の方を向く。

 まだ胸騒ぎは治まらない。


「大丈夫……大丈夫よ……」


 フィリリアは小声で自分に言い聞かせてどうにか鼓動を落ち着けようとした。


「なんだか調子が悪そうだ。今日はもう戻った方がいい」


 ネーベルは彼女の影が震えているように見えてそう提案する。


「大丈夫。言った通り、わたしが体調を崩すことはないの」


 フィリリアは彼を心配させないように慌てて否定する。しかし。


「フィリー、何も体調不良は肉体の異常だけじゃない。気持ちがいつもと違うときも、それは無理をすべきじゃないって合図だよ」

「そうなの……?」

「そうだよ、フィリー。心の声を素直に聞いてあげて。そっちを休ませることも大事なんだから」


 ネーベルはフィリリアがきょとんとしていることを察し、くすくすと笑う。


「勤勉さんも大概にな」


 そう言って彼は手を振り去って行く。

 彼の影が見えなくなる。フィリリアは瞬きを繰り返したままその場に留まった。

 彼の助言は彼女にとっては新鮮だった。不意を突かれ、まだ言葉のすべてを飲み込めてはいない。けれど優しく背中を押されているようだった。

 フィリリアはもう一度自分の手のひらを見つめ、柔く握りしめた。


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