第6話 即位式

「えっ?!」


 その場にいた三人は、揃って声を上げた。たちばなが頭を垂れ、畳に手をついた。


「申し訳ございません! 我が護衛府、最大の不覚にございます! どうぞこの橘を、思うままに罰して下さって結構です」


「橘、顔を上げて。いいえ、そんなことは今どうでもいい。それより……それで、兄上は一体どこへ? その人は、兄上をどこへ連れて行ったと? まさか……」


 橘はゆっくり顔を上げた。その顔が、歪んでいる。


「はい。官吏は申しました、『ほむらの国の王都へ、慈英じえい王子をお連れした』と。申し訳ございません、花月様!」


 花月は額に手を置いて天井を仰いだ。よりにもよって、即位式のこの時に。室内に沈黙が下りる。廊下から、宮廷の高官の、控えめな声がかかった。


「花月様。即位式のお時間が迫っております。どうぞ宮廷の儀式の間へ……橘様もいらっしゃいますね? どうかご一緒に。お急ぎ下さい。各国の招待客の皆様も、既に全員お揃いでございます」


 花月は気を取り直して答える。


「……分かったわ。今行きます。御簾みすを上げてくれる?」


 外で控えていた宮廷官吏が、無言で御簾を上げた。いつしか、外には弱々しい冬の太陽が昇り、薄水色の空が広がっていた。儀式の間に向かいながら、花月は背後を歩く橘に囁く。


「この件、放ってはおけないわね。護衛府の関係者も集めて席を設けてくれる? 大至急よ」


 橘は「はッ」と小声で言い頭を下げた。花月は急ぎ足で前を行く官吏に問いかける。


「今日の儀式には……焔の東仁とうじん国王も招待していたわね?」


「はい。他にも、近隣諸国の方は皆ご列席で……ああ、そうでした。あかつき鬼羅きら国王だけは、ご欠席にございます。なんでも、内陸に向けての進軍があるとかで」


「暁? ……そう。残念ね」


 花月が無感情にそう言うと、橘が納得したように頷いた。


「暁は武力に重きを置く強国ですからな……殊に、あの鬼羅国王はお若いながら、まさに飛ぶ鳥を落とす勢い。敵に回したくはないものですな。確か彼は、11年前の、陛下の35周年の祝賀会の際にご来訪頂いていたと思いますが……花月王女はご記憶にございませんか」


 橘の言葉に、花月は首を傾げる。そんな子供の頃のことなど、覚えているはずがなかった。


「さあ……どうだったかしら? あの日は招待客も多かったし、覚えていないけれど……きっと、父上に会いに来ていたのでしょうね」


 話はそれきりになり、花月は再び女官達に最後の化粧やら衣裳の調整やらをしてもらい、儀式の間に出た。広く開け放たれた宮廷正面の儀式の間では、各国の来賓客が勢ぞろいし、うやうやしく新女王の誕生を祝う。神官の祝詞のりとから始まり、形式に則った退屈な儀式は粛々と進む。壇上の高い位置で直立不動の姿勢を取った花月は、それとは分からぬように来賓客に視線を巡らせた。その中に、ふんぞり返って尊大な態度を取っているけばけばしい初老の男を見つけた。男は、俗物っぽい目で宮殿内を無遠慮に見回している、まるで強奪すべき宝物を物色する盗賊のように。


(いた! あれは……東仁!)


 花月の首筋を嫌悪が走る。東仁は、数年前に見かけた時と変わらず、怠惰で強欲そうな男だった。


(あの男は危険だわ。これからきっと、何か仕掛けて来る……絶対に、負けるものか!)


 儀式が終わった。花月は壇を下り、広い儀式の間を優雅に歩いて退出する。来賓客が再び恭しく頭を下げた。神聖な儀式の間での正式な即位式が終わると、今度は民衆への顔見せである。花月は女官達に再び衣服の乱れなどを直してもらって身支度を整えたあと、正殿の回廊に姿を見せる。宮殿の正門であるおおとり門は今日のために大きく開け放たれ、広い庭園には、新女王を一目見ようと、民衆が押し寄せていた。花月の姿を目にした民衆から、地鳴りのような歓声が上がる。


『女王陛下、おめでとうございます!! 瑞の新しき女王様!!』


 花月は彼らに微笑んで手を振る。空は澄んだ水色だったが、気温は低い。民衆は、寒さに鼻や頬を赤くして目を輝かせていた。花月は微笑みの裏側で、自身にのしかかる重圧を感じる。


(彼らを、守ってあげなければならない。私が、やらなければ。絶対に、失敗は許されない……)


 積もった雪の上を渡って来た冷たい風が、花月の頬を撫でていく。花月は寒さも感じずに、ただひたすら、民衆の声に応えていつまでも笑顔で手を振っていた。

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