(5)

 「正者」の紋章が消えて、狼狽を隠せないわたしに対し、「改竄者」アステリオスが口を開いた。


 その口調はわたしに対する侮蔑と、愉悦に満ちていた。


 曰く、「正者」の力は「神」によって担保されているもの。


 「正者」の紋章を門の出入り口として、「神」の力の一端を発揮するもの――。


 けれどもその「神」がいなくなってしまったら。


 もしその「神」が――「改竄」されてしまったとしたら……。


「そんなの、ありえない」


 わたしの声は、みっともないくらい震えていた。


 そんなことは、ありえない。


 そんな展開シナリオを、わたしは知らない。


 危機に陥り、めまぐるしく回転する私の脳裏に、しかしひとつの可能性が思い浮かんだ。


 ――バッドエンド。


 わたしは、『まばルナ』のバッドエンドを知らない。


 『まばルナ』は選択肢が他の乙女ゲームと比しても多く、それゆえにわたしは最初から攻略サイトを見て効率的にプレイした。


 『まばルナ』のタイトル画面から見られたエンディングリストの項目には、当然バッドエンドを条件としたものもあったけれど、わたしはそれを埋めなかった。


 上手く行くことばかりではない現実をいっとき忘れたくて乙女ゲームをしているのに、なにが悲しくてわざわざバッドエンドを見ないといけないのか。


 わたしはそういう考えの持ち主だったし、進んでネタバレを踏みに行くようなこともしなかったから、『まばルナ』のバッドエンドがどういうものかを、ほとんど知らない。


 わたしは苦し紛れに背後のアステリア様を見やった。


 アステリア様の左手の甲を見る。


 そこにはなにもなかった。


 わたしと同じ、「正者」の紋章があるはずの左手の甲には、なにもなかった。


 冷や汗を流すわたしを見て、「改竄者」は嘲笑わらう。


「ああ――なくなっちゃったねえ」

「なん、で……」


 なんで。


 どうして。


 どうしてこんなことになったのか、わたしにはわからなかった。


 なにも、わからなかった。


 そんなわたしを見て、「改竄者」は嘲笑的に目を細めた。


「どうして?」


 わたしは酸素を求めて水面で必死に口を開閉させる魚のように、苦しげに喘ぐことしかできない。


 わたしの頭の中にあった楽観や万能感が、急速に脳から溶け出ていくようだった。


「うるさいなあ」


 ヘラヘラと笑っていた「改竄者」は、急に表情をなくして真顔になったかと思うと、その手のひらを無造作にわたしへと向けた。


 途端、中空に門が現れ、扉が開いた。


 その門を、わたしはよく知っている。


 異界へと繋がる門だ。


 「改竄者」を、異界へと送り帰すための――。


 そこまで察したところで、わたしの体が端から奇妙にねじれていくのがわかった。


 痛みもなく、ただ、まるで雑巾を絞ったかのように、わたしの体がぐいぐいとねじれていく。


 そして異界へと続く門へ、頭のてっぺんから強烈な力により、吸い込まれていくのがわかった。


 悲鳴すら上げられないほどの強烈な力で、わたしは門へと吸い込まれていく。


 なにがダメだったのか、わからない。


 間違っていたのだとすれば――それは異世界転生者であるわたし自身の存在だろうか。


 それなら初めから――この世界で産声を上げるその前から、終わっていたことになる。


 歪む視界の中で、アステリア様を見た。


 彼女がどんな顔をしていたのかは、わからなかった。


 わたしも、もう、わたし自身がどんな顔をしているのか、わからなかった。


「君みたいな『改竄者』はいらないんだよ」


 「改竄者」が言う。


 そして次に呆れた様子で、こう付け加えた。


「君は自分が何番目の『ルナ』かもわからないんだろう?」


 わたしのすべては門の向こう側へと吸い込まれ、そしてわたしの意識は永遠に失われた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る