第100話 見えない剣
ナタが動けないでいる。その様子を見ていた僕は咄嗟に身構えた。
「あれって、歌声が聞こえてるようには見えないよ? 歌声なしで怪物が襲いかかってきた?」
「島の向こう側で見えないわ——」
ミツハも同様に片足を船の縁に上げていた。
「向こう側に何かある?」
「誰かいる」
ハヤブサニケの様子を見ながら、ミツハはニケを呼び寄せるための口笛を用意する。おそらくミツハはニケが上空から見ているものを共有する感覚があるのだろう。
そこには何があるのか——。
「他の人はナタを守るように動いている。やっぱり何かあったんだ」
僕はそれを確信していた。
「歌聞こえてんじゃない? ナタがもぞもぞしてるぞ」
シェズもついにその時が来たと立ち上がった。
この瞬間の状況は最悪。
つまり、ナタの船が囲まれていた。
当の本人であるナタは唖然とするしかない。
歌はなかった。だがそれを言おうとしても、周囲には耳栓をした船乗りだけだ。ナタからは僕達はまだまだ遠い。為す術がない。
敵は、おそらく「何をしに来たんだ?」あるいは、「止まれ」と言ったのだと思う。だがナタには答える言葉がなく、それを仲間に伝える手段がなかった。船乗りが状況もわからず船を進ませた結果。
囲まれたときには、「ぶっ殺してやる」という異国語の声が溢れるだけ。
相手はセイレーンではなく、ぼさぼさの髪と衣装で武装した男たちだ。海をも泳いで渡る屈強な海賊たち。それらが餌に群がる犬か猫のように近づいてきた。
本来海賊はお宝を奪うものだ。街を襲撃し、あるいは商船を襲撃して荷物を奪う。それが今回はどうしたことか。
向こうから生け贄みたいなのが縛られて来たことになる。
よく見ると、大きな荷物も見えるだろう。ナタの船は襲撃者を誘い出す役目をしているから、一応荷物も見栄え良く積んでいた。
「これ、違うって」
ナタは足をバタバタさせた。縛られていて、足しか動かせないから、逃げようにも逃げられず、
そうしていると、
「こいつら俺たちをなめてんのか」
「どっかの街の連中が略奪した食料を取り返しにきやがったかと思ったぜ」
「おどろかせやがって」
と、とがった髭の集団がぞろぞろと出てきて、「ぼっこぼっこにしてやんぜ」とナタに近づいてくる。
そこは離れた船の上。
僕はやっと状況を理解した。
「セレイーン?」
そこに今、セイレーンが来ているとすれば、美しい歌声と美女たちの誘惑があるはずだった。
「あれが?」
とはミツハの意見だ。
「ああ、ナタのやつ、戯れてる。海の精霊たちとな」
シェズは得意げだった。「お前も見てみろよ、あんなに楽しそう」と指差せば、そこに真実がある。
「ねえ、女の子いる? シェズには精霊が見えるの? 僕にはそんなの見えないけどさ」
言いかけておいて、僕には、
だんだんと見えてくるものがあった。
「女の子なんかいるわけないだろ。現実を見ろよ。精霊が女の子だっていつから勘違いしていたんだ?」
「え? なんか違う。むさ苦しい男ばっかり。ってことは、襲われてる?」
それが僕の結論。
思ったのは、僕だけではない。
「髭ずらの妖精たちと、じゃれあっておりや――」
赤頭巾はこの馬鹿げたが遊びに飽きたとでも言うように少し揺れた。
「あれ、セイレーンじゃないわ。ただの海賊。山の上に弓矢を練習した跡があるわ。汚い洗濯物もね。どうもおかしいと思ったのよ」
ミツハの分析では、敵は岩礁を拠点とする地元の海賊
「海賊なの? でもこの辺りにセイレーンがいるって——」
「欺されたんでしょ。どこまで間抜けなのよ。ヘルメス」
「間抜けじゃないよ。この話にのりのりだったのナタなんだからね」
僕にだってわかることがある。
「見よ。ナタがまるで子犬のようなりや。ぷるぷるしてり」
赤頭巾が実況——。
いや、次の瞬間、大きく揺れた。
「ぶははははは」
笑い声だった。「うばぁ」と吐くような笑い声に続いて、苦しそうに息を継ぎ接ぎして、また、「うぼー」という笑い声。
ガンガンと叩かれて揺れる船に、リッリもミツハちゃんも必死にしがみつくしかできない。
「うもー」と身をよじりながら、笑い転げるのはシェズだった。それで船を叩くものだから、僕も船にしがみつくので精一杯だ。
「ちょっと何してるんですか?」
僕は忠告するがが、「うひひひ」と笑い転げる彼女に届く様子はない。
これを取り押さえるのに使える人員は限られていた。
「ヘルメス何とかしないさいよ。あたしはナタを助けにいくから」とミツハちゃんは言うものの、小舟が横転するのがすぐだ。
だって、シェズ。
ガンガンッ。
叩いては、
「ひひひひひ」
と腹を抱えて、
ガンガンとまた拳で船を叩く——。
僕があれに当たれば、骨の一本や二本はすぐ折れると思う。ちなみに、船の側面がその時割れた——。
「ちょ、沈みりや」
赤頭巾も慌てる大惨事だった。
「あ、ごめんっ。くひひひ」
シェズは言うが、少し顔をそらすとまた、「いひひひ」と笑い出しては、「やべえ、あいつ、今スーパー貴族を越えた。笑い殺される」と船を叩いた。思い出し笑いだった。
瞬間、くるりと海上で横転する船。
ミツハだけは飛び立つ鳥のように跳躍していたか。
その瞬間、僕は水の中だった。
「ぷひひひひひ」
この笑い声は、ナタにも聞こえていただろう。縛られてどうすることもできず、助けを求めるべく視線を向けると、さらに笑い声が大きくなったに違いない。
海賊たちも驚いただろう。
遠くに船があって、そこで大笑いしている奴がいる。しかもなぜか、その船は沈み始めた――。
「あ――」
ナタは思っただろう。最悪な結果だ。
「誰か縄を解いてくれ」とナタは言いたいだろうが、周囲にいた男たちはもうそこにはいない。
「おう、船から下りろ」
海賊たちは脅迫したが、降りる場所などあるはずもない。最後は死ぬか船から蹴り落とされるかだ。代わりに船へは荷物を物色する海賊たちが乗り込んでくる。
「あ、やべぇ」
ナタは本気で終わると思っただろう。
その後のことを僕は後でナタから次のように聞くことになる——。
「この縛られている奴。こいつ何か悪いことでもしたんですかね?」
ナタはそんな声を聞いた。もちろん、何処の言葉かはわからないし、何を言っているのかさえわからない。その後の彼らの会話が卑猥でおぞましい内容だったことも知らない。
ナタは彼らが何を喋っているのかを詮索するのをやめた。結局はチャンスがあれば、その時に動くだけだ。だからナタが聞いていたのは、波の音だけ。
岩礁で荒々しく立つ波が飛沫に代わって、再び海面を叩く。その繰り返しが世界に延々と響く海だった。
ザザザ……。
小さく海に軌跡を描いて近づいてくる小舟が三隻。
曇り空の下で、より一層暗くなった瞬間、ナタの船に這い寄るように近づいていた。
ナタがそれに気がついた時、見えたのは船から大きく身を乗り出す黒い人影だった。一隻だけが速度をあげて突撃してくる。加重をかけて角度を変える船で接近してくる。乗っていたのは闇から切り取られた怪物、人影は黒いボロで闇に同化する。
それが人影だとわかったのは、銀の仮面をしていたからだ。
襲撃者。
彼らの船がナタの乗る船と併走して初めて、海賊たちも異変に気がついた。
後になって考えれば単純なことだった。
海賊が海賊に襲撃された。
それがこの瞬間のことだ。
黒いボロの剣士が船を飛び移った。跳ね上がる波飛沫は蛇の頭のように大きく首をもたげて海に戻った。蛇だと思えたのは、そればかりではない。黒い剣士のすり切れたボロがまるで無数の蛇の頭のようでもあるし、何よりも顔だ。
剣士の顔の銀の仮面表面を蛇がうねっている。
蛇が絡み合う彫刻のある仮面だった。
「そいつを殺せ」
海賊たちはいきり立った。「全員でかかれ」
「海に落とせ」
なにしろ相手は蛇の頭をちらつかせる、おぞましい人影だ。先にやるか、やられるかという世界になった。
ナタが不思議に思ったのは、剣士が隣をすれ違った時だ。
「誰か、あいつを海に落としてくれ」
泣くように叫ぶ海賊が目の前に居る。
何がどうおかしいかと言えば、ナタを囲んでいる海賊たちだ。とうに剣士は目の前にいるのに、彼らは微動だにしない。
剣士は細身だった。太股から足先を出す仕草は、貴族の女性を思わせるような男性にない動きだった。腕っぷしのいい海賊たちとは体格差もある。このような相手だから、男たちからすれば一斉に飛びかかり自慢の力で取り押さえればそれで終わるはずだった。
それなのに。
海賊たちに囲まれている剣士は、呼吸ひとつ乱さない。背後を取られているのに振り返ることもない。
剣士が歩けば、時間が止まるのか、あるいは蛇の呪いがその場所に残るのか。
ナタは観察する。
剣士を前にした海賊の荒くれ者が立っている。ただ立ち尽くしている。彼らはナタのように縛られているわけではない。なぜ突っ立ったまま惚けているのか。
そしてナタは知った。
生きた人間がもういないことを知った。
海賊は立ったままだ。
ナタの右手に三人。どの男も立ったままだが、すでに呼吸はない。つまり、立ったままで死んでいた。
「誰か動いてくれ」
お宝を抱えて生き残った海賊は蒼白になって叫んだ。叫ぶのは自身が動けないからだ。
「俺はいつ蛇にかまれたんだ?」
変な傷がある。
海賊のひとりはそんな風に言った。だが次には絶叫した。
「足が動かねえ。足が、石にでもなっちまったみてえだ」
これでは人間の形をした砂や石と同じ。
意識が飛べばそうなるだろう。
そして男に近づく蛇の剣士は黒いボロで顔を隠して再び闇に隠れる。
動きが見えなかった。
剣だ。
ナタは見た。
雲が薄くなって、やや光が戻った瞬間に見えたものがある。
ナタは息をのむ。
闇と同化する銀の仮面をした、それは怪物ではなく剣士。彼女が持っている剣が刹那閃いた。
船上の海賊を全て石に変えた剣士が持っていたのは、
クリスタルが投影する七色の輝きを持つ細い剣だ。眩しい輝きなのに、まるで見えなくなる瞬間がある。材質は銅か鉄か、ナタが思うのは、それは星を削って鍛えた幻にも思える剣——。
見間違えるものか。
ナタは半ば確信していた。
この時代において、魔法を纏う剣はめずらしい。
たいていの剣はアヴァロンの炉から生まれた魔法剣。
人はこれを、アマノツルギと呼ぶ。
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