第17話 正直な気持ち



 ◇◇◇

 

 

 朝晩の冷え込みがいっそう厳しくなり、吐き出す息が白くなりはじめる。

 梛七は、秋らしい風景を一度も見られないまま、師走を迎えようとしていた。

 

 退院を来週に控えていた梛七は、すっかり歩けるようになり、日常生活を送れるまでに回復した。

 

 「ななちゃん、いよいよ退院ね。私、寂しいわー。来週からどうしよ〜」

 

 看護師の平(たいら)が、体温計を渡しながら、別れの寂しさを訴えてくる。

 

 「ははっ。大変お世話になりました。平さんに出会えて本当によかったです!あ、歯に違和感を感じられたら、いつでもいらしてくださいね」

 

 「そうだった!ななちゃん、歯科衛生士さんだもんね。あのイケメンの先生だっけ?ナースステーションで話題になったのよ〜。イケメンがななちゃんの部屋に入っていったって」

 

 五十嵐は結局、あれから一度も見舞いに来ることはなかった。梛七のいない間もクリニックは相変わらず忙しく、面会時間に間に合わないという理由だった。きっと他にも会えない理由があるのだと、梛七は察していたが、あえて詮索しなかった。一度しか来ていないのに、話題になるほどの存在感を出す五十嵐は、本当にイケメンなのだろう。そんな人に五年も片思いしているとは、恥ずかしくて平にも言えなかった。

 

 「じゃ、ななちゃん。またお昼に来まーす」

 

 平はそう言って、梛七に手を振りながら、処置台をガラガラと押して、部屋を出ていった。

 

 枕元でiPhoneがブルっと震える。

 画面をタップすると、鈴山からのライン通知が表示された。

 

 鈴山━︎(梛七、退院したら会いたいんだけど。話したいこともあるし。時間作ってくれないか?)

 

 梛七は、約束していた食事の件を思い出し、退院後すぐに会うことを決めた。

 

 (話したいことって何だろ…)

 

 少し気になりながら梛七は、iPhoneをベッドの上に置いたまま、尿意を解放しにトイレへ向かった。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 「はい、おっつー」

 

 「おつかれ」

 

 橘と五十嵐は、行きつけのバーで酒を交わしていた。五十嵐は、天宮の件がひと段落つき、梛七がもうすぐ退院することを橘に報告した。

 

 「いや〜傑、よかったね。色々解決して。もう一時はどうなるかと思ったけど…」

 

 「本当に。色々心配かけて悪かった…。でも、ことの発端は全て俺だ…」

 

 五十嵐は梛七に対して罪悪感を抱いていた。グラスを眺める五十嵐の目が僅かに揺れている。

 

 「傑だけのせいじゃねーよ。お前はちゃんと、解決したじゃねーか。もう、過去のことは変えられねーから、これからどうするか考えよーぜ。傑は、ななちゃんを守っていきたいんだろ?」

 

 「まぁ…。俺はそうしたいけど、あいつが俺を選ぶかは分かんねー」

 

 「何それ?どういうこと?」

 

 五十嵐は、梛七に好意を持つ鈴山の存在を教えた。梛七の入院中にクリニックに来たこと、花火の日に、梛七が鈴山に連絡先を教えていたところを偶然、目撃してしまったことも伝えた。

 

 「だからだったのか〜。やるね〜その子。でもな、傑。あの日、お前が嘘ついて帰っちまった後、ななちゃん泣いてたんだぜ。ななちゃんは、お前のことが好きなんだって本当は」

 

 「そうだったのか…」

 

 「だからさ、早く伝えろって」

 

 五十嵐は、勢いよくウィスキーを口に含んだ。珍しく口を開く五十嵐に、橘も自分の話をする。

 

 「俺もさ、傑に報告があんだよ。実は、梢子ちゃんと付き合うことにしたんだ」

 

 「マヂか?よかったじゃねーか」

 

 五十嵐は、微笑んだ顔で二杯目のウィスキーに口をつける。橘は嬉しそうに傑の肩を叩く。

 

 「次は、傑の番だぞ!」

 

 「分かった、分かった。あいつが復帰して落ち着いたら、飯でも誘ってみるよ」

 

 五十嵐はそう言って、梛七への気持ちを再確認した。その後、橘は五十嵐よりも先に彼女ができたことを自慢げに話し、いたずらのようにマウントを取っていた。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 退院した数日後、梛七は、一駅離れたイタリアンレストランで、鈴山と待ち合わせをしていた。

 

 「梛七、ごめ〜ん。お待たせ」

 

 「大丈夫だよ。じゃ、入ろっか」

 

 二人は、お洒落な店内を進み、カラフルなステンドグラスがゆらりと揺れる四人掛けのテーブルに、腰を掛けた。向かい合って座った梛七たちは、メニュー表を開き、それぞれ食べたい物を注文した。

 

 「大変だったな〜。体調どう?もう平気?」

 

 「あぁ。うん。もうすっかり元気!来週の月曜日から仕事復帰するんだけど、身体がだいぶなまっちゃって。ちゃんと仕事できるか心配」

 

 梛七は笑いながら、テーブルの上にあったエプロンを広げる。頼んでいたドリンクが置かれ、梛七と鈴山は『乾杯』と言ってグラスを重ねた。

 

 「いや〜梛七が生きててくれて本当良かった。俺、超〜心配したんだからね。突然、連絡取れなくなるし、マヂ焦ったよ〜」

 

 「ごめん、ごめん。本当にごめん。ありがとう心配してくれて。まぁ、相手も捕まったことだし、もうこんなことないと思うから〜」

 

 「相手はやっぱ、五十嵐先生のファンの人だったの?」

 

 「うん…。まぁ、そんなところ」

 

 鈴山は「ふぅ〜ん」と言って、店員から頼んでいたカプレーゼを受け取る。「あ、食べて」と言って、鈴山はトマトとモッツァレラチーズを梛七に差し出す。

 

 「ねぇ。五十嵐先生とどういう関係なの?」

 

 「えっ?ただの上司と部下だよ。特に何ってワケでは…」

 

 「じゃ、付き合ってたりはしてないんだ」

 

 「う、うん。もちろん。あんなカッコいい人と私が付き合えるワケないじゃん、あははは…」

 

 届いた、プリモピアットたちが並ぶ。梛七は、マルゲリータを取り皿に乗せて、先っぽを折り畳んで口に含んだ。

 

 「ま、確かにすげーカッコいいとは思う、容姿は。でも、大事なものを守れるような人じゃないと思う…」

 

 「どうしてそう思うの?」

 

 「ん?何となく…」

 

 「でも、優しいとこはあるよ」

 

 「優しいだけじゃダメだろ…」

 

 鈴山は、ひき肉のボロネーゼを口に含みながら、少し眉をひそめる。梛七は鈴山が何故、五十嵐をそんな風に見るのか分からなかった。

 

 「そうだ。実は俺、来月中国に帰ることになったんだ」

 

 「え?そうなの?早くない?」

 

 「まぁ、今は一時帰国だから、そんなもんちゃ、そんなもんなんだけど」

 

 「そうかぁ…。またしばらく海外生活なんだね」

 

 梛七は、取り分けられていたボロネーゼをフォークに巻き付ける。鈴山は持っていたフォークを置いて梛七を見つめた。

 

 「一緒に来ないか?中国に」

 

 「えっ?一緒に…?」

 

 「そう。俺と結婚するつもりで、向こうで一緒に住まないか?」

 

 「ちょ、ちょっと待って…」

 

 梛七の言葉を遮るように、鈴山は続ける。

 

 「今、ここで返事はいらないから、少し考えてみて。梛七のキャリアは続かないかもしれないけど…でも、人並み以上の生活は保証する。俺は、梛七を守りたいんだ…」

 

 「……」

 

 「今日は、梛七とゆっくり食事したいから、この話はもう終わり。デザート食べる?俺、どうしよっかな〜」

 

 鈴山は、メニューを見ながら話を上手く切り上げる。梛七は、動揺を落ち着かせようとティラミスを頼んだ。

 

 

 食事を終えた鈴山と駅で別れ、梛七はタクシーで家まで帰った。久しぶりの外食に身体がついていかず、家に着いた梛七は勢いよくソファーに突っ伏した。

 

 「いててて…」

 

 いつもの癖で、思わずお腹に衝撃を与えてしまった梛七は、お腹を抑えて痛みに耐えた。

 

 仰向けになり、部屋の照明をぼんやりと眺める。

 鈴山から言われたプロポーズとも呼べる告白に、梛七は心が痛んだ。本来なら嬉しいはずの言葉なのに、それに応えられない自分がいることに罪悪感を抱く。

 

 梛七は、いつ鈴山に話そうか悩み始め、壁にかけてあったカレンダーを見上げる。

 端っこに"クリスマスまでに五十嵐先生に想いを伝える"と書いてあった文字が見え、タイムリミットが迫っていることを実感する。

 

 (あー、もー、本当どうしよう…)

 

 梛七はソファーの上で、足をばたつかせながら、五十嵐へのどうしようもない気持ちをあらわにした。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 週明け月曜日。

 梛七は、約三ヶ月ぶりに職場へ復帰した。

 

 「おはようございます」

 

 『おかえりなさーい』

 

 スタッフ通用口を開けると、スタッフ全員が笑顔で出迎えくれた。梛七は涙を浮かべ、「ただいまです」と言いながら藤原たちと抱き合った。

 

 「今日もみんな頼むぞ。脇田は無理しなくていいから、辛かったらすぐ言え。みんな、脇田のフォローも頼むな」

 

 『はい』

 

 五十嵐はそう言い残して、着替えをしに院長室に入っていった。梛七は、スタッフたちに連れられ、着替えを始める。鏡に映るクズラブ姿を見て、ちゃんと戻ってこられたのだと梛七は実感する。

 

 診療が始まり、たくさんの患者から気遣いの言葉をかけてもらう。梛七の復帰を嗅ぎつけて、花を持ってくる患者までいた。

 朝イチで総入れ歯の調整に来た河本さんが、ピンク色の義歯床部分を削っている五十嵐に、横から話しかける。

 

 「にゃにゃちゃんがおりゃんと、あきゃんのわってー。にぁ?いぎゃらしせんせー」

 

 「ちょっと何て言ってるか聞こえなかったっすけど、そうっすね〜」

 

 「聞きょえとるやりょ〜ぎゃはははははは」

 

 「はい。しっかり聞こえてますよ〜」

 

 総入れ歯の患者は、入れ歯を取り外すと話し方がぎこちなくなる。河本さんは勝先生の頃から通っている患者で、こうした軽い冗談をいつも五十嵐と言い合っている。隣に居た梛七は、うんうん、と頷きながら五十嵐の削った義歯床のカスを拾っていた。

 

 

 午前の診療が始まって二時間が経過した頃、本調子ではない梛七は、疲れを感じ始めていた。五十嵐は、バキュームを握る梛七の左手が震えていることに気付く。

 

 「大丈夫か?俺の部屋で横になってていいぞ」

 

 「いえ…そんな。申し訳ないです」

 

 「無理すんな。橋口、脇田と代わってくれ。南、脇田を俺の部屋まで連れてってやってくれ」

 

 梛七は言われるがまま、近くにいた橋口と交代し、南に支えられながら院長室へ向かう。

 

 「わっきー大丈夫?無理しないで。ゆっくり休んでて。あ、今ブランケット持ってくるから」

 

 ごめんね、と言って梛七は、一つにまとめていた髪を下ろし、院長室にあったソファーで横になった。数時間しか立っていないのに、何故か全身が痺れていた。

 

 (普通に働けると思ったのになぁ…)

 

 南からブランケットを受け取り、梛七は薬を飲んで少し仮眠をとった。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 ふっと目が覚めると、食べ物の匂いが鼻腔の奥をくすぐった。匂いのする方に顔を向けると、五十嵐が目の前で昼食を取っていた。

 

 「おっ。起きたか?」

 

 「すみません…。私、すっかり寝てました…」

 

 「大丈夫か?あ、飯ここにあるぞ」

 

 梛七はゆっくり起き上がると、目の前のテーブルの上に、昼食のお弁当と風鈴堂のプリンが置いてあった。

 

 「わっ!風鈴堂のプリン!」

 

 「お前が好きだって聞いたから、昨日買ってきた」

 

 梛七は五十嵐の方を向いて目を細める。五十嵐の小さなサプライズに、梛七は頬を赤らめた。

 

 「いらねーんなら、俺が食うぞ」

 

 「ダメです!絶対ダメです!これは私のなんで」

 

 梛七は、プリンの上に手を置いて必死に防護する。ははっ冗談だ、と五十嵐は笑いながらお茶を啜った。

 

 「色々、悪かったな…。俺のせいで」

 

 「謝らないでください。先生は何も悪くないですよ。むしろ、色々と動いてくださってありがとうございました」

 

 梛七は素直に礼を言い、お弁当の蓋を開けて箸を動かす。


 「あ、そういえば、先生知ってます?梢子と橘先生、付き合ったって」

 

 「あぁ。少し前に橘から聞いた。あいつに、すげー自慢されたんだよ。俺の方が先に彼女できた〜って」

 

 「ははっ。橘先生っぽいですね」

 

 「俺は別に競ってたわけじゃねーんだけどなー」

 

 梛七は、梢子がお見舞いに来てくれた時に、二人が付き合い始めたことを知った。あまりの早さに驚いたが、幸せそうに報告してくる梢子が微笑ましかった。

 

 「まぁ、梢子ちゃんと仲良くやるだろ。…そんなお前はどうなんだ?」

 

 「わ、私ですか?特に何もないですよ〜。…先生こそ、どうなんですか…?」

 

 「俺?俺は何も…」

 

 ブー。ブー。ブー。

 会話の途中で、五十嵐のiPhoneが震え始める。

 

 「はい。五十嵐です。あ、お世話になります━︎━︎━︎━︎」

 

 梛七は、ポケットから真四角の付箋を取り出し「プリン、ごちそうさまでした、美味しかったです!ここ全部片付けますね」と書いて、電話をしている五十嵐にそっと渡す。梛七は、五十嵐に頭を下げながら、おぼんを持って静かに部屋を出ていく。

 

 梛七はおぼんを抱えたまま立ち止まり、大きな窓越しから映る明るい午後の陽射しを眺める。

 

(翔太のことが終わったら、先生に告白しよう…)

 

 決心を胸に灯して、梛七は一歩を踏み出した。

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