第3話 忘れられない記憶


 「おはようございます」


 「おはざいます」


 「おはようございまぁーす」


 癖の効いた挨拶が飛び交う朝のクリニックでは、次々と出勤メンバーたちが顔を揃えていく。少し早めに来ていた梛七は、受付のパソコンから、出退勤のページを開いていた。

 

 「おはようございます」


 「おはようございま〜す」


 低くハッキリとした五十嵐の声と、陽気な伊東の声が、スタッフ通用口から聞こえてくる。

 それぞれ、五十嵐と伊東に向けて挨拶をしたが、梛七の声は恐らく届いていないだろう。

 院長室へ入った五十嵐は、鞄から取り出した新しい黒色のスクラブに着替え、ハンガーに掛けてあった白衣を纏う。自分専用のパソコンに電源を入れ、届いていた数件のメールを確認した。

 歯科学会から届いたメールに、赤いフラグマークをつけ、五十嵐は、スタッフの居るフロアへと向かった。

 

 

 昨日休みだった、歯科助手の安藤三葉(あんどうみつは)と、橋口あのん(はしぐちあのん)は、南の指示で、4台あるチェアーユニットを消毒し、ミラーやピンセット等が揃った、歯科用の基本セットをワークテーブルに置いていく。

 歯にしみない程度の温い水が、一定の量で出てくるスピットンにもコップを設置し、最後、唾液等を吸収する排唾管に、バキュームの先をセッティングした。

 

 

 梛七は、受付にある今日の診察予定表を、一つ一つ確認していた。


 (今日も多いなぁ…)


 診察内容欄に気を取られ、背後に身なりの整った五十嵐が立っていることに、気付かなかった。


 「今日も多いな…。頼むぞ、脇田」


 後ろから突然聞こえた五十嵐の声に、梛七は驚いて肩をすぼめた。


 「お、お、おはようございます五十嵐先生!」


 「お前、びっくりしすぎ」


 「背後にいらっしゃると思ってなくて…」


 五十嵐の顔が近い…。梛七は、普段ではありえないこの距離感に、気恥ずかしくなった。


 「きょ…今日、私は橋口さんのフォローに入りながら動いていきますね。安藤さんのフォローは、南さんにお願いしています。スケーリング(歯石を除去すること)の際は離れますので、よろしくお願いします」


 「分かった」


 五十嵐の簡潔な一言で、その場のやり取りが終わる。


 (今日は黒いスクラブなんだ…)


 昨日とは違う五十嵐の雰囲気に、抑えていた気持ちが、込み上げてきそうだった。

 


 助手の橋口は短大生の為、午前か午後のどちらかしか出勤しない。今日は、午後から短大のセミナーがあるということで、午前の診療が終わったタイミングで帰ってしまう。短い勤務時間の中で、この仕事を覚えてもらうのは、決して簡単なことではない。

 梛七は、橋口が分かりやすいように、口頭で教えたことと、実践で身につけたことがしっかり相互するよう教育していた。

 今日は、以前から橋口に教えていた、RCT=(根治・こんち=虫歯が進み、歯髄(神経)まで死んでしまった場合に行う、歯の根っこの治療のこと)の助手として、五十嵐の横で、実践する日だった。

 橋口は、何度もメモを読み返す。緊張で、手が震えている。小刻みに震えている橋口の手を、梛七はそっと掴み、ギュッと握り返した。


 「大丈夫。私が近くにいる。私と勉強したこと、心の中で思い出してみて」


 「脇田さん…ありがとうございます…」


 勇気を振り絞った橋口は、担当する患者のカルテを胸に抱え、名前を呼びに行った。

 


 ◇◇◇

 


 梛七は思い出す…新人だった頃を…。

 

 ━︎━︎━︎━︎7年前の春だった。

 大学の口腔保健学科を卒業した梛七は、先代の五十嵐勝(いがらしまさる)が医院長を務めていた時に、この五十嵐デンタルクリニックへ入社した。

 何も分かっていなかったのだろう…。

 学校で学んでいた自負と、歯科衛生士という国家資格が、梛七に酷く過信を与えていた。

 しかし、梛七を待ち受けていたものは、そんな甘いものではなかった。学んできたことが、現場では全く通用せず、焦りと緊張で空回りを繰り返す日々…。 

 歯科助手だったベテランの先輩の方が、遥かに仕事ができていた。

 勝先生から酷く叱られたことはなかったが、二代目五十嵐傑が来るまでは、衛生士としての仕事を、あまり与えてもらえなかった。

 梛七のことを嘲弄する先輩は多かったが、今も受付で笑顔を振りまく藤原美涼だけは、優しく見守っていてくれた。

 


 梛七は、五十嵐の横に立っている橋口の後ろ姿を、眺めていた。橋口はおぼつかない手で、チェアーユニットのワークテーブルから、歯科器具を取って五十嵐の右手へ渡している。

 その光景が、五年前の自分の姿と重なり、鮮明な記憶が更に蘇ってきた。

 

 

 ━︎━︎━︎━︎梛七が入社して二年目の春。

 桜がまだ少し残る頃だった。


 「今日から、医院長に就任した五十嵐傑です。よろしくお願いします」


 眉目秀麗で、低くハッキリとした声。今までの空気が一瞬で変わった気がした。

 周りのスタッフたちは、イケメンだのカッコイイだの、五十嵐の容姿に浮きだっていたが、梛七は萎縮し、自信を持てない日々に鬱々としていて、そんなふうに五十嵐を見ることはできなかった。


 (新しく先生が変わったって、どうせ、何も変わらないよ…)


 反抗心と諦めの入り混じった気持ちが、梛七の中で静かに燃え上がっていた。

 

 そこから間もなく、勝先生の頃に感じていた空気感や緊張感は一変し、五十嵐傑の色に変わっていった。

 梛七は然程、変化を感じなかったが、一変した空気を不快に思う人間も出はじめ、陰で愚痴を言う者も出てきた。

 

 五十嵐が来てから約一ヶ月ほど経ったある日。


 「君、名前なんだっけ?」


 「あ、脇田梛七と申します…」


 「ちょっといいか」


 全ての業務が終わった後、仏頂面の五十嵐が、梛七に声をかけた。五十嵐の不機嫌そうな目つきを見た梛七は、自分が何か大きなミスを犯してしまったのではないかと、猛烈な不安に襲われた…。

 それを見ていた他のスタッフたちは、梛七より先に着替えをして、受付のところでひそひそと冷笑していた。


 「なぁ。そこ。コソコソと聞き耳立ててないで、早く帰ってくれないか!」


 五十嵐の、怒りのこもった強い口調が、梛七のことを嘲弄する先輩たちを、一蹴する。

 気まずい雰囲気で帰っていく先輩たちが、一同に「お疲れさまです」と言うものの、五十嵐は頑なに応えなかった。誰も居なくなったことを察して、立ったまま腕を組んで黙っていた五十嵐が、口を開いた。

 

 「お前さ、何でそんな顔して仕事してんの?」


 「……。申し訳…ありません…」


 「そんな暗い顔して仕事してっから、ああやって助手たちに舐められんだよ。患者にも愛想尽かされて?仕事も助手に取られて?衛生士として悔しくねーのか」


 「……」 


 痛いところを突かれて、梛七は思わず俯く。


 「なぁ。お前は、このままでいいのか?」


 「……っ」


 「何もせず、そうやってウジウジしてんのか?」


 「…いや…」


 抑えていた心のストッパーが、ぱんっ、と外れた。

 そして、今まで堪えてきた感情と、拾い上げることもできない無数の涙が、床に落ちていった。


 しばらく鼻を啜る音だけが響く…。


 五十嵐は、泣いている梛七を気遣い、少し間を置いて、問いかけるように続けた。


 「顔を上げろ…。お前が、少しでも変わりたいと思うのなら、俺が変えてやる。誰からも信頼される一人前の歯科衛生士にな。何年かかってもいい。何年もお前に付き合ってやる。だから、どうしたいか考え……」


 「…りたいですっ…変わりたいですっ…私っ…」


 五十嵐の言葉を遮り、梛七は涙を拭いながら、五十嵐の見開いた目を見つめた。


 二人はしばらくお互いを見合った…。


 涙で揺れ動く瞳の奥から、梛七の本気を感じた五十嵐は、鼻から深く息を吐く。


 「分かった。週明けから、脇田にしかできない仕事を与えていく。分からないことは俺に聞け。足りないところは俺が教えてやる。あと、辛いことがあったら、俺だけに相談しろ。いいな」


 五十嵐の低く冷静な口調から、頼もしさが滲み出る。梛七は、目を真っ赤にしたまま「はい…」とだけ言い、少しだけ顔を緩ませて帰っていく五十嵐を見送った。

 

 そこから、五十嵐の厳しい指導が始まり、何度も挫けそうになって、家に帰って泣く日もあった。

 でも、梛七は絶対に諦めようとはしなかった。

 五十嵐に認めてもらうまでは…絶対に。

 

 全ての業務を終えた後、しばらくは五十嵐の口腔内を貸してもらい、オーベン(研修医を指導する医師)の様に指導を受けた。歯科医師用の教科書を用いて応用編を教えてもらい、業務に関する細かいことも全て一から教わった。どんなに疲れていても、五十嵐は嫌な顔一つせず、梛七にとことん時間を割いた。

 そんな、五十嵐の指導が身を結び、梛七は見違えるほど成長していった。

 

 それと同時に、五十嵐へ特別な想いが募り始めたのも、この頃からだった…。

 


 ◇◇◇

 


 五十嵐に救われた五年前の記憶を思い返していたら、いつの間にか橋口の実践は終わっていた。


 「橋口、初めてにしては上出来だった。引き続き、脇田に色々と教えてもらえ」


 「は…はい!」


 五十嵐に褒められた橋口は、梛七に振り向き、照れくさそうに笑みを浮かべた。梛七もそんな橋口に笑みを返した。

 

 (先生…ありがとうございます…)


 梛七は、五十嵐の後ろ姿を目で追いながら、忘れられない記憶のお礼を、心の中で伝えたのだった。

 

 

 夕暮れ時に差し掛かった頃、受付の藤原が、体調不良のため早退した。残りの数十名のレセプトと締め作業を、新人の佐々木が一人でこなさなければならなくなった。

 少し不安に思った梛七は五十嵐に相談する。


 「先生、施術中失礼します。佐々木さんのフォローに、入ってもいいですか?」


 「あぁ、そうだな。悪い、頼んでもいいか」


 施術中の五十嵐と、声だけのやり取りが終わり、梛七は受付の椅子に座った。


 「すみません…脇田さん、よろしくお願いします」

 佐々木は、申し訳なさそうに謝るが、梛七は「気にしないで」と笑顔でフォローする。

 久しぶりに触るレセプト。頭の隅に入れておいた引き出しを探り、梛七はカルテの入力をこなしていった。

 

 全ての診察が終わり、佐々木は金銭の締め作業、梛七は施術内容のカルテ入力を行っていた。

 普段は、藤原が時間内にカルテ入力を済ませているのだが、今日は膨大な量が溜まっており、皆んなと一緒に帰るのは難しいと梛七は判断した。

 佐々木も、直ぐに帰らなければいけない用事があり、梛七はひとり残って片付けようと腹を括った。

 

 「わっきー先輩、本当にいいんですか…」


 帰る支度をした南と後輩たちが梛七へ気遣う。


 「本当に申し訳ありません。残しておいてもらえれば、私が来週やるので…」


 佐々木も申し訳なさそうに謝った。


 「大丈夫だよ。ありがとう。皆んなは早く帰って〜」


 梛七は、皆んなを笑顔で見送った。

 週明けも、予約で埋まっている。来週に藤原が出勤できるとも限らない為、残しておくのはリスクが高い。クリニック全体が円滑に回ることだけを考えると、梛七の選択は間違っていないだろう。

 

 (そういえば…五十嵐先生、まだいるのかな…)


 一人残ることを念の為、五十嵐に伝えておこうと院長室へ向かった。

 

 「おっ!わっきー。お疲れさま〜。あ、今。五十嵐先生、電話中かも…」


 いつもと変わらない陽気な伊東が、隣の医師室から帰る支度をして出てきた。


 「そうでしたか…ありがとうございます」


 「あれ?ひとり残業?」


 「そうなんです。ちょっとだけカルテ入力を…」


 梛七はニコッと笑顔で返す。


 「あんまり、無理しちゃダメだよ。わっきー、そういうところあるから。じゃまた来週ね〜」


 梛七に手を振りながら、伊東はスタッフ通用口から颯爽と出て行った。

 

 受付に戻り、椅子に座り直した梛七は、五十嵐の電話が終わるまで、続きのカルテ入力をはじめた。


 (藤原さんは凄いなぁ…この量をいつも一人でやってるだなんて…)


 受付の仕事だとはいえ、藤原に全て丸投げしてしまっていることを反省した。

 

 少しずつ、終わりが見えてくる。

 残り、あと三枚になった時だった。

 院長室から、私服に着替えた五十嵐が出てくる。


 「お前、まだいたのか?」


 「あ、先生、お疲れさまです。カルテ入力を、少し残ってやってました。もう少しで終わります…」


 梛七は、パソコンのレセ画面を見ながら、五十嵐へ返事をした。すると、五十嵐は隣にあった椅子に勢いよく、どすん、と座わり、梛七は思わず手を止めて椅子に座った五十嵐を見た。


 「先生…?」


 「お前一人残して、帰るわけにはいかねーだろ」


 椅子にもたれかかったまま足を組み、五十嵐は近くにあったカルテたちをパラパラと捲りながら話を続けた。


 「なんか、懐かしいな…。数年前、こうやって残って、お前に色々と教えてたよな」


 「そうでしたね。あの時は、本当にありがとうございました…。今の私があるのは、五十嵐先生のお陰です…」


 梛七は、五十嵐の顔を見て改めてお礼を伝えた。


 (私も今日。思い出していました…あの時のことを…)


 全てのカルテ入力が終わり、梛七はパソコンの電源を切った。隣に座っていた五十嵐がゆっくり立ち上がる。


 「早く着替えてこい。家まで送ってやる」


 「え?そんな…」


 「車ん中で待ってるから、早く来いよ」


 五十嵐は、自分の荷物を抱えて、スタッフ通用口から足早に出て行った。梛七は、着替えをしながら鼓動が速くなっていくのを感じた。


 (どうしよう…緊張する…)


 鏡に映る自分の頬が、朱色に染まっていく。

 

 急いで警備ロックをセットして、スタッフ通用口から出る。ひんやりとした空気が、梛七の顔に冷たく当たった。玄関の目の前にあるスタッフ専用の駐車場に、大きな四駆の外車に乗った五十嵐が、こちらを向いて待っていた。

 

(いい匂い…しかも、凄い高級車…)


 「よ、よ、よろしくお願いします…」


 五十嵐の車に乗り込んだ梛七は、目と鼻から入る情報を処理するのに精一杯だった。

 

 夜の車内から見えた五十嵐の横顔は、ぞくっとするような艶やかな色気で溢れていた。

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