第7話 女子会


 家に着いた五十嵐は、着ていたチェスターコートからiPhoneを取り出し、画面を下に向けたままリビングの机に置いた。荷解きよりも先に浴室へ向かい、シャワーを浴びた。

 

 風呂から出た五十嵐は、キャリーケースを開けて、使用済みの服や下着、梛七とお揃いのインナーを洗濯機に入れ、出来上がるまでリビングのソファーに腰を下ろした。

 机の上に置いておいたiPhoneを手に取り、画面をタップすると、登録されていない番号から、天宮恭子(あまみやきょうこ)の名が入ったSMSメッセージが表示された。

 はぁ…、と思わず嫌な溜め息が漏れる…。

 五十嵐は、ソファーにiPhoneを軽く投げ捨て、冷蔵庫で冷えていた缶ビールを勢いよく煽った。

 


 ◇◇◇

 


 「林さーん。お待たせしました。こちらどうぞ〜」


 五十嵐の治療開始の合図と共に、予約患者の名前が呼ばれる。クリニックでは、翌日も相変わらずの忙しさで、朝から待合室はいっぱいになっていた。


 「伊東先生、木曜日はありがとな」


 「いえいえ、お疲れさまでした。どぉ〜でしたか〜学会。また聞かせてくださいよぉ〜。あ、ここは全然大丈夫だったんで!」


 五十嵐は、歯科用グローブをはめながら、隣で手を洗う伊東に礼を伝えた。伊東は、特に変わったことは何もなかったっす、と付け加え、患者のいる4番チェアーへ向かう。五十嵐は患者の林さんの所に行き、林さんと会話をしながら入れ歯のフック調整を始めた。

 

 慌ただしく過ぎていった午前の診療が終わり、出勤スタッフが昼休憩で和んでいる頃、半休を取っていた梛七が出勤してきた。


 「あ、わっきー先輩だー、おはようございます」


 『おはようございま〜す』


 「皆さん、おはようございます〜。これ、静岡のお土産です。皆さんでどうぞ〜。私はちょっと着替えてきます」


 静岡のお土産をスタッフルームの机に置き、梛七は女子用更衣室に入った。五十嵐に買ってもらったインナーに着替え、今日はピンクベージュのスクラブを重ねた。新品を着る嬉しさよりも、さり気なく五十嵐とお揃いであることが、何よりも梛七の心を躍らせた。

 

 しかし、そんな気持ちでいられたのは、ほんの数分だけだった。昼休憩が終わり、フロアーに出てきた五十嵐を見るなり、現場の空気が少しずつピリつき始めていく。

 

 今日の午後からは、少し複雑な第三大臼歯(親知らず)の抜歯があり、口腔外科医でもある五十嵐が担当することになっていた。智歯周囲炎(ちししゅういえん=親知らずの周りにある歯肉の炎症)が酷く、早急に抜歯をすることが決まった患者だった。


 「脇田、術前の抗菌薬と術後の鎮痛薬、それぞれ準備しといてくれ。止血剤は念のため多めに頼む。あと、麻酔針は33。表面麻酔も忘れずに。メスは#15で、L時の筋鈎(きんこう)も二つ予備で置いといてくれ」


 「はい。わかりました」


 五十嵐は、普段よりもピリっとした口調で梛七に指示をした。梛七は、滅多に使わないオペ用の棚に入った麻酔と薬品、術用器具をいくつか取り出し、移動式の器具台に並べていった。


 「貴重な機会だから見てみて」


 助手の林と橋口を誘い、梛七は使用する術用器具や薬品の種類を一つ一つ説明していく。梛七が説明をしている最中に、このあと五十嵐の助手として横につく伊東が、声をかけてきた。


 「いいねぇ〜先輩とお勉強会。あ、わっきー、術中は念の為、僕たちの後ろにいてね。追加で出してもらうものがあるかもしれないから」


 「はい。わかりました」


 「邪魔してごめんね〜」と言いながら、オペ患者のX線写真の画面を見に行った伊東。いつも陽気である伊東も、どこか緊張した面持ちだった。

 

 患者の名前が呼ばれ、術前の抗菌薬を飲んでもらい、第三大臼歯の抜歯がいよいよ始まった。

 器具台に置かれた術用器具の音が重なり合う。


 「7番(第二大臼歯)の吸収はどうっすか?」


 「深いな…長期的な保存は難しいだろう。部分的な矯正は必要だな…」


 「見た感じそうっすね…」


 五十嵐と伊東の会話が聞こえてくる。二人の後ろにいた梛七も、何となく想像はできた。ウィーンという削るような音と、唾液を吸収するバキュームの音が大きく鳴り響く。

 しばらくして、小さく砕かれて出てきた第三大臼歯と、保存が難しいと判断された第二大臼歯がトレーの上に置かれた。


 「脇田さん、止血剤少し追加できるかな?」


 「分かりました」


 目線は患者に向いたまま、伊東から口頭だけの指示が入る。梛七は止血剤の入ったプラスチック容器を手に取り、少量ずつ追加した。

 

 こうして、息のあった医師同士のオペは滞りなく終わり、五十嵐と伊東は、患者に術後の説明と、今後の治療方針を話しはじめた。梛七は、使用した術用器具の滅菌作業を助手たちに任せ、次に待っている患者のところへと向かった。 

 


 ◇◇◇

 

 

 細かい分刻みな診療が全て終わり、五十嵐は税理士と打ち合わせがあるとのことで早々に帰っていった。締め作業や掃除が終わり、助手たちも帰った後、受付で梛七と藤原が談話しているところに、帰る準備をした伊東がやってきた。


 「ワラさんとわっきー、お疲れっす〜」


 『伊東先生、お疲れさまで〜す』


 梛七と藤原の声が混じる。


 「そうだ、わっきー。学会どうだった?」


 「あ、はい。とても勉強になりました。そういえば、五十嵐先生の親友でらっしゃる、橘先生にもお会いしましたよ。伊東先生、ご存知ですよね?」


 「お!橘先生に会った?久しく会ってないなぁ〜。どうだった?五十嵐先生に次ぐイケメンだったでしょ〜?」


 伊東は懐かしむように目を輝かせた。


 「あの人たち、二人して凄かったんだよ。技術も成績も常にトップだし、モテるし、大学ん時から最強コンビだって言われてた。二人のファンクラブがあったぐらい」


 「マヂ?さすが、我らの五十嵐傑っ!」


 昔から五十嵐を知っている藤原は、納得した様子で声を張り上げた。


 「あはは、確かにお二人が並んで話されてた時は、そんな空気が漂ってました」


 「でしょ〜。すっごい仲良いしね〜あの二人。五十嵐先生の性格とかそういうの全部知ってるから〜橘先生は」


 (そういえば、五十嵐先生も、何でもお互いのことは知ってるって言ってたなぁ…)


 梛七は、五十嵐と酒を交わしながら話した内容を、ふと思い返していた。

 


 ◇◇◇

 


 週末の土曜日。

 

 梛七は仕事を終えた後、仲の良い3人の友人たちと、居酒屋で女子会をすることになっていた。久しぶりに会う、明(あかり)と遥香(はるか)と梢子(しょうこ)は大学の同級生で、みんな揃って歯科衛生士だ。明は梛七と一緒で、個人の歯科医院に勤めているが、遥香と梢子は大きな総合病院で勤務している。梛七たちは、それぞれの違いや悩みを打ち明け、仕事やプライベートを報告し合うこうした女子会を、月一で開催していた。

 

 「梛七ぁーこっちこっち〜」


 「ごめぇ〜ん。遅くなって…」


 この中で1番しっかり者である梢子が、遅れて到着した梛七へ声をかける。


 「梛七おっつぅ〜。相変わらず五十嵐クリニックは忙しそだね〜」


 椅子に座ろうとする梛七を見上げながら、ムードメーカーな遥香が話す。


 「お疲れさま〜。今日はね、珍しく小児矯正が立て込んじゃって〜大変だった〜」


 おしぼりで手を拭きながら、疲労を乗せた顔で梛七は答えた。


 「うちも、矯正の日は全然帰れなくて…特に木曜日」


 「明んとこは木曜日かぁ〜」


 おっとりしている明は、メニューを広げながら梛七の返答に微笑を浮かべて頷いた。メニューを見ながら全員ビールを頼み、みんなで分け合えるような食事を数点注文する。


 「はい!みんな注目!あたしっ!みんなに報告があるのよぉ〜」


 『ん?』


 遥香が急に手を上げて、梛七たちににやけ顔を向ける。全員が遥香の方を向いて首を傾げた。


 「あたし〜、彼氏できたのぉ。つい最近だけど」


 『え〜マヂぃ?』


 人数分のビールが運ばれ、それぞれ、乾杯〜、とグラスを重ねる。


 「で?」「どんな人?」「同じ総合病院の人?」「え?いつから?」「年齢は?」「イケメン?何型?」と梛七と明と梢子は揃って次々と質問を繰り返す。

 

「もぉ〜3人とも落ち着いてっ。ちゃんと言うから。付き合ってる彼は5個上の歯科医師で、出会いは先輩からの紹介。顔はまぁまぁイケメンだと遥は思うケド…好みが分かれるかもぉ。付き合ったのは2週間前くらいかなぁ〜。彼は市民病院で働いてるんだけどね、いずれは開業医になりたいって言ってる。ちなみにA型で綺麗好き」


 遥香はニヤつきながら、ワンレングスの前髪をかきあげた。


 「最高ぉ〜じゃん!年上歯科医師。いいなぁ〜。私も狙ってんだけどな〜」


 梢子は天井を仰ぎながら、でもうちの病院にはいねーんだよなぁ…、と残念そうに呟いた。


 (いいなぁ〜私も先生と…そんな関係になれたらなぁ…)


 「梛七ぁー。あんたまで何ニヤついてんの?さては、五十嵐先生とそんな風になれたらって想像してたんだろ〜」


 さっきまで天井を仰いでいた梢子が、急に目を細めながら梛七に問い詰めてくる。


 「…いっ、いやいやいや、そ、そんなこと…。遥香が羨ましいなぁ〜っと思って、ね?」


 「そんな梛七はどうなのよぉ?五十嵐センセーと」


 遥香がビールを飲みながら尋ねる。明も梢子も梛七の方をじーっと見つめていた。梛七はタジタジになりながら、先日行った静岡学会での出来事を3人に報告した。


 『キャーーーーーー』


 「まぢぃ?え?五十嵐センセ、脈アリじゃん?」


 「何その、"俺の部屋に来るか?"って。私も言われてぇ〜よ。まぁ確かに、どうでもいい女には言わないよな、そんなこと」


 「んで、何もなかったの?」


 3人は、五十嵐の行動を女子目線で分析しながら、気になる梛七の回答を待った。


 「も、もちろん、何もなかったよ。普通に寝て起きて過ごしただけ…」


 「へぇ〜五十嵐センセ、そういうところは誠実なんだね〜。遥が男だったら、こんなカワイイ梛七が隣にいたら襲っちゃうかもぉ〜」


 お待たせしました〜、と注文した料理が一気に届く。


 「間違いない。よく五十嵐先生、梛七を隣にして普通でいられたよおぉ〜熱っ!」


 出来立ての鶏皮を頬張った梢子は舌を負傷する。


 「ちょっと、だいじょぉーぶ?はい、お水」


 話せない梢子は、水をくれた遥香にごめんごめん、とジェスチャーで返していた。


 「そろそろ気持ち、伝えてみたら?」


 全員分のサラダを皿に取り分けながら明が言う。他の2人も大きく頷いていた。


 「…そうだよね。そろそろ、ちゃんと伝えて前に進まなきゃって思ってる…。思ってるんだけど…。もしダメだったら…って考えたら、大事なものまで全てなくなっちゃう気がするの…」


 梛七は、濡れたグラスの一点を悲しげに見つめていた。


 「続けてきたキャリアはちゃんと残るよ。気持ちを伝えてダメだったとしても、大事なものは自分の手で無くした方がいいじゃん?人や時間に無くされるよりも。梛七。何かを手放さないと、何かを手に入れることはできないよ。仕事もできるんだし、可愛いんだから自信持てっつーの」


 「そうだよぉ〜梢子の言う通り。このままウジウジしてたらチャンス逃しちゃうって〜。どうすんのぉ?女性の影がチラついてたらぁーっ」


 梢子と遥香に喝を入れられた梛七は、泣き真似顔を見せる。


 「じゃあさぁ、期限決めてさぁ、今年のクリスマスまでに伝えるってのはどう?あと約8カ月〜?気持ちの整理を含めたとしても、充分に時間はあるんじゃない?」


 明が突拍子もないことを提案した。


 「それいいじゃん!もう、それぐらいしないと梛七は前に進めないから賛成〜。伝える時間も決めよ!」


 「…ちょ、ちょ、ちょ、明も梢子も、待ってよぉ〜」


 変な汗がじわりと出てくる。


 「そうだなぁ〜、時間か…。五十嵐センセって仕事終わった後、家にずっと居んのかなぁ?」


 だし巻き卵を箸で突きながら、遥香も便乗して梛七に尋ねる。


 「…ん〜。ジムに行ってるらしいけど…どこで何時までやってるとかは知らないなぁ…ってちょっと〜」


 梛七は完全に、明と梢子と遥香のペースに持っていかれていた。

 

 「21時!」


 『21時⁈』


 明が言った後に、3人の声が重なる。


 「キリのいい時間じゃん。それに、幸運の数字らしいよ〜21って」


 偶然なのか、必然なのか、梛七の腕に嵌めていた時計も9時を指していた。

 

 「21時になったら気持ちを伝える。クリスマスまでに。これで決定」


 明が梛七に優しく微笑む。遥香と梢子も優しい眼差しを梛七に向けた。

 

 「もぉ〜みんなぁ…。ダメだった時は絶対支えてよぉ…」


 「大丈夫だって、うちらがいるからぁ〜」


 梢子は梛七の華奢な肩に腕を回して、梛七の頭をそっと撫でた。こうして、今回の女子会は遥香の新たな交際報告と、梛七の告白期日を決めた内容で幕を閉じ、酒が程よく回ったところで解散となった。

 


 ◇◇◇

 


 「ハッ、ハックション…っ」


 「大丈夫か?さっきから」


 橘と一緒に家の近くのバーに来ていた五十嵐は、謎のくしゃみを連発していた。


 「誰か、傑の噂でもしてんじゃねー?」


 「ははっ、そうかもな」


 鼻を啜りながら、五十嵐はハイボールの入ったロックグラスを手に取る。


 「んで?連絡来たんだって?天宮から…」


 「あぁ…。返してねーけど」


 「やめとけよ…まためんどくせーことになる」


 「そうだな。何もしてこねーといいんだが…」


 一方的で手段を選ばない女だった。あいつの中で何か企みがあるはずだと、五十嵐は少し不安になっていた。隣にいる橘や、家族、スタッフたち、気にかけている梛七に危害が及ばなければいいのだが…。

 

 ロックグラスの中で綺麗に積み重なっていた氷が、前触れもなく静かに崩れていった。

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