第5話
「……あれ、ここ、どこ?」
鉛でも乗っているかのように重たくて重たくて仕方がない瞼をゆっくりと無理やり開ける。
するといつもの朽ちかけた雨が漏れ放題のボロボロの天井ではなく、多少の古さは感じるが少なくとも穴は開いていない雨漏りしなそうな天井が私の目に映った。
寝起きで頭が動いていない私は今見ている天井も、天使様も悪魔も、あの聖堂の惨状すらも全て夢で今もその続きを見ているのだと思い安堵した。
だが、背中に当たる柔らかな感触だけ妙にはっきりとしていて、いつも眠っている干し草にではなくベッドで横になっていることに気づいた私は大慌てで飛び起きた。
以前、うっかり掃除中に主のベッドで眠ってしまい受けた酷い折檻を思い出したからだ。
あの時受けた折檻の傷は跡になっていて寒い夜は未だに疼き、眠れない時がある。
疼く傷はこれだけではないが。
とにかく誰かに見つかる前に起きなければ。
慌てて勢いよくベッドから飛び出そうとした際にシーツに足を取られて顔から落ち、情けない声を上げてしまった。
「あらあら、大丈夫ですか」
「アハハハハハ、変な声出たね」
痛む鼻を抑えながら不味いところを見られたと思い、観念して床に座り直す。
だが、声の主はご主人様でも奴隷仲間たちでもなかった。
夢の中の存在であるはずの二人、心配そうに顔を覗き込んで来る天使様と腹を抱えて笑う悪魔が声の主だった。
「夢じゃなかったんだ……」
夢かどうかを確かめるのに頬を抓る必要は無かった。
鼻からのジンジンとした痛みが、私に全てが夢では無かったことを訴えてきているからだ。
何だか血の匂いが鼻腔の奥で燻ぶっている気がする。
「あの、私はどうなったんですか? ご、ご主人様は?」
しどろもどろになりながらも二人に尋ねる。
二人が現実の存在であるのなら、あの夢と思った惨劇もご主人様にしてしまったことも現実と言うこと。
あれだけは夢であった、二人の答えがそうであるように願うが恐らくは違うだろう。
未だ笑いが込み上げてくるのか、呼吸困難一歩手前でまともに話せない状態の悪魔を押しのけた天使様が詳細を教えてくれた。
私が、正確には悪魔の入れ物と化した私がご主人様を殺した後、再び体に入った悪魔は聖堂を後にして屋敷に忍び込んだ。
派手な格好や言動からは想像できないのだが、屋敷内にいた人間誰一人に気づかれることなく悪魔は一番金目の物がありそうなご主人様の部屋に侵入したらしい。
そして一通りご主人様の部屋を漁り、絵の後ろに隠されていた金庫を見つけた悪魔は幾らかの金と机に置きっぱなしであった財布を失敬した。
そしてそのまま屋敷から脱走し、街の酒場や娼館が立ち並ぶ怪しい裏通りの安宿に一先ず身を隠した次第らしい。
「あーしに掛かれば金庫だろうとドアだろうとみーんなビッチの股より簡単に開いてくれっからね」
悪魔は自慢げに骨と関節は何処に行ってしまったのだろうか思ってしまうほどにうねうねと軟体動物のように指を動かす。
そんな悪魔に呆れたのか、溜息を吐いた天使様は突然私に顔を近づけてきた。
悪魔と違って一切の化粧っ気は無いが、それが逆に白い肌と翡翠の瞳を際立たせていて私はドキリとしてしまう。
「あら、鼻血が。ベッドから落ちた時に余程強く打ったんですね。少し失礼しますよ」
そのまま天使様は、見惚れて垂れ始めた鼻血をそのままにぼんやりとする私の中に入って来た。
「初めてお借りした時はつい興奮してしまい気づきませんでしたが、直すのは鼻だけではなさそうですね。特にお腹。」
そう言って服を脱いだ天使様は、私の人に見せられたものではない体を見てあまりの不愉快さから顔を顰める。
私の腹部には大きな焼き印、売られた時に奴隷であることを示す為に押されたものがあったからだ。
自然治癒や医者の治療などで絶対に消えてしまわないようにと肌が爛れるほどに熱い物を力一杯押し付けられ、痛みで気を失っては痛みで起きる、ひたすらそれを繰り返したあの時のことは、幼い頃の話だが今でも鮮明に覚えている。
「腹部の違和感はこれですか。人に人を所有する権利は無いというのこの仕打ち、何と酷いことを」
怒りながら天使様は手を組み合わせ祈りのポーズを取ると、頭上に淡い緑に輝く魔法陣が現れた。
そのまま魔法陣はゆっくりと私の体を上から下へと通り抜ける。
魔法陣に触れた折檻で付けられた数多の生傷や古傷、そのどれよりも痛々しい焼き印は一瞬全体が光ると綺麗さっぱりと消え去ってしまった。
「ふう、こんなところでしょう。しかし同族にこんな悍ましい行為をするなんてやはり悪魔如きに誑かされる人間は最低です」
「ちょいちょいちょーい、言い掛かりは止めろし。それやったのは奴隷商かなんかであのデブオヤジじゃないっしょ。まあ、あーしらは聖人だろうがクズだろうが誰でも関係なく誑かせるけどね」
腰に手を当て自慢気にしているリリスに、聖人が誑かされる訳が無いと反論する為にキュエルから飛び出したイージスは、勢い余ってリリスの額に自らの額をぶつけて大きな鈍い音を立てる。
「どこも痛くない。私のお腹、綺麗……」
天使様によって癒され、ほんの僅かな傷跡すらない腹を撫でながら私は大粒の涙を流し始める。
一生消えない、一生逃れることの出来ない辛い身分の証として、常に嫌な痛みを与え続けてきた忌々しい焼き印が消えたのだ。
まだまだ年若く、人生で一番嬉しいと言うには些か生きた時代が足りないだろうが、私にはこの先もこれを超える喜びは無いようにすら思えたのだから嬉しさのあまり涙が零れるのは仕方がないことだろう。
互いに大きな瘤が出来た原因を押し付け合ったことから始まった取っ組み合いを止めた二人は泣き崩れたキュエルを優しく見守る。
しばらく泣き続けたキュエルは、泣き疲れたのかそのまま眠ってしまった。
「折角ベッドがあるというのに床で眠ってしまうとは仕方がない娘ですね」
「色々あったからしゃーないっしょ。細かいことは明日にするし」
イージスがキュエルに入り体をベッドに寝かせる。
その後イージスとリリスはキュエルの安眠の為に一時の休戦を結び、ベッドを境界線に左右に分かれて静かに一夜を明かすのであった。
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