第六節 凶走馬

第九十二討 人馬ガ共ニ目指スモノ

ワァァァァッ!


 会場に響くのは万の歓声。

 音は大気を揺らし、熱気は観衆を更に熱狂させる。


 だがそれすら掻き消すものがあった。


ドドドドドッ!


 総重量六百キログラムを超えるそれらが芝の大地を踏み、蹴り上げる。


「頑張れーっ!チグサさーんっ!」


 ありったけの声量でアカリが声援を送る。馬上にある彼女には聞こえていないだろう。だが、それでも声を出さずにはいられないのだ。


 日曜日のこの日、ヨーコ達は競馬場へと訪れていた。


「わ、わぁ……っ、すごい迫力っ」


 気圧されるような迫力にトモヨが思わず声を上げる。


 彼女達がいるのは観客席最前列。それ故に人馬が駆け抜ける度に生じる風が髪を揺らし、蹄が蹴り上げた土塊が今にも飛んできそうだ。


 人馬は大きく芝地を駆け、楕円の軌道を描いてまた観客の前へと戻ってきた。最後の勝負となる観客席正面の直線、そこで全ての騎手が馬に鞭を振るう。歓声が一層大きくなり、それに迎えられた人馬が全力をもってゴール板を通過した。


『入ったーっ!入りました、七番キリサメ、他馬を寄せ付けぬ圧倒勝利です!』


 拡声器から実況席の声が会場全体に響く。


 ある者は予想が的中した事に喜び、またある者は外した事を悔しがる。競馬には走る人馬だけでなく、観衆にも物語があるのだ。


「おおー、チグサさん勝った!」

「見事なものね、ぶっちぎりじゃない」

「すごい、すごーい」


 馬上のチグサが大きく手を振るヨーコに気付き、小さく振り返す。距離がある事で表情までは見えないが己の、騎手としての務めを果たせた事を喜んで笑っているはずだ。


「流石は菅峰調教師の御息女、素晴らしい馬捌きですな」

「いやいや。まだ未熟モンです、アレは。どうせ今、勝利に酔って顔を緩ませているでしょうからな」

「見事に勝ったのだから、そこまで言わんでも……」


 褒めるゲンジョウの言葉、だが菅峰は腕を組んで渋い顔をしている。社長は彼を諫めようとするが、調教師の言葉に応じるように馬上のチグサが盛大にくしゃみをした。


 他人に噂されるとくしゃみする、とは言うが、聞こえない所で図星を突かれても同じ事になるようだ。


「ま、このレースはまだまだ前哨戦。気を引き締めさせんとな」


 言葉では色々と言っているが、娘の勝利に菅峰の口元には笑みがあった。だがすぐにそれは消えて、数時間後の大勝負を見据える。


 この日、競馬場の空気は通常とは違っていた。


 甲一級競走、五月雨賞。


 瑞穂三冠が壱、世代最強の夢を求めて走る人馬の第一歩である。この場のみならず帝都、いや瑞穂の国全域が注目する大レースなのだ。


 とはいえ、それだけを行っている訳ではない。今しがたチグサが勝利したもの含め十程度のレースが同時開催され、夕方ごろに本番が始まる。菅峰が言う『前哨戦』とはそういった意味なのだ。


「チグサさん、まだ走るんですよね?」

「ああ、ウチは小規模で騎手が少ない。アレを除くと新米しかおらん、この場で馬をマトモに走らせる度胸のある奴ァいないからな」


 アカリの問いに菅峰が答える。


 社長のほか、数人の経営者が共同で出資し管理する競走馬たち。資金力も低く、それゆえに手持ちと出来る騎手も少ない。だが彼女チグサはその規模に比さざる実力のある騎手だ。調教師の身内だからこそ、鞍上に在り続けてくれているのだ。


「我々にもう少し余裕があれば、あの子を楽にやらせてやれるんだがなぁ」


 腕を組んで少し申し訳なさそうに社長は言う。


「彼女は貴方がたの思いも知りながら鞍上にあるのでしょう。そうでなくば身内である事を考慮したとしても、より資金力のある所へ行くはず。納得した上でああして馬を走らせているのだと思いますぞ」

「平賀博士、そう言って頂けると少々気分が楽ですな」

「まぁ、あの娘に恥じんように馬を万全にするのがワシらの仕事よ。シリユウの追い切り最終調整は最高、アレと合わせて負ける気はせん」


 菅峰は腕を組み、ふん、と鼻を鳴らす。何のかんの言いつつも彼はチグサの事を信頼し、だからこそ自身が面倒を見る馬の手綱を持たせているのだ。


「あっ、そうだ。博士、今日は一緒に来てくれてありがとうございますっ」

「未成年者だけで競馬場へ行くというのは良い噂の立たぬ話。真っ当な年長者として、キミ達に同行するのは当然というものだ」


 アカリに礼を言われた真っ当な大人奇人変人傍若無人は、腕を組んでそう言った。


 ヨーコが疑念で溢れかえった目で彼を見たのは、言うまでもない。






 昼過ぎ。


 五月雨賞までレースはあと三つ、そのうち一つはチグサが馬を走らせるものだ。馬が先日追い切りをして最高の状態を見せたというならば、彼女の追い切りはまさに今日の数レースである。


(……よし、大丈夫。このレースも獲って五月雨賞に繋げる!)


 疲れもあるが気力十分、彼女の頭の中には既にこの先のレースの事があった。だが、だからといって目の前の戦いに集中していないわけではない。高揚という言葉が一番正しいだろう。


 会場内は少しずつ異様な雰囲気が漂い始めている。期待もあり、不安もあり、興奮もあり、といったところだ。賭け事をしている者達としては、これからの小レースも十分に本番だ。しかしそれでも、やはり気持ちはその先五月雨賞に向いている。


「な、なんだか始まってもいないのにドキドキしますね」

「まだ、五月雨賞は先」


 好きなものをずっと見ていられる、更には別の興奮もある。アカリの気持ちは最高潮を維持し続けているのだ。そんな彼女を落ち着かせるように、サラは彼女の頭をぽんぽんぽんぽんと軽く叩いてあげる。その度に軽やかな足取りの馬の尾の様に、彼女の髪の毛が上下に揺れた。


「こらこら、サラ。叩きすぎ」

「アカリちゃん、興奮で鼻血出してしまいそうなんだから止めなさい」

「え、私そんな風に見られていたんですか……?」

「え、ち、違うの……?」

「トモヨちゃんまで!?」


 親友からのまさかの一撃に、アカリは驚く。


「キミ達は実に愉快であるな」

「うう、なんだか恥ずかしい……」


 興奮とはまた違った感情で彼女は顔を赤らめた。


 そうこうしているうちに次なるレースの準備が整う。十頭が木柵ゲートへと入り、走り出しを今か今かと待っている。馬の気勢は前へ前へ、鞍上の騎手の心には闘志が宿る。


 そして、チグサにとっては甲一級競走前哨戦の最後の一戦が始まった。


『今、スタート!!ああっと!?』

「あっ!!」


 会場から一斉に驚きの声が上がる。


 いや誰よりも驚愕したのは馬の鞍の上にいる……いや、彼女だろう。


 強い衝撃が全身に加わり、咄嗟に身体を庇った左腕に鈍い痛みが走る。続いて前のめりになった馬の脚が目前へと迫る。


(落馬……した……っ!?)


 がずん、というヘルメットが打たれた音と共に、彼女は意識を失った。

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