食堂に犬は眠る
江山菰
第1話 寂れた街の小さな店
その夜は息が白む一歩手前の肌寒さだった。
大粒の雨の
駅前には辛うじて交番と三軒ほどの飲み屋の灯りが見える。西口交差点の角にある一見コンビニに見える小さな店はフェイクだ。コンビニが潰れたあとに居抜きで入った個人商店で、無論二十四時間営業ではなく閉店支度を始めている。
その交差点を起点に三百メートルほどの商店街が伸びる。
商店街といってもささやかなもので、田舎らしくどの店も閉店時間が異様に早い。まだ夜の八時だというのに、どこもかしこも錆の目立つシャッターが閉まっている。
この付近には県立医療センターがあり、ここが最寄り駅だった。しかし、数年前にセンターのまん前に新駅が増設されると、医療センターへ通う患者やその家族、見舞客でもっていたこの小さな商店街はたちまち寂れ、振興組合も解散して今に至っている。
商店街のちょうど真ん中当たりに店じまい済みの金物屋があり、その脇から西へ伸びる路地へ入って四軒目にその店はあった。
「あ……もう閉店なんで」
暖簾を取り込みに出てきた店主は、間口のささやかな庇に入ってきた濡れネズミに声をかけた。
ショート丈のトレンチコートの裾から氷柱のような水滴を垂らしながら、相手は鼻でふんと溜息を
「傘、貸しましょうか?」
「傘があっても、今、無理っぽい」
確かにこの叩きつけるような雨の中では傘をさしていてもずぶ濡れだろう。コートの襟に半ば埋もれた相手の髪がほとんど灰色なのに気づき、店主は当惑の表情を浮かべた。
今一つ客あしらいに慣れていなさそうな彼に、相手は淡々と問いかけた。
「ちょっと聞きたいんだけど、この辺にコンビニってないの?」
「ここら辺にはありませんけど、次の駅にならありますよ」
「スーパーとかドラッグストアは」
「それも医療センターの近くなら何軒か……ここら辺にあるのは個人のちっちゃい商店ばっかりで、今夜はもう閉まっちゃってますよ」
また、ふん、と息を吐き、相手は生白い手をコートのポケットに突っ込んでスマホを取り出した。画面にはこの辺りの地図が表示されている。さんざんお目当ての店を探したのだろう。どことなく余裕のない指の動きが地図をタクシー配車アプリへ切り替えたが、望みは叶わなかったようだ。
「タクシーも捕まんないしさ……なんなんだ、このくそ田舎」
「すみません、医療センターが移転してからこの辺は寂れる一方で」
歯を食いしばるように言われて、謝る必要もないのに、店主は大きな体躯を少し縮めて
「よかったら、次の駅まで車で送りましょうか」
とうとう、相手は唸るように食いしばった派の隙間から声を出した。
「悪いけど、ちょっとだけトイレ貸してもらえない?」
「あ、お安い御用ですよ。どうぞ」
暖簾を外して中へ取り込みながら、からからと引き戸を開けて招き入れる。この儲けにならない客は間口でひっきりなしに雨水を垂らすコートを脱ぐと軽く振って水を切り、ぐしゃっと引っ掴んで店へ入った。店主は戸を閉め、濡れたコートを預かろうとして、初めて相手の出で立ちを灯りの下で見た。
思わず、声が出た。
「えっ」
相手は青白い険のある顔をしていた。
表情も立ち居振る舞いも、イライラ、ピリピリしている様子だが活力がない。
そんなことはどうでもよかった。
意外なことに、相手の顔は若く、店主と同年代くらい……三十をいくつか超えたあたりに見える。ゴマ塩だと思った髪も、灯りの下で見ればシルバーアッシュの濃淡がついたメッシュで、コートの下に隠れていた後ろの髪は緩くウェーブし肩甲骨の下あたりまで伸びている。身長は見たところ170センチ以上はあり、コートの下は男仕立てのパンツスーツと、コートの下で雨から守られたボディバッグ。よく見ると薄く化粧もしていて、男だか女だかさっぱりわからない。どちらであったとしても、またはどちらでもなかったとしても、この地味な店には不釣り合いな、水商売風の華がある。
ご老体にホスピタリティの提供をしたつもりだった店主は、コートを手にしたまま面食らっている。相手は不機嫌そうだ。
「何だよ」
「いや、……お若い方だったんで。髪の色でご年配の方かと思ってしまって」
「そんなことより、トイレどこ」
「あ、こっちです」
「ごめん、ちょっと長く使わせてもらうけど」
「どうぞ」
ボディバッグのベルトを握りしめ、ふらふらとトイレへ入る後ろ姿を目で追って、店主は再び、いや先ほど以上に衝撃を受けて固まった。見たものが信じられなくて、相手の尻のあたりを何度も何度も見直す。
そこには派手な血の染みがあった。スーツの生地は黒に近いグレーだったが、すぐにそれとわかる。
彼は何か言おうとしたが、口を
トイレの引き戸が閉まる。
しばらくして小さく「げっ」という声が聞こえた。
おそらく相手は着衣の汚れに気づいていなかったに違いない。知っていれば絶対にコートは脱がなかったはずだ。だから、今トイレで血の染みに気づき、慌てているのだろう。
彼は目まぐるしく考えた。
――あんなに調子悪そうなのにあのまま放り出すなんて、できないよなあ……。
二十分後、相手はのろのろとトイレから出てきた。さっきよりもさらに顔色が悪く、幽鬼のようだった。
彼はカウンターの奥でごそごそと何かやっていたが、物音に気付いて出てきた。グロスも褪せるほど色を失った唇が言葉を発しようとする前に、彼は用心しいしい尋ねた。
「どこかお悪いんですか?」
「どこも悪くない。薬が効かないってだけ」
「お薬ですか」
「ロキソニンだよ。……あー、腹いてぇ」
「あのー、もしかして」
「ああ、もううるさいな! せーりだよ、せーり! でかくてごつくて悪かったな、こう見えて女だよ! せーりつーでイライラしてんだよ!」
下腹部を絞り上げるような痛みで、そして多少の羞恥もあって相手は気が立っている。彼は努めて穏やかに話しかけた。
「あの、よかったら、お風呂入っていきませんか」
「は?」
「あのドアの奥がうちの居住スペースなんですけど、今、風呂沸かしたとこなんです。そんなに濡れてたら、冷えて余計具合が悪くなるでしょう? 服と下着、新しいの出しときましたから……見ず知らずの他人の家で風呂に入るのはあれでしょうが、温まって一休みしていったほうがいいと思いますよ」
彼はいやらしく聞こえないように気を遣っている。相手は眉間の皺を一層深くしている。断りたいという思いがありありと見える。しかし、断れる状況ではないのは本人が一番わかっている。
「風呂、どこ」
「こっちです、どうぞ上がってください」
商店街によくある、うなぎの寝床のような細長い作りの間取り。その廊下を案内されるまま、彼女は黙ってついていった。脱衣場に置かれた洗濯機の上に、通販のポリ袋に入ったままのスウェットスーツとボクサーパンツが置かれている。彼女はそれを眺め、呟いた。
「サイズぶっかぶか」
「僕が自分用に買い置きしてたやつですから。ないよりはいいかなと思って……」
「……ありがとう」
ここで初めて、相手は感謝の言葉を口にし、わずかに笑った。痛みで強張った表情ではあったが、彼は純粋によかったと思った。
「濡れた服はこのビニール袋に入れてください。ではごゆっくり」
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