手に入らないモノと満たされる愛

小池 月

第1話 櫻井 斗真

 プロローグ

 「ぐ~~!」

 喉の奥で、悲鳴が消えていく。声に出せず、苦しさが増すだけ。なんで、こうなった? 僕の事、だましたの? 裏切られた悲しみ。期待が打ち砕かれた衝撃で、情けなく涙が流れる。締まる喉の苦しさに、自由にならない両手。何度も頬を張り倒されて、左耳がビーンと鳴っている。よく聞こえない。口の中に詰め込まれた布。あちこち蹴られたり殴られたり。

「逃げてんじゃねぇ! てめぇなんか死んじまえ!」

 何度も引きずり起される。痛くて、苦しくて、砕けた心が辛くて、暴力に耐えながら、泣いた。分かったから、もう、やめて。

 ふと、優しい顔が頭に浮かんだ。


 櫻井斗真

 幼児期から小児喘息で小児科への入退院を繰り返している。高校生になった今でも、吸入薬が欠かせない。喘息発作は、内服薬でコントロールしているが、気温の変化・ストレス・ホコリ・軽度の風邪・少しの体調不良、様々なことが要因となって発作が起きる。緊急時の気管支拡張剤吸入薬は肌身離さず持っている。これは発作の初期に使用すれば効果が見込める。苦しくなったら一回二プッシュ。落ち着くまで、じっと待つ。苦しさにただ耐える時間。一日二回までしか使えない。連続使用や過剰投与は心臓が止まってしまう恐れがある。重責発作という大発作が起きると病院の点滴治療になる。そうなるとステロイド薬の投与でしばらくの入院が必要。だからできるだけ刺激を少なく、体育も見学。学校の活動にはほとんど参加してこなかった。

 喘息には、発作が起きやすいタイミングがある。昼間より夜間。特に朝方。息苦しさで目覚めると、寝ていることができない。背中を起こしていないと、息ができない。前かがみに何かにすがりつき、呼吸との戦い。生命の危機に涙が流れ、冷や汗をかくこの苦しさは、毎回「もうこのまま死んでいい」と思える。喉奥からヒューヒュー鳴る呼吸の嫌な音。気管支が閉塞して空気の通り道が狭くなっているから鳴る音。体が冷えていく恐怖。いっそ息が止まれば楽なのに。夜は怖い。

 僕は二人兄弟の長男。三歳下の嘉人が生まれるまで、小児喘息だからと母が宝物のように大切にしてくれていた。「苦しいの? 大丈夫?」となでる優しい手はうっすら覚えている。

 嘉人が生まれてからは、僕は手がかかって困ると疎まれるようになった。僕と違って、健康で運動が得意ではつらつとした嘉人。父と母の期待以上。できるだけ母に嫌われないように、苦しくても我慢するように頑張った。入院の付き添いもしなくていいよ、とさみしさに耐えた。幼稚園くらいだと皆付き添いにお母さんがいる。羨ましくても、歯を食いしばって一人で過ごした。看護師さんはたくさんほめてくれたけれど、憐みの目線は心に刺さるものがあった。

 小学三年のある日、発作が止まらず大発作を誘発し、呼吸困難になり救急搬送された。小発作を言わなかったことを、母に怒られた。入院になり、嘉人の初めてのサッカーの試合に行けなくなって母は、ため息ばかりついていた。携帯ばかり見ている母。点滴と酸素投与をされている僕を見てもくれない。優しい言葉一つももらえなくて、辛くて布団をかぶって泣いた。「僕なりに、お母さんに迷惑かけないように頑張ったんだよ、ごめんなさい」言えない言葉を飲み込んだ。入院の手続きが終わるといつの間にか母は帰宅していた。入院中は家族の付き添いなし。一人ぼっちの入院は、慣れているから大丈夫。

 二週間の入院後に帰宅すると、まだ幼稚園年長の嘉人から「兄ちゃんがいない方がいいのに。ずっと入院でいいよ」と言われた。身体が震えた。涙をこらえるので、精一杯だった。薄々は気づいていたけれど、父も母も直接は言ってこない一言。僕は、この家でいらないモノだ。


 その日から、できるだけ家族から距離を置くようにした。ご飯も、僕がいない方が楽しそう。学校の友達もできないし、気が付くと誰とも一言も会話しない日があった。食事の時、口を開けるときに顔の筋肉がこわばってうまく開けられないことがある。そんな時、「今日は一言もしゃべってない」と気が付く。自分の孤独に、涙がにじむ。心が疲れて、あまり食欲が沸かない。多く食べられず食事を抜くこともあるから身体が小さい。小児科の先生に「たくさん食べて体力つけて」といわれるが、食べられないものは仕方ない。

 小児喘息が治らず十六歳で呼吸器科への転科。小児科のほうが優しい先生だった。

 学校で発作が起きそうになると、保健室で横になる。保健室は、安心する。保健の先生の優しい言葉に、顔が緩む。苦しい時に、そばに人がいる安心感。温かい場所だと思う。保健室の先生とは、体調や発作の事を話す。調子が悪ければいつでも来ていいよ、と言ってくれる。ベッドに入ると、背中をそっと二回優しくトントンしてくれる。僕はこれが、涙が滲むほど嬉しい。他の生徒にもするのか観察したけれど、僕にだけだ。嫌われたら困るから、入りびたりはしないけれど僕が安心して過ごせる大切な場所。夜に喘息発作があっても、学校を休めない。母に「みっともないからあまり休まないで」と言われているからだ。そんな時は、保健室で休ませてもらう。どこよりも優しい場所。


 喘息発作

 明け方、三時。苦しくて目が覚めた。呼吸がヒューヒューしている。吸っても吐いても十分な量の換気ができない。満ち足りない空気を身体が求めて、どんどん苦しさが増す。緊急吸入薬エアゾルを二プッシュ。どうにか、効いてくれますように。苦しさで頭がガンガンする。這うようにして勉強机にたどり着く。発作が起きた時は、前かがみに何かにつかまっている方が楽だ。椅子に座り、机に突っ伏す。大丈夫、大丈夫。一生懸命自分を励ます。三十分ほどじっとしていると徐々に薬が効いて苦しさが抜けてくる。でも、怖くてベッドで寝ることができない。そのまま、ぼーっと朝まで過ごした。

 眠くて身体が辛い。しんどいけれど、保健室まで行けば休める。そっと家を出て学校に向かう。

 家から数十メートルのところで、目の前がぐらりと暗転する。あ、眩暈だ。ちょっと休まないとまずい。寝ていないと良く起こる現象だ。道端で壁に寄りかかり、嘔吐感に耐え、倒れないように身体を保つ。

「何してんだよ。調子悪いアピールかよ。いい加減にしろ。恥ずかしい」

 後ろから冷たい声。嘉人。何も言うことができず、顔を見ることもできない。僕の横を通り抜けていく大柄な嘉人。朝日の中、背筋を伸ばし、前を歩いていく背中をぼんやり見つめる。とても惨めな気持ちになった。落ち着け。ここで喘息発作起こしてはいけない。せめて、休める保健室まで。気持ちを立て直さなきゃ。焦るほど、喉が締まってくる独特の感覚。どうしよう。冷汗が出始める。壁に寄りかかりながら、崩れ落ちそうになる。地面に膝を着いたら、きっと立ち上がれない。こらえろ。背中を丸めて必死に耐える。

「大丈夫?」

 水の中で聞くように、はっきりしない声。反応が出来ない。

「ちょっとまずいよね。抱き上げるよ?」

 何? 良く聞こえない。次の瞬間。必死にこらえていた姿勢が崩れる。が、大きな腕で抱き留められる。悲鳴を上げたいけれど、声を上げる元気がない。軽くヒューと鳴る呼吸を確かめるように、喉元に顔を寄せられる。

「発作、起こしているね。保健室に連絡するから安心して。吸入薬、使った?」

 吸入は、朝方使ってしまった。コクリと頷く。

「分かったよ。運ぶね」

 身体がふわりと持ち上げられる。背中を丸くするので精一杯。ゆらゆらと揺れる振動と人の体温の温かさに、眠気が襲う。いつの間にか、目を閉じていた。


 気が付いたら、ベッドに寝ていた。腕に点滴。薬品と、ザワザワと声。病院だ。ここ、知っている。昔、通っていた小掠小児科病院。カーテンで区切られた処置室だ。一年ぶりだけど、変わっていない。

「あ、目が覚めた?」

 カーテンを開けて、ピンクのエプロンの看護師さんが点滴の確認をする。

「久しぶりね。高校の制服になったのね。似合っているわ。先生呼ぶから、待っていてね」

 知っている顔に安心する。少し休ませてもらって、気分の悪さは改善している。

 点滴を見る。補液剤にアミノフィリンとステロイドが入っている。点滴でこの二薬剤を入れると即効性はあるが、その後が大変になる。血中濃度を採血で測定しながら徐々に量を調整しなくてはいけない。内服に戻すまで入院が二週間以上はかかる。心が沈む。入院になっていいから退院させないでくれたらいいのに。

「目、覚めた? 気分どう?」

 カーテンから知らない男性が顔を出す。身体が大きい。制服が僕と同じ。茶髪の短い髪に、やや日焼けした健康的な男子高校生だ。

「俺、同じ高校の三年。小掠隆介。この小児科、俺の親がやってる。ちなみに、姉ちゃんが高校の養護教諭。保健室の先生だけど、気づかなかったでしょ」

 コクリと頷く。あの優しい保健室の先生が、この病院の娘さんだったのか。

「俺も、姉ちゃんもお前の事、昔から知ってるよ。だから、朝の様子見て、姉ちゃんと親に連絡してココに連れてきた」

 僕の寝ている処置ベッドの枕元に、スチール椅子を移動させて彼が座る。

「外来途中で親父が話すけど、簡単に説明するよ。お前、しばらくウチに来いよ」

「え?」

「ステロイドの点滴って、内服量のコントロールのために入院しなきゃいけなくなるよな。総合病院の呼吸器科にも連絡したけど、今空きベッドないって。救急外来からICU入院するしかないけど、ベッド料金跳ね上がるって。お前の事は、小児喘息で通院していたから親も良く知ってるし、家庭状況も少し知ってる。お前の親に連絡したら、ICUなんて体裁が悪いから入院するより、しばらくウチで預かってほしいって。未成年だから、また親父が主治医に戻った形だよ。毎日通院って形でステロイドとアミノフィリンの量をコントロールすることになった」

「あの、母は、許可したってことですよね」

 分かってはいるけれど、不要物であることを目の前に突きつけられると心が沈む。

「しばらくは休むことだけに集中したらいい」

 病院院長の息子さんだからかな。病院の事や薬に詳しい。まるで担当の先生と話しているみたい。にっこり笑って、僕の頭を撫でてくる。手が大きい。人から優しく触れられるのは、いつぶりだろう。気持ちいいけれど、意味が分からなくてじっと見つめる。

「お、斗真くん。起きたかな? びっくりしたよ~。良くならないから呼吸器専門科に任せたつもりが、悪くなってないかい?」

 ははは、と笑って傍に来る先生。呼吸の音を聴診器で確認して、点滴残量を確認する。

「隆介から話聞いたかな? 私がまた主治医になるからね。あと、総合病院入院が出来なくてね。点滴しないと発作が治まりそうもないし、お母さんと呼吸器の先生と相談して点滴させてもらったよ。お母さんは、こちらには来ないそうだ。相変わらずだね。保険証の確認が取れたから、会計だけ郵送でくれたらいいって」

 困った顔で笑う先生。

「……すみません」

「いいさ。今日から、ウチで過ごすことになっているけど、入院と同じ感覚でいいよ。薬量の管理が必要だからね。表向きは毎日通院治療とするよ。面倒は隆介がみる。料理は出来るし、頼りになるぞ。点滴が終わったら、超音波吸入して、隆介と家の方に行ってね。調子悪かったら連絡くれればいいから」

 にっこり笑って、外来診察に戻る先生。先輩を見る。優しい目元、先生と似ている。

「斗真って呼んでいい? 俺の事は隆介でいいよ」

「はい。よろしくお願いします」

 僕の周りが何か動いている。それは分かるけれど、僕は何もできない。流れに身を任せるだけだ。

 お母さんに、家族にとうとう捨てられたのか。必死に縋り付いてきたものが無くなる恐怖。僕を冷たい目で見て、どんどん前に進んでいく嘉人の後ろ姿が頭をよぎった。涙が、ジワリと滲む。

 僕は、イラナイモノだ。

 先輩に背を向けて、布団をかぶる。背中を丸める。

「我慢しなくていい。苦しいなら、俺を頼っていい。よく耐えてきたね」

 大きな手が、背中をさする。その温かさにこらえていた嗚咽が漏れた。こらえようとすると、息が苦しくなる。泣くと呼気に、独特の笛のような息が混じる。おさまっていた喉の締め付けが戻ってくる。

「もう少し、寝たらいいよ」

 背中を撫でられているうちに、ホワリと眠気が襲う。抵抗することが出来ない強制的な眠気。あぁ、点滴に鎮静剤が入ったのかな、と思ううちに意識が落ちた。

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