第108話 見晴らしの良い庭園
白い船、スキーズブラズニルはここ数日、シラクサに続く港に停泊していた。上からボロなどを被せて目立たないようにするのは、盗難対策のようなものだ。最新式の高速艇ともなれば、ヒルデダイトの官僚たちも目を輝かせる代物には違いない。見つかってはいろいろ厄介なことなるが、ボロを被せたところで時々日光に晒しておかなければ今度はカビが繁殖するのだから、どちらにしても厄介なことだった。
ボロを剥がして白い船体を日光に晒せば、海風にはためくボロが僕の手の中で暴れる。空は晴天。雑用をしていた僕はしばらく時を忘れて海を眺めた。
僕とユッグの二人で行商の真似ごとを始めて一ヶ月ほどになるだろうか。これからそんな生活がいつまで続くのかと思えばため息もでるというものだが、この時ばかりは僕は何も考えない。
海から押し寄せる波の音だけを聞いていた。
こんな時間が僕には少し嬉しい。
僕がそれに気がついたのはそんな時だ。
「赤い軍船?」
それを思うと、僕はすぐに船を隠した。海の沖から近づいてくる三隻の軍船はヒルデダイトの最新鋭艦だ。「戦争でもやるつもりかな?」と思い当たると、いつまでも眺めているわけにもいかない。
「フェンリルさんは?」
僕はすぐに、船の外に声を投げた。だがまともな返事があるわけもない。ナタは釣り竿をもって座り込んでいたし、その横で魚を焼くリッリは団扇を手にして汗を流していた。さらにその横で魚を食うシェズ。
「ちょっと、何やってんの?」
と聞けば、シェズがほふほふと頬を膨らませたまま、
「船の見張り」とだけ答えた。
「ヒルデダイトの軍船が来てるの見てよ。あそこ」
僕がナタに声をかければ、
「慌てるな」
とナタは水面に集中したまま。
そんなわけで、僕は走るしかなかった。
雑木林に面した屋敷。そこは招かれざる者には廃屋にしか見えない造りになっている。裏に回れば、子供の遊び場のようなもので、テーブルには削り出したゲームの駒が勝負の行方を占ったまま。招かれざる者ならばそこで引き返すことになるわけだが、僕の目には積み上げられた椅子の上に毛並みの良い尻尾がひとつ見えていた。
「フェンリルさん?」
呼びかけて起き上がるなら、それが彼女だ。そうでない場合、それは凶暴な狼に違いない。
「ヘルメスとナタ、リッリもお揃いでどうしたわけじゃ?」
言われて僕が振り返れば、結局みんな来ている。
「護衛だし」とナタが言えば、
「緊急事態りや?」
リッリは団扇で首筋をあおぎながらだ。後れて、まだ口をもぐもぐさせながらシェズが追いかけてきていた。
僕がフェンリルを探した理由は、「ヒルデダイトの軍船が来ている。戦争でも始まるんじゃないの?」という心配があるからだ。
「ヒルデダイトの軍船?」
フェンリルは昼間からひなたぼっこでもするかのようで、これまた積み上げたテーブルに脚を上げて寝入っていたところだっただろうか。これから行商にでも行こうかという荷物をテーブルに引っかけたまま、彼女の声はまだ眠っている。
「寝ている場合じゃないよ。オッソって人がしびれをきらしたんじゃない? 財宝を要求しているのに、まだ財宝が送られて来ないって」
僕が心配するのはこの成り行きゆえだ。
「財宝など送られてくるわけないわ」
「フェンリルさんが手を回してエトルシアがシラクサの要求を呑まないようにしているじゃん。ヒルデダイトからしてみれば、エトルシアの財産をシラクサを通して巻き上げたいところだろうけどさ。それができない状態が続いていて——」
「まあ、わしはその問題を解決するように依頼されておるからの。要求に応じられては困るわけじゃ」
「それ。だから、オッソって人が無理矢理要求を通すために、武力行使とかで、ヒルデダイトから軍隊を呼んだんじゃないかって思って」
「ヒルデダイトが自ら武力でエトルシアに攻め入ることはなかろうよ。ルナアルテミアスとやらが平和活動を口実にして各国の姫を集めておる。そのルナアルテミスの顔に泥を塗るようなものよ。武力をちらつかせるくらいはするかもしれんがの。オッソとかいう輩をじらすのも楽しいわな。まあ、そろそろこちらから仕掛けようと思っておったところじゃ、心配いらぬ」
フェンリルはのんびりとここで大欠伸だ。
「心配いらないってどういうこと? ヒルデダイトの軍隊にどうやって対抗するつもり?」
「わしらが相手にするのはヒルデダイトの軍隊ではなく、まずはオッソという男じゃ。あやつを無視してヒルデダイト軍が動くとも思えぬ」
「そのオッソって人が軍隊を呼んだんでしょ?」
オッソを相手にするのと、ヒルデダイト軍を相手にするのは同じことではないのか?
僕はそう考えたが、
それは少し違うのだとフェンリルは言う。
「オッソとかいう輩は軍隊ではなく悪霊を使っておる」
「悪霊?」
「スキュラーという悪霊じゃ。これは軍隊のように兵糧を食いつぶすことなく、噂を流すだけでいくらでも人間を恐怖でかりたてる。オッソにとっては都合のよい兵隊のようなものじゃ。このスキュラーという悪霊が生きておる間はヒルデダイトの軍隊は動かんと見ておる」
「悪霊ってただの噂じゃなかったの?」
「武器も同じよ。ルナアルテミスが国々を滅ぼすのに二〇〇人の戦士を使うというが、実態は誰にもわからぬ。利用するのが怪物でも同じことじゃ。悪霊でもな。要は武器として認識できれば良い」
「悪霊が武器? って、そのスキュラーってアルキメダインさんたちが作ったお伽噺じゃないのさ」
「オッソは良い拾い物をしたと喜んでおるよ。ルナアルテミスは武器をもっておる。オッソも武器をもっておる。こうなると、さてどちらの武器が評価されるものか。ここはオッソの踏ん張りどころじゃ」
「踏ん張りどころ?」
「聞いた話じゃと、ヒルデダイトのベリアルという男は実力や実績を特に評価するらしい。それがつまり今のオッソの立場になっておる。こんな遠い国に派遣されておるわけじゃ。オッソが手に入れたいものはそのようなところにある」
「実績かぁ」
「金品を巻き上げるに留まらず、国を滅ぼす悪霊があるなら、それを見せびらかしたいと考えておる」
「どうしてそんなことがわかるのさ」
「ぬしはわしのこの耳が見えんのか。わしの耳なら一キロ先の足音も聞き分けられるというのに」
「普通の人はそんなことできないんだってば」
「まあ見ておれ。ヒルデダイトに対抗するにも、オッソのこの悪霊は使えるわ。わしが少し魔法をかけてやろう」
フェンリルはそれを言うと、口元に笑みを浮かべていた。
もし僕にも狼の耳があれば、この時、港に出て軍船を迎えるオッソたちの話し声が聞こえたかもしれない。
つまるところ、
「悪霊とはよく言ってくれたものです。ちまたを震え上がらせる悪霊の正体こそ、このオッソと言えるでしょう」
こう言ったのはオッソだ。
ヒルデダイト文官の地位にあるオッソは、高位を示す赤い意匠の衣に身を包んで丁重に軍船を迎えていた。
彼が自己紹介するとすれば、今や悪霊のエピソードは外せない。
オッソにとっては自慢話のひとつ。長年管理職をやってきたオッソにとって、戦士の武勲などはほど遠い功績だった。管理職というのは管理できて当たり前であって、評価されることは滅多にない。髪の毛が薄くなるまで働いてきたが、彼が手に入れたのはシラクサを監督する役職だけ。それだって上司に媚びを売ってやっと手に入れた地位だ。だが、悪霊の評判は上司によって与えられたものではない。
今や近隣の人々はルナアルテミスを怖れるのと同じくらいに悪霊スキュラーを怖れている。
これはオッソの活動によって、オッソ自身が勝ち得たものも同じだった。
だからルナアルテミスを始めとする、アンバーリッター連隊の軍船団がシラクサに寄港したこの時。オッソはまっさきにこの話を持ち出した。目の前に豪奢の金髪の麗人、ルナアルテミスが居れば彼女の気を引こうとするのは男の性だろうか。
「連隊長に道を開けろ」
船から荷を下ろす戦士たちは、そのかけ声で道の端に並んでいた。まるで猛獣の通り道のようで、同じ場所に立つオッソもまた一歩退いてしまう。走ってくる熊の前に身体が出てしまえば、オッソなどひとたまりもなく潰されてしまうだろう。
誰もが彼女の通り道を塞がない。
そして歩いてくるのは、美女ではなく男。
ルナアルテミスは狩り以外には興味がないらしく、代わりにオリオンという司令官がアンバーリッター連隊の指揮をとっていた。
オッソは、このオリオンという男にまずは挨拶をしなければならない。
「これはこれはオリオン様、ご無沙汰しております。エトルシアの留守を預かっているオッソと申します。クレタ島の件は如何だったでしょう。ギリシャの貴族どもが反乱を企てているという噂でしたが。いえ、聞こえるところでは、ルナアルテミス様がクレタ島の英雄になられたとか——」
「その話をするとルナアルテミスが不機嫌になる。俺とあいつで意見が対立するところもあって、その話題は避けているところだよ」
オリオンは好青年さながらに、オッソの肩に手を回していた。「エトルシアのほうはどうだい? 俺たちがいない間に何か変わったことがあったかい?」とは挨拶のようなもの。
「ええ、ええ。ルナアルテミス殿がクレタ島の英雄ならば、私はシラクサの悪霊とでも名乗りましょうか」
オッソは自らそれを名乗っていた。どうせなら、吟遊詩人が語りやすいようにケニングのようなものを名前につけてもいい。
そしてオリオンの背後に美女が見えるならば、オッソの声には力が入った。
だがこんな言葉ではルナアルテミスは振り向かない。
「クレタ島のことはもうどうでもいい。ただ怪物どもに荒らされただけだ。私は英雄ではない」
ルナアルテミスは、オッソを見向きもしない。それなのに、金髪の先を噛むような彼女の横顔に、オッソは見惚れてしまっていた。
人間は最高の美を彫像に刻もうとする。それは彫像だからこそ、人間が語りかけても振り向かないものだ。相手の機嫌を見て態度を変えるなんて発想すらないのが、彫像というもの。オッソはそこに美というものを見た。
そんな美女の視線を一身に集めることができるのは、この世界ではベリアルやアザゼルくらいなもの。オッソが羨む階級がそこにある。
「ルナルテミス様、海岸を見下ろす高台に庭園を造ったのです。あなた様に似合う薔薇の花。園が広がる場所に白いテーブルと椅子を用意しております。あなた様が寛ぐのに相応しい場所かと」
準備周到。これがオッソの根回しだ。
「その庭園とは、あそこのことか?」
オリオンが首を上にあげていた。海岸を一望できる場所だからこそ、船からも見えている。
「上からの眺めは絶景でございます」
「あそこには、シラクサに仕える大臣の屋敷があったはずだが」
「そんなものは、もうありませんよ。犬小屋なら川縁に移しておきました」
ここは笑うところだと、オッソは部下を見渡してみる。
笑い声はあっただろうか。
さて、
港を眺める庭園に通されたルナアルテミスは白いテーブルを前にため息をついていた。
「いえいえ、クレタ島を救ったのは間違いなくあなた様なのです。間に合わなかっただけではありませんか。クレタ島の住人が知らなくとも、我々はそれを知っております。皆があなたを英雄だと讃えておりますれば」
オッソは赤い神殿装束姿の護衛を伴って白いテーブル越しのルナアルテミスを見た。
オッソがここで「悪霊」を持ち出したのは、自己紹介をするためだけではなかった。薔薇の花が似合うとは言った手前で、急造の庭園に咲く花がなかったことも理由としては大きい。話題を逸らす必要もあった。
「わたしもルナアルテミス様にあやかりたいものです。わたしはこの野蛮な国を文明国に変えたい。それがわたしの夢でございます、悪霊の夢と申しましょうか」
ルナアルテミスのため息。その先で、参謀のオリオンだけが答えてくれていた。
「そう言えば、クレタ島の件で我々がここを離れている間に、シラクサとエトルシアの間でいざこざが起こっていると聞いた。エトルシアはもともと我々が次の目標にしていたところだし、この地の平定のためにも早急に対策したいと思っている」
これがアンバーリッター連隊が今日シラクサを訪れた理由だった。ついてはオッソに雑用でもおしつけようと言うのだろうが、
「お待ちください」
慌ててオッソは声をあげた。「悪霊によって、エトルシアはすでに制圧したも同然でございます」アンバーリッター連隊の出番はすでにない。むしろ手を出されては困る。
「制圧?」
「はい、あの国はすでに私の手中にあります。ルナアルテミス様が行くまでもないこと」
ルナアルテミスがエトルシアに行けば、その興行は誰もがルナアルテミスの伝説として語り継ぐところになるだろう。そうなってはオッソの功績はない。ヒルデダイトの歴史にオッソの名前が残るとすれば、ここしかなかった。
「悪霊っつーのは?」
アンバーリッター連隊のやり方とオッソのやり方は違っている。オリオンは悪霊の正体について知らなければ、話の格子がわからないと首を傾げる。
「シラクサとエトルシアは過去にいがみ合っていた時期がありました。エトルシアの王がシラクサの姫を殺したも同然、そんな事件があったのです。そのことを知った私はエトルシアに謝罪をさせようと働きかけてきたのです。そこで私が作ったのがスキュラーという悪霊でして、この悪霊があるからこそ、この悪霊を鎮めるためにエトルシアが謝罪に応じるという話になっているのです」
オッソには笑いがとまらない話。
「謝罪ねぇ」
「我々の中で謝罪と言えば、金品での賠償のこと。ただし謝罪をしたからと言って、悪霊が消えるとは限りませんから」
「その謝罪の話は進んでいるのかい?」
「いささかトラブルにもなっていましたが、さきほどエトルシア側から賠償の要求に応じるという手紙を受け取りました。なんとも丁度良いタイミングです」
「賠償させてどうする?」
オリオンは顎に指をあてて「ふうん」と考え込む。
「世界を平和にする方法は、何も武力に頼るものだけではありません。私がこのまま国を盗ってごらんにいれましょう」
「どうやって?」
「一度賠償金を払えば、もう逃れる術はありません。次の要求を呑まなければ、そもそも賠償金を払った意味がなくなります。そして指導者はそのような失敗を認めたがらないものです。次の要求をのませれば、さらに次というわけです。最後にはエトルシアは私の意のまま」
「そんなに上手くいくかね?」
「いずれはお互いが納得する形で、最終的には私が彼の国の全てを制御するのです。そうなったら邪魔者は歴史から消すだけです。後で、私の意に反してエトルシアが反乱することなどできましょうか」
オッソは、「戦争はなくなりますな。有事の際には周辺諸国は私の命令で団結するでしょう」と説明した。もちろんこれはルナアルテミスに対する説明であって本音ではない。
ヒルデダイト帝国というのは皇帝から奴隷へと続く階級によって世界を支配する国だ。弱肉強食が絶対の理であって、オッソがエトルシアをのっとったあかつきにはエトルシア人民はすべて奴隷となり、オッソが事実上の王になる。
「なるほどね」
オリオンは嫌な顔をしたが、それを言葉には出さなかった。「そういうやり方もありかもしれない」とむしろ興味を持ったことだろう。それはオッソのやり方を認めたか、あるいは別の理由があったのか。
オリオンはルナアルテミスの横顔だけを見ているようだった。
「戦わなくていいなら、それに乗ってみるか。めんどくさくなくていい」
オリオンの真意はわからない。
ただこれはオッソが安堵する結果になったと言っていいだろう。
アンバーリッター連隊はエトルシアには手を出さないと言う。
国を盗るチャンスはそうはない。
本国で戦果をあげる同僚の噂を聞く度に、どれだけオッソは嫉妬しただろう。敵将の首を盗る、あるいは国を盗るのはいつも騎士の栄誉だった。だが今回は違う。エトルシアとシラクサにあった歴史的な軋轢。すべては偶然のはずだが、オッソに幸運をもたらしていた。
その日にあったエトルシアからの返事も幸運だ。
もしかすると、エトルシアは、この日のヒルデダイトの軍船を見たのかもしれない。勝手に勘違いしてルナアルテミスに怯えている。慌ててオッソに返事をよこしたとしても、それはそれでオッソの手柄だ。
最高のチャンスがオッソの前に巡ってきていた。
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