第11話アンフェアレイン

 帰り道の立体横断施設に繋がるビル群に設置された液晶モニターが突然切り替わる。雑音や騒音と化していた、新作DVDの宣伝や天気予報、近くのホストクラブの総選挙の情報をいつも映し出していたそれが緊迫感を帯びたリポーター、アナウンサーのものへと変わった。火災だった。大きな建物のようで、ヘリコプターからの中継だ。見覚えのある場所。それどころかさっきいた場所だ。

「嘘…」

 モニターを見上げて、無意識に現実と可能性を否定する言葉が口をつく。脳内が、初音の手を引くまどか、片岡と笑い合うまどかで埋まっていく。さきほどまで歩いていた道を戻っていることに気付く。走っている。都合の良い妄想と可能性が脳内を占めてけれど同時に焦りが増すばかりだ。視界を煩わしくモンシロチョウが飛び回る。モンシロチョウが飛び回っていて不思議な季節ではないが、目障りだ。視界に纏わりついて舞い踊る能天気なモンシロチョウを追い払う。いつの日か見たヘリコプターのようだ。そう思っている間に本物のヘリコプターが飛び回っているのがここ最近よく通る橋の上から見えた。黒煙が立ち上っている。最上階付近の階の出火なのだろうか。そこからの煙が特にひどい。久し振りの運動に脚の付け根と横腹が痛む。手入れが行き届いた生垣や花壇、遊具が見え、すでにまどかを預けたマンションの前には野次馬とマスコミ、それから帰宅するつもりだったらしい住民で溢れ返り、ごった返し、大混雑だ。十数台の救急車や消防車が停まっているな場所には沢山の避難してきたと思われる住民がハンカチを口に当てたりなどしながら処置を受けている。

「まどかちゃん!」

 ひとりひとりの顔を見る。まどかの名を叫ぶが反応はない。まどかは片岡と初音しか分からないかもしれない。けれど関係はなかった。まどかへ向けた片岡の笑顔だけしか思い浮かばない。

 あぁそういうことか。マンションを見上げて腑に落ちる、ここで死ぬのだと。ここが死地なのだ。用意されていたのかもしれない。片岡の顔が脳にこびりついて離れない。遺していく片割れだから。助けたつもりで助けられなかった片割れだから。

 視界の端を飛び回るモンシロチョウが背後から抜いて、避難している住民たちの流れに逆らっていく。それを追った。すでに中にいる消防士の制止を振り払う。伸ばされた腕も振り払う。モンシロチョウに先導されるように駆け抜けていく。長い階段を延々と回る。脚の疲れも息切れも気にならなかった。契約の通り、死ぬように、何かに憑りつかれているのかもしれないとすら思った。階数を確認しながら進んでいく。

 静寂に包まれた廊下を覗けばまだ最上階付近にも遠いが白煙が充満している。生きて帰れないことはよく分かった。自ら死地に赴く必要なんてないけれど。

「お姉さん!」

 幻聴であってほしい声は本物で。片岡が背後にいる。スプリンクラーの雨の中を潜りながら。

「何してるの!出ていきなさい!」

「貴方こそ!何してるんですか?」

 怒鳴る表情と声。初めて知る、低い声。

「まどかが見つからないんです。何かあった時は、事情説明とか、よろしくお願いします」

 低い声のまま片岡は頭を下げる。片岡は反対側の方角の非常階段へと走っていく。

「待ちなさい!」

 声を荒げれば消防士の声がする。あまり人を巻き込みたくない。誰かを危険な目に遭わせてしまう。片岡を追った。

 まどかが居るはずの階数まではもう少しだ。脚の感覚はもうなかった。喉はカラカラで、酸素は薄い。白煙が段々色を帯びている。まどかが居るだろう階の廊下はすでに火の海だった。躊躇いもなく片岡は煙の中、すでに奥は炎に包まれた廊下を突っ切っていく。まどかを預けた部屋は閉じられている。片岡が熱されたノブに触れて、反射的にノブから手を放す。片岡を突き飛ばし、服を通してノブに触れる。息を止めてノブを掴む。掌が焼ける。涙が溢れた。身体は生きたがっている。放したがっている。手が震えて、痺れていく。

「まどか!」

 黒煙が目に染みる。室内にまどかとまどかの友人とその母親が片隅で3人で小さくなっている。上の階で轟音がする。間もなく爆発音とガラスの割れる音がした。片岡が3人を立ち上がらせながら逃げる準備をしている間、開けられたままの窓を閉める。

「まどか、走れる?」

 ハンカチを口元に当てるよう促しながらまどかを背負う。混乱しているまどかの友人の母親は娘の手を引きながら片岡に誘導されていた。黒煙で視界は最悪だ。すぐに部屋を出るけれど、炎の濁流がすぐ傍にまで迫っているような気がした。

「助けて!」

 知らない誰かの声がする。奥の部屋だ。すでに炎の海の中である。片岡が足を止めてしまう。振り返ってしまう。狼狽えている。

「先に行って。後から行くから」

 すでに素人がどうこうできる範囲ではない。分かっているけれど。迷惑過ぎるほどの迷惑を掛ける。それも分かっていた。

「でもお姉さッ…!」

「何のためにここまで来たの!」

 片岡は一瞥して下の階へと続く階段へ向かっていく。背中を見つめる暇はない。網膜を灼く鮮やかなオレンジと黒煙。スプリンクラーは文字通り雀の涙そのもの。火災報知器は鳴っているのか止んでいるのかも分からない。聴覚は耳鳴りで閉ざされている。

「どこにいるの」

 喉はカラカラだ。まどかのいた隣の部屋だろう。扉は開いているが中は炎に包まれている。小学生くらいの男の子が紅蓮の中浮かび上がった。

「父さん母さんは」

「はぐっはぐれっちゃ…って…!」

 泣いてはいるが、元気はありそうだ。炎の中で手を伸ばす。身体中を炙られているようだ。少年の汗ばんだ手が繋がれる。腰が抜けて上手く立てないようだ。上の階で爆音と轟音がする。少年の腕を引いて、少年は立ち上がるけれど、突然胸に痛みが走る。

「お姉ちゃんッ!」

 息が突然、出来なくなった。何でも出来そうな気がした、病的な魔法が解けたのかもしれない。

「自分で、行ける…?」

 もう歩けない。動けない。そう思った。少年は頭を振る。エレベーターは封鎖されているのを見たばかりだ。

「行けるよ。ちょっと我慢して。消防士さん、下にいるから」

 喉を押さえながら少年の手を放す。だが行く気配のない少年の背を押した。

「そのまま下に行くだけだから」

 少年は頷いて去っていく。部屋を出ていった直後に廊下の天井の板が落ちた。連なって落ちていく。視界は揺らめいている。喉は痛い。息苦しい。脚も痛い。首を押さえた掌は大きく疼いて痺れている。だが意識だけはしっかりしていた。だから目の前を舞うモンシロチョウが幻覚でないことも分かった。まだ生きていたらしい。黒煙の中を飛び回って、羽根は紅蓮に照っている。生きていられる温度だろうか。生きようとしているのか。逃げ道が分からないのか。死への道が切り開かれた、そんなつもりでいると、片岡の声がする。

「お姉さん!」

 どうして戻ってくるの!怒鳴れるだけの声はもうなかった。すぐ近くで爆音がする。ここもすぐに爆発に巻き込まれる。

「まどかたち、無事です!一緒に逃げましょう!」

 轟音がする。記憶と経験で嫌な予感は的中する。炎の濁流が2人を包んだ。爆風は一瞬だった。廊下と同じようにこの部屋の天井が連なるように剥がれ落ちる。

「お姉さん…」

 身体を包まれている。そして重い。抱きすくめられているようだったが、片岡の体重だけではない。身体を押し潰すことに何の躊躇いもない重さ。汗が止まらない。熱い。喉が渇いた。叫びたい。頬が焦げる。そう思った。

「か…く…」

 空耳だったのだろうか。呼ばれた気がする。答えなければ。けれど声は出なかった。近くで大きな物音がして、炎に包まれた陰が崩れていく。

「か…お…」

 喉が痛い。声は掠れていた。やっと出せたと思った声もやはり音にはならなかった。視界の端に映る腕。皮膚に鮮やかなオレンジが反射している。

「…お…く…」

 身体中の水分という水分を全て失ったつもりでいて、それでも視界は潤っていく。すぐに熱湯になり、眼球が熱い。問いたいことがある。けれど声にならない。そして反応もない。背中に覆いかぶさっているのが片岡だというのは理解出来ている。様々な破片や欠片が頭上に降り注ぐ。揺らめく視界の中、床の上に散乱している。


「まだ、生きてっか」


 燻った視界の中で誰かいる。鮮やかなオレンジと紅蓮、黒の二極化した空間の中では姿がよく見えない。


「別れ、告げに来た」


 知っている相手で同時に全く覚えのない相手。記憶を辿るけれどすでに考えるだけの力はない。


「楽しかったよ」


 一方的な会話は耳を通すだけ。この場にそぐわない感想を述べられるけれど、何の情も湧かない。


「あんま難しいコト、考えんな」


 誰かがいた。記憶の片隅に、とても近い人だったはずだ。

「あなた…だ…れ…」

 揺らめく炎の中で誰かがいる。けれど陰しか見えない。だのに笑ったとはっきり分かった。一瞬光って、真っ暗になる。





「アンタの特別」

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