第三話 霖雨蒼生の姫君
「えー、本当に知らないの? “
ガヤガヤと賑やかな教室内。
クラスメイトの女子が、楽しそうにお喋りしている声が聞こえてくる。
「あー、名前だけなら聞いたことあるかも? 確か有名な乙女ゲームでしょ?」
「そう! そうなの! そのゲームに出てくるキャラがもう皆格好良くてさ……! シナリオもめちゃくちゃ良いの!」
ショートヘアの少女は、掌をグッと握りしめながら、頬杖をついて半ば呆れ顔をしている黒髪ロングの少女に熱弁している。
「へぇ、どんな話なの?」
「世界観的には、和洋中が混ざり合ったファンタジー世界の話でね。その世界には、四つの国があるの。でもどの国でも雨が降らなくなっちゃって、作物が育たないとか色々な弊害が出てきて、皆が困り果ててる。そこに、雨を降らせる力があるヒロインが登場するの!」
「なるほどね。それで雨を降らせて感謝されて好かれて、ハッピーエンドってこと?」
「いやいや、そう単純な話でもないのよ。各国はそれぞれ敵対してたりで、まぁ色々な事情を抱えていてね……ヒロインの力を巡って、問題も起きちゃうわけ。で、ハピエンルートが最高なのは勿論なんだけどね。バドエンルートがもう……めっっちゃくちゃ泣けてさぁ。私的には火之国が一番……いや、風之国ルートも泣けたなぁ」
「あんた、だから今日の朝、目がパンパンだったの?」
「てへっ。徹夜でゲームしちゃいました!」
「それは良いけど、次の時間小テストあるからね」
「え、そうだっけ!? やっば、それを早く言ってよ~!」
ショートヘアの少女は、慌てた様子で鞄から教材を取り出している。
雫音は後方の席でそれを眺めながら、特に何を思うわけでもなく、一人ぼうっとしていたのだが、“雨を降らせる力”という言葉には、微かな反応を見せた。
「(そんな風に、誰かのために、力を使えたのなら……それは、幸せなことなんだろうな)」
窓の外、ポツポツと降る雨粒に目を移しながら、雫音はそう思った。けれど、それは物語の中だけでのお話で、現実では絶対に有り得ない話であると、知っている。
――そう。雫音はそんなこと、とっくの昔から知っていた。願えば願うほど、信じれば信じるほど辛くなることを、知っていた。
「(雨が降ることを喜ぶ人なんて、いるわけがない)」
もう、諦めていた。
悲観することも、期待することも、とうの昔に止めたのだ。
だから、生まれ持ったこの力を、少しでも抑えられるように。
これ以上神様が泣くことのないように、と。
雫音は今日も、感情を殺して、無感情に、一人ぼっちで。
***
雫音は目を覚ました。視界に広がるのは、見慣れぬ木目の天井だ。目を瞬いてぼうっとしていれば、左方から声が掛けられる。
「目覚められましたか?」
雫音は、目線だけをそちらに向ける。
そこに居たのは、茶色の長い髪を後ろで一つに括っている、綺麗な顔立ちをした少年で。
「(……夢じゃ、なかったんだ)」
牢での出来事を思い出した雫音は、これが夢まやかしなどではなく、現実世界での出来事であることを悟った。
それと同時に、まだ夢を見ているのではないだろうかと、軽い現実逃避をしてしまいそうにもなる。けれど、身体に感じる気だるさから、これはやはり夢ではないと、そう結論付けて、ゆっくりと上半身を起こした。
「お身体の方は大丈夫ですか? 先ほどは部下が手荒な真似をしてしまい、本当に申し訳なく……。千蔭、お前も出てきて謝れ」
「はいはい、分かってるって。お嬢さん、さっきは驚かせちゃってごめんね?」
音もなく雫音の前に姿を現した千蔭は、軽い調子で謝罪の言葉を口にする。
「……いえ」
雫音はそれだけ言って、口を閉じた。
千蔭は口許に弧を描きながらも、警戒を顕わにした目で雫音を見つめている。
雫音は、自身に向けられる敵意という名の感情に、直ぐに気づいた。けれど、だからといって、それに傷つくことも、悲しむこともない。
多少の恐怖心はあるけれど、なるだけ平静を装って、無感情でいれるように努めて、目の前の二人と対峙する。
「では、まず食事にしましょうか。雫音殿は、食べられないものなどはございませんか?」
「……いえ、特には」
「それは良かった。風之国の山菜や果実はとても美味ですから、雫音殿にもぜひ召し上がっていただきたくて」
「……風之国?」
聞き覚えのある名称に、雫音は思わず反応してしまった。
「そう言えば、きちんと自己紹介をしていませんでしたね。改めまして、オレは風之国の領主である、風神与人と言います。雫音殿が近くの森林にて倒れていたところを、部下が発見したのです」
――まさか、そんなはずがない。そんなこと、あるわけがない。
そう思いながらも、つい先ほど見ていた夢に出てきた国の名と同じであることに、雫音は引っ掛かりを覚えてしまった。こんな偶然があるのだろうか、と。
「あ、の……」
雫音が詳しいことを尋ねようとした、その時。
部屋の外から、賑やかな声が聞こえてきた。
「いやぁ、本当に良かったよなぁ! 雨が降ったおかげで作物も育つし、これで川の増水も見込めるだろう」
「だな! 今夜は美味い酒が飲めそうだぜ」
「あぁ。
喜色を孕んだ野太い声は、そんな言葉を残して、あっという間に遠ざかっていった。
「すみません、騒々しくて」
与人は謝罪の言葉を口にする。自身の部下に当たる者たちだったのだろう。
手触りの良さそうな茶色の髪を掻きながら、眉をへにゃりと下げた与人は、困り顔で笑っている。その動きに合わせて、後ろで結われた長い髪が、ゆらゆらと揺れる。
「(……変な人だな)」
与人は、雫音が思う“領主”のイメージとはかけ離れていた。
領主と言われれば、もっと厳しくて、怖そうな人を思い浮かべる。
けれど、目の前で笑っている与人を見て感じるのは、優しい人なんだろうな、と。ただそれだけだった。
「実はここ最近、雨が降らず、各地で干ばつが続いて困っていたのです。ですがつい先刻、久方ぶりの雨が降ったので、皆大層喜んでいまして」
“でもどの国でも雨が降らなくなっちゃって、作物が育たないとか色々な弊害が出てきて、皆が困り果ててる。そこに、雨を降らせる力があるヒロインが登場するの!”
与人が紡いだ言葉を耳にした瞬間、クラスメイトの女子が楽しそうに語っていた声が、その姿が――雫音の頭の中を、走馬灯のように駆け巡った。
「……そう、なんですね」
「はい。……実は、
与人の確信を持った問いかけに、雫音は、小さく首を横に振って返す。
「いえ、違います」
「ですが……」
与人は柔らかな声音で、追究を試みる。
しかし、雫音の顔を目にして、それ以上言葉を紡ぐことはできなかった。
――霖雨蒼生とは、苦しんでいる人々に、救いの手を差し伸べること。また、民衆の苦しみを救う、慈悲深い人のことを指すらしい。
もしもこの世界が、雫音のクラスメイトが話していた“霖雨蒼生の姫君”の世界なのだとしたら。
その名の通り、恵みの雨を降らし、人々を救うお姫様が存在するはずだ。
けれど、そのお姫様は、雫音ではない。
「私は、神様だなんて……そんな、崇高な存在ではありません」
――そう。むしろ私は、人々に疎まれるような存在なのだから。
「私はただの、雨女です」
「あめ、おんな……?」
聞き馴染みのない言葉に、与人は首を傾げた。
後ろに控えている千蔭は、雫音の一挙一動を見逃さないように神経をとがらせながら、怪しい動きをしていないかと、探るようなまなざしを向けている。
何とも言えない微妙な沈黙が、室内に漂った。
されど、障子戸を一枚隔てた向こう側では、依然として、大地を潤す恵みの雨が、ざあざあと歓喜の声を上げながら振り続けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます