夜の森を抜けて

街田あんぐる

友情が閉ざされるとき

 背後の扉が開いて、ろうそくの火が揺れる。「シル」と老いた男に声をかけられ、青年はぴくりと肩を震わせた。それでも執事として、磨いていたシルバーのカトラリーを取り落としはしない。

 ろうそくを灯していたことを咎められるだろうか。節制と倹約が顔の皺に刻み込まれた執事長に向き直る。

「なんでしょうか、執事長」

「……シル。案じる気持ちは分かるが、旦那様は本気で復讐を望んでおられるわけではない」

「しかし、あのような宣言を……!!」

「あれは、この家を守るためのお考えなのだよ」

 シルは誇り高き執事長・ネイズの顔のうちに苦渋を見た。

「シル。君ではないだろうね」

「……!!」

 黒い髪の青年は、髪と同じく黒い虹彩の瞳を驚愕に見開いた。


 ——お屋敷に、どこの生まれとも分からない子どもを入れるなんて……。


 かつて盗み聞いた陰口が、シルの彫りの深い顔を曇らせる。

「ああ。シル。私が悪かった。疑っているわけではない」

「……はい。もちろん私ではございません。旦那様……エスフィヴ様からこれほどのご恩を受けておきながら、そのような恐ろしい企みなど……」

「分かっている。すまなかったね。心を落ち着けて、身体を休めなさい」

 ネイズはテーブルに立ててあったろうそくを消し、同時に彼自身の感情も老練な無表情の奥へと隠してしまった。


 エスフィヴ様が馬車の事故でお亡くなりになった。その一報が屋敷に届いた瞬間、すべては忙しなく動き出した。葬儀の手配。招待客のリスト。早馬を飛ばす。どなたを優先に?

 ネイズのいつになく厳しい叱責が飛び、シルも事態の重大さを痛感した。


 ——くれぐれも失礼のないように。失礼があっては、カシシーヴ家の名に傷がつく。


 貴族に仕える者として、最も優先すべきこと。

 一歩間違えば大混乱に陥りそうな慌ただしさだった。ネイズ、そして本日よりカシシーヴ家の若き当主となったリュヤージュ様の手腕で、屋敷の機能はぎりぎりの瀬戸際で回っていた。

 シルは夜、リュヤージュの執務室をノックした。今夜はお休みになれないのを承知で、ただ一言を伝えたかった。リュヤージュは疲労の滲んだ顔で、ドアを開けたシルに向き直った。

「リュイ、ただ一言」

「シル。愛称で呼ぶのはやめてくれ。今日から私には、当主として振る舞う責務がある。きみと親しく呼び合うわけにはいかないんだよ」

 一息で言い終え、深く嘆息するリュイ——いや、リュヤージュ様——に、シルは胸を衝かれて言葉を飲み込んだ。当然の言いつけだった。いつか身分の差に直面することは分かっていた。それでいて、シルはリュイのことをいつまでもかわいい弟分だと思い込んでいた。

「用件はなんだ」

 19歳にして重すぎる決断を背負い込み、リュヤージュはいらだちを隠す余裕もないようだった。

 シルは言葉に詰まり、身体を固くした。勘違いしていた。場違いだった。自分のような人間が、一言でも話しかけていい存在ではないのだ、リュヤージュ様は……。

「なんだというんだ。……シル? それは」

 リュヤージュの目が、シルの片手に包まれたペンダントを見つけた。

 ランプの灯りがペンダントに届き、貴重な虹色の貝を用いた装飾がちらちらと瞬いた。シルがそれを差し出すと、反射光が天井に神秘的な模様を描いた。

「リュヤージュ様。この度は心よりおよろこびを申し上げます。私から差し上げられるものはこれしかございません。リュヤージュ様とカシシーヴ家の永き繁栄を」

「しかし、シル、これはきみの」

「私から差し上げられる唯一の品でございます」

 駆け足のような早口で暇乞いをし、ペンダントを押し付けて、シルは執務室を出た。

 「お慶び」など言いたくなかった。リュヤージュ様にとっては父が死んだ日であり、「カシシーヴ家当主」としての責任すべてを背負わなければならなくなった日なのだ。

 相手が「リュイ」ならよかった。慰めの言葉もかけられたし、手を握って励ますこともできた。シルはそのつもりでノックをしたのだった。だが「リュヤージュ様」は、一介の執事であるシルとの間に越えられない線を引いた。

 シルの心の中に大嵐が吹き荒れた。数ヶ月しか歳の離れていない、かわいい弟分。身分の差は理解していた。リュイと親しい自分に向けられる陰口も承知していた。それでもリュイが自分を慕ってくれることが支えだった。リュイが気にしないと言ってくれるから、身分が違っても「友達」だと思えたのに。

 自分は取るに足らない男だから、大切な友人に慰めの言葉もかけられない。顔が燃えるように熱くなる。恥ずかしさに細かく唇が震え、顔を覆ってできるだけ遠くに走り去りたかった。

 リュイは優しく聡明で、自慢の友人だった。そしてもう、自分が声をかけられる存在ではない。シルの心の大嵐はひょうの交ざった吹雪となり、ズキズキと痛みを伴ってシルを責めた。

 使用人に与えられた自室に戻る。簡素な部屋にシル個人の持ち物は少ない。あのペンダントだけが、贈り物にふさわしい品だった。

 「お慶び」として渡すつもりはなかった。「お守り」と言いたかった。大切な弟が、これからの運命を切り拓いてゆけますように。でも自分は使用人なのだから、「お慶び」を述べることしか許されない。

 泥のような疲労を感じてベッドに潜り込んだ。泣きわめく力もなかった。枕に数滴の涙が染み込んだ。リュイは今夜、一人で泣くのだろうか。そう思ったら、また数滴がこぼれた。そしてシルは引き込まれるように眠りに落ちた。

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