霧靄の監獄でわたしは罪人となりましょう
冠つらら
1 霧が分かつ世界
ダズワルド監獄。
大陸の遥か北を行き、東に曲がったところにある深い森の奥にその場所はある。
大罪を犯した者の果てと呼ばれ忌み嫌われるこの地域には、限られた人間しか住むことが赦されない。もっとも、住みたいと望む者がいるのかは疑問だが。
ダズワルド監獄は森の広大な範囲を切り取り造られ、どの監獄よりも厳重な仕掛けが施されていた。これまでの歴史で脱獄できた者は存在しない。数少ない釈放者を除き、受刑者の多くがこの場所に命尽きるまで監禁される。
ある者は寿命を全うし、またある者は病に倒れ、別の者は収容数日で気狂いとなり処分されていく。
肌が合えば天国。一方で本能が拒めば、深い緑の隔壁はただの地獄と化す。
平穏か絶望か。
白の境界を越えた先で待ち受ける選択を彼らは選ぶことなど出来ない。蓋は開けてみなければ分からないということだ。ちらりと手掛かりを知ることが出来れば覚悟はできる。しかし監獄の蓋は常に覆われ、中を覗き込むことなど不可能だった。
ダズワルド監獄はこの世界で唯一、厚い霧の壁に囲まれた要塞だからだ。
世界には二通りの人間がいる。
区別は簡単。能力が使えるか使えないかということだけ。
かつて世界の人間は誰も能力を使うことなど出来なかった。ある意味で平等で、不可思議な恐怖に支配される不安も存在しなかった。けれど時が経ち、世界には別の人間が現れるようになる。
理解しがたい夢物語を次々に現実のものとして、彼らは世界の頂点に立った。
"魔術師"。
能力を持たぬ者は彼らのことをそう呼び始め、崇めはじめたのだ。
魔術師たちは自らの持つ能力を世界のために活用すべきだと、世界政府を樹立し世の中を管理することとなった。
公的機関はすべて彼らが仕切り、世界の仕組みも大きく変えた。
勤勉な彼らのおかげか、混沌とした世界は瞬く間に平和で満たされていった。
ダズワルド監獄もその功績のうちの一つ。
世の極悪人を閉じ込め、永遠の悪夢を彷徨わせる。
森の中は常に霧が立ち込め、受刑者がいる区域は特に深い霧に覆われていた。
受刑者たちは個別の部屋は持たず、木々の間に放置される。一歩先すら怪しい視界の中で、彼らは孤独と蝕む狂気に震えながら日々を過ごす。
精神を侵され自我を失い、人間が人間でなくなるその場所の存在は世界に対する警鐘となった。人々はダズワルド監獄のことを恐れ、自らを戒めるためにこう口にする。
「ダズワルド監獄に行くのなら、自らで心臓を抉る方がマシだ」
*
定刻を告げる鐘が鳴る。
フィリリアはくすんだ橙のバケツを手に取り井戸へと向かう。
住居となる館を出た途端、嗅ぎ慣れた靄の香りが鼻を通った。一日の始まりを実感する瞬間だ。
「フィリー。今日はローリーの代わりに七時から八時も担当するんでしょう?」
バケツを右手にぶら下げたフィリリアに向かって、一人の短髪の少女が声をかけてくる。彼女の名はガレ。常に無邪気な笑顔を貼りつけた彼女を見やり、フィリリアは肩をすくめて肯定する。
「わたしの担当は六時から七時。だから、ついでよ」
淡々とした調子で返すフィリリアの肩にガレは腕を回す。
「そんなこと言って。本当はローリーの不調を恨んでるんじゃないの? 休憩時間が減っちゃうもん。フィリーは仕事の後の一服を何よりも楽しみにしているのに」
「恨むわけない。風邪を引いたんだもの。誰にだって起こりうることでしょう?」
「ふふふ。フィリーを除いては、ね」
ガレはニヤニヤしたまま井戸の前に形成された列に並ぶ。フィリリアも彼女の後ろに続いた。
「どうしてフィリーだけ風邪を引かないのかな? やっぱり、魔力の器が違うのかな?」
「さぁ。わたしには分からないわ。看守長さまに聞いてみたらどう?」
「無理。おっかなくて絶対いや」
フィリリアの提案にガレは舌を出して断固拒否する。
列は軽快に進み、すぐに二人の番が来た。二人は井戸にバケツを下げていく。バケツの重みで短くなった紐を引き、ガレは果てしない白に覆われた井戸の中を覗こうとする。
「これだけの聖水をつくれる人だよ? ばかみたいな質問をしたら、無能だって嫌われて追放されちゃうよ」
身体を折り曲げて井戸を食い入るように見つめるガレ。彼女が落っこちてしまわないように、フィリリアは紐を持たない方の手で彼女の背中を握りしめた。
「じゃあ、仕事に精を出さなきゃね」
持ち上がってきたバケツ二つを地面に下ろし一つをガレに渡す。
フィリリアからバケツを受け取るガレは、ハーイと口角を持ち上げて頷く。
持ち場に向かうため分かれた二人。一人になったフィリリアは、緑の落ち葉をサクサク踏みつけながら森の深くを目指す。微かに顎を上げて空を捉えようとする。しかし前面を漂う薄い霧のせいで、広いはずの空の色を見ることはできなかった。
歩く度に霧が頬を撫で、目的地が近づくほどに彼女の髪の色さえもわからなくなっていく。白の障害は容赦なく濃くなっていき、目を凝らさなければ木々の存在すらも忘れてしまいそうだった。
十五分ほど歩いたところで立ち止まったフィリリアは、バケツに左手を入れ聖水を掬う。目の前に聳え立つ霧の壁。自分がいる側とは比べ物にならないほど濃い霧の向こうを見つめても、彼女の瞳には何も映らない。
掬った聖水を境界線となる地面に撒く。すると彼女が放った聖水は液体から姿を変え点滅しながら雪のように地面へと落ちていった。
フィリリアは同じ動作を繰り返しながら境界線に沿って少しずつ歩いていく。
さらさらと落ちていく水の粉。フィリリアはただその輝きを目に映して黙々と作業を続けた。
しばらくの間止まることなく動きつづけていたフィリリアは、一本の黒い大木を目にしてぴたりと動きを止める。
本来ならば彼女の担当はここまで。しかし今日は同僚のローリーがいない。フィリリアはバケツにちらりと目を向け、軽く深呼吸をして黒の大木を通り過ぎる。
ここから先はこれまで彼女が担当したことのない領域だった。
とはいえ、やることと言えば先ほどまでと同じ。境界線に向かって聖水を撒き、霧の幕を強化することだ。
いつもより多めに汲んだ聖水の配分に気を付けながら、フィリリアは無言で境界を補強し続ける。
数時間作業を続けていると、思考は辺りを包む霧と同じように鈍っていく。何も考えることなく頭を空っぽにするのが作業に集中できていい。それがフィリリアが見つけた仕事の秘訣だった。
今、この場所にいるのは自分一人。霧のせいか少し肌寒いけれど、常套を羽織ればなんてことはない。
じきに八時の点が見える。仕事の終わりが近づく気配を感じ、空っぽだったフィリリアの頭に言葉が浮かびかけた。だが。
「ねぇ」
聞こえるはずのない他人の声が頭の中に響き、彼女は思わず手を止める。前傾姿勢になっていた身体を起こし、きょろきょろと辺りを見回す。
確かに今、声がした。頭の中の幻聴か。はたまた現実世界の囁きか。
フィリリアは不安を浮かべた眼差しでバケツの持ち手をぎゅっと握りしめる。
「こっち。ねぇ、もしかして、ちゃんと聞こえてる?」
再び声がした。先ほどと同じ声。中低音の男の声だ。
「ど、どなた……?」
フィリリアは姿の見えない聞き慣れない声に肩をすぼめて恐る恐る返事をしてみた。バケツに残った聖水はあと僅か。フィリリアは聖水を失くさぬようにバケツを自分の身体に引き寄せる。
「いつもの人と違うね。あの人には、俺の声は聞こえてなかったみたいだけど」
立ち込める霧の向こうを見やり、フィリリアは懸命に目を凝らす。すると、おぼろげに人の影が霧靄の中に現れた。少しずつ近づいているようだ。一度強く瞬きをすればその影が男のものだということはなんとなく掴める。自分よりも背が高く、均整の整った体躯の人影。
「今日は、彼の代理をしているのです」
あの人、とは恐らくローリーのことだ。ピンときたフィリリアは事実を述べる。
「そっか。君も、ここの看守なの?」
彼の言葉にどきりと胸が縮こまる。
境界線の向こう側。果てしない霧の中にいるということは、彼は紛れもなく受刑者だ。何らかの罪を犯し、罪人としてここに閉じ込められたはず。
遠くにいたはずの彼の影が、先ほどよりも大きくなっていることに気づく。
フィリリアは慌てて声を上げる。
「あまり境界線に近づいてはいけません。仕切り際は酸素が極端に薄くなっているので、命の危険があります」
彼女の警告を聞いた彼の動きがぴたりと止まる。
「命の、危険──?」
フィリリアの言葉を繰り返した彼は、ぼんやりとした声をこぼして一度口を閉じた。フィリリアはこくこくと同意するように頷く。
「はははははっ。命の危険ねぇ。まさか、看守からそんな注意をしてもらえるなんて思わなかったよ。俺たちに命を大事にしろって言っても、どうしようもないってのに」
次に口を開いた彼は、けらけらと軽やかに笑っていた。フィリリアは彼の笑い声の意味が分からずにきょとんと視界の中央にある影を見やる。
「わたし、看守ではありません」
何故彼が自分のことを看守だと思ったのか。本来の看守のことを知っている彼女はそれが不思議で首を傾げた。
ここ、ダズワルド監獄の看守は魔力を持った人間にしか務めることが出来ない。そんな気高き人々と自分が間違えられるなんてあまりにも横暴なことだ。
フィリリアは眉をひそめた。
「へぇ。じゃあ、君はなんなの?」
「わたしは境界線の守り人です。囚人たちを捕らえる霧の力が衰えぬよう、日々管理をしているのです。だから、看守ではありません」
「守り人か。なんかかっこいい名前だけど、俺にしてみりゃ君たちに閉じ込められているようなものってことか」
「──それが、仕事ですので」
「ははっ。責めてないよ。仕事は大事だ」
フィリリアは眉間に皺を寄せたまま怪訝な眼差しで彼の影を見つめる。
「それで? 今日は代理だって言ってたよね。普段は違う場所を担当してるの?」
しかし彼にフィリリアの顔が見えているわけもなく。彼は構わず会話を続けた。
「はい。隣の、六時から七時を……」
そこまで言って、フィリリアはハッと口を閉じる。囚人に話すようなことではない。気を引き締め、彼女は背筋を伸ばして威勢をはる。
「俺がいるのは七時の区域だって聞いたことがあるな。なるほど。じゃあ、君と会ったことがないはずだ」
ダズワルド監獄は大きな円形の中に囚人を収容しているため、各区域を時計に見立てて区切っていた。別の区域に立ち入ることは不可能ではないが、自分がどこにいるのかもわからない視界の中、別区域へ向かうことは困難。おまけにそれぞれの区域もたっぷりと面積を有している。ちょっとした冒険心で小旅行を試みても、数時間で心が折れることだろう。
「じゃあ、明日はもう君には会えないのか。せっかく会話の相手を見つけたのに」
彼はつまらなさそうな声を出して近くの木に寄りかかった。
「──わたしでなくとも、会話はできるはずです。囚われているのはあなただけではありませんから」
「そう? そのわりに、いつもの守り人は声をかけても聞こえてないみたいだったよ? 俺の声なんか届いてなさそうだった」
「いいえ。聞こえているはずです。ただ、無視をしているだけです」
「そいつは酷い話だな」
「囚人と話したい守り人なんて、きっと、いないですから」
実際、囚人と守り人が言葉を交わす前例など聞いたことがない。
囚人は境界線近くに寄ることがほとんどなく、例え迷い込んだとしても大体が口もきけないほどに弱っているからだ。守り人は罪人をとりとめもない泡沫の存在だと認識し、干渉する気になどならない。
双方がそれでは、会話が成立することなどあり得なかったからだ。
「じゃあ、どうして君は俺と話してくれるの?」
当然の疑問を彼は尋ねる。フィリリアも同じ問いを自らにしていたところだった。
「──分かりません……ただ──」
フィリリアはバケツを握りしめていた手を緩め、怖れを声に乗せる。
「あなたの声が、霧を抜けて聞こえてきたから」
フィリリアの瞳は揺れていた。
自分でもよくは分からなかった。鼓動がどくどくと地鳴りのように全身に響き、思わずバケツを落としそうになってしまう。
「──俺の名前はネーベル。気が向いたら、また代理にきてよ」
彼の顔は見えない。
けれど彼の表情が見えたような気がした。
きっと彼は、霧の向こうで笑っている。
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