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 公演の熱が冷めやらない。閉幕してから二時間が過ぎた今も、国立劇場の前には人だかりがあった。それを二階の窓から見やり、島崎彩はやや緊張した面持ちで控室へと向かう。


 世界的なピアニスト香美村孝幸のマネージャーとなってから三年、今でもこの瞬間が一番緊張する。この瞬間――公演終わりのファーストコンタクトのことだ。

 ドアを前に、軽く呼吸を整えようとしたところで、中から何かが割れる音が響いた。それでも拳を握った右手を止めることなく、ノックする。「入れ」とは言われないが「島崎です。失礼します」と断ってから中に足を踏み入れた。

 割れていたのは化粧用の大きな鏡だ。テーブルに誰かが置いた花瓶を投げつけたらしい。床は散々な有様だ。薔薇が散り、濡れている。水だけではなくプレゼントに持ち込まれたワインも瓶が半分になり、中身を吐露していた。

 肝心の主は倒れた椅子から一メートルほど離れた床に座り込み、だらりと力なく項垂れている。


「お疲れ様です、香美村さん」


 彩は「またか」という心持ちだったがそれを顔に出さないように事務的に声を掛けた。


「どうして泣くんだい?」

「それは泣く理由ですか?」

「悲しいから泣くんだ。あれは全て喜びの涙じゃない。どうして泣くんだい?」

「みなさん感動してらっしゃいます。それが悲しみだろうと、喜びだろうと、もっと他の感情だろうと、心を揺さぶられ、涙を流されているんですから、あなたのやっていることは素晴らしいですよ」

「素晴らしいかどうかじゃない! 感動とかどうでもいいんだ! 俺はただ、喜んでもらいたい、笑ってもらいたい、涙なんて流してもらいたい訳じゃない! そんなもののために音楽はあるんじゃないんだ!」


 世の中に“天才”と呼ばれる人間は意外と多い。もちろん多いといっても全体からすれば本当に僅かだ。けれど確実にそういった人種は存在していて、目の前で駄々をこねる子どものような醜態を晒している三十歳の男性もその一人だった。


 彼、香美村孝幸はピアノの天才でもあるが、中でも彼の奏でる旋律は何故か聴く人に涙を流させる。それは単純な感動とか、素晴らしい演奏の力とかといったものではなく、悲しみを想起させるのだ。

 人間誰しも自分の人生に後悔をしないことはない。何かしら傷を負っている。あの時ああしていれば、もしもああだったら、違った人生があったかも知れないし、大切な人を傷つけずに済んだかも知れない。そうでなくとも自分の力でどうにもできないことがずっと心残りだったり、間違った選択をしてしまったんじゃないかと悔しい思いがわだかまっていたりする。

 彼のピアノはそれらを否応なく心の表面まで浮上させるのだ。


 実際、外資系の証券会社で同僚たちが疲弊し、自分自身もいつの間にか感情が動くことすらなくなるところまで追い詰められていたところで偶然チケットが手に入り、耳にしたその旋律で、彩は一生分とも思える涙を流してしまった。

 こんな人生じゃなかった。こんなことがしたかった訳じゃないのに。どうして自分は目の下に隈を作って化粧もうまく乗らない顔を笑顔にすらできず、常にスマホで情勢を気にかけてピリピリとした空気で子どもにすら怖がられてしまうような、そんな歩き方をしているのだろう。

 小さい頃はケーキ屋さんになりたかった。近所に背が高くてまるでモデルみたいなパティシエのお兄さんの店があり、そこのガラスケースに並ぶおとぎ話に出てきそうな色とりどりのケーキが美味しくて、可愛くて、将来はそのお兄さんと結婚して毎日そのケーキを焼くんだと思っていた。それが一番最初に思い描いた未来だった。


 でも現実は全然違う。

 誰かを幸せにする。少なくとも自分を幸せにするような仕事ではなく、ただただお金という数字とニラメッコをし、契約というノルマを死神のように怯えて生きる日々だった。


 少しは癒やされるだろうかと思って参加したコンサートなのに、心の中は悲しみで満たされた。

 けれど苦しみや辛さは流れた涙によって体の中から消えてしまい、涙が落ち着いた頃には不思議とすっきりとした心持ちへと変わっていた。

 その日、彩は仕事を辞めた。厳密にはそれからすぐにメールで退職を申し出て、翌日には荷物をまとめていた。向かった先は香美村孝幸の事務所だった。


 それが三年前のことだ。


「少し、落ち着かれましたか?」


 甘ったるい缶コーヒーを一気に空っぽにした孝幸は、そう尋ねた彩を一瞥すると溜息を一つ吐いた。


「例の件で君を一足先に日本に行かせたまでは良かったが、何だあの代役は?」

「山田ですか?」


 ブライアン山田は日系ブラジル人の若者で、普段は楽器や荷物の運搬や車の運転、下見のための会場撮影やホテルの予約など、雑用を任せている青年の一人だが、今回一時的に孝幸の傍を離れることになった為、仕方なく彼に身の回りの世話や事務手続きなどの一切を任せる必要があったのだ。だが孝幸はどうも気に入らなかったらしい。


「有能とは言いませんが、最低限のことはやってくれたのではないですか? それに何より絶対に嫌と言わないでしょう、彼」

「わからなくてもニコニコと笑顔で済ませようというのは最悪な手段の一つだ。俺はヘラヘラと笑っていれば何でも問題をやり過ごせると思ってる奴が一番嫌いだ。そしてあのブライアンはその一番嫌いなタイプってことだ。退職金支払っておいてくれ」


 わかりました――と答えつつ、これで半年の間に辞めさせた人間が五人になってしまったと、心の中で溜息をついた。


「そんなことより、見つかったのか?」


 何が、とは返さない。


「はい」

「どこだ?」


 彩はスーツからスマートフォンを取り出すと、そこに施設の写真を映して見せた。パンフレットを撮影したものだ。自然の多い山の一画に白い三階建てになった建物があり、緑とオレンジの文字でこう書かれていた――月光の園。それは養護老人施設の名前だった。

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