椿と清臣

椿は眠気で開こうとしない目を擦る。

いつも通り清臣に叩き起こされたが、時刻は五時前だった。

いつもより頑固に眠り続けようとする椿だったが、清臣に布団を全て剥がされて諦めた。

「眠そうだね。」

「朝早すぎるんだよ。」

正月には日本にいたいと言ったのは椿なのに不満を漏らす。

空港での出国検査を終えてから、出発まで二時間近くあった。

「臣と朝ごはん、食べてきな。」

「お兄は?」

「一仕事してくる。」

椿が首を傾げると、憂は優しく笑う。

「店の子たちにお土産。」

「それだけ?」

「太客のおじさまにも、かな。」

憂は清臣に手短に集合場所を伝えると、颯爽と去っていった。

残されたのは興と清臣。

いつもなら無口な二人相手に気まずさを感じてもいいが、今の椿はそんなことを考えられるほどさえていない。

「どうしますか?」

「なんでもいいよ……」

それより眠りたかった。

「昼食まで持ちますか?」

「持たない……」

でも寝たい。

臣は椿を半分引きずりながらフードコートの席に座らせる。

「お嬢、何が食べたいですか?」

「甘いパン。」

そう言ったきり机に伏せてしまった椿。

「若は何にしますか?俺、買ってきます。」

その声を遠くに聞いて、気を遣う清臣を新鮮に感じる。

「いいよ。」

「いや、お嬢の隣にいてください。」

「……じゃあ、コーヒー。」

興が短く礼を言うのを聞いて、清臣が去る足音がした。

「楽しかったか?」

喧騒にかき消されそうな声に、椿が気づくまで長い間があった。

「楽しかったよ。」

「また来たいか?」

「うん。」

消え入りそうな椿の声が言う。

「次はもっと長い時間、一緒にいたい。それに、いろんなところに行きたい。」

優しい相槌だった。

「そう思ってるなら、よかった。」

「家族だもん。」

この優しさを疑ってしまうほど残酷なこの世界が、憎かった。

椿は気づかなかったけれど、興は見る人が驚くほど優しい顔をしていた。


「椿、こぼしてる。」

「お嬢は手がかかりますね。」

興と清臣の二人は、子守りでもするかのように椿に手を焼く。

それくらい椿はぼけっとしていた。

だって朝早いんだもん、と思いながら、とはいえ、いつも起きる時刻を回っていた。

「私、お手洗い行ってくる。」

「ついていきます。」

「変態。」

清臣がわかりやすく怒ったような顔をする。

「ごめんって。」


トイレを出て手を洗う。

だんだんと目も覚めてきた。

この国の水は勢いが良い。それに、流し回りは汚い。

ハンカチで手を拭く。

前髪を手櫛で直して、椿はトイレを出ようとする。

さすがに、清臣はトイレの外で待っている。

一歩、踏み出したとき、椿は何者かの気配を感じて、振り返る。


性別が違うことが悔やまれる。

一方で、そうでなければこんな気持ち、抱くことはなかった。

それは、幸せなことだろうか。

耳を澄ませていた清臣は椿の声を聞いた気がした。

言葉にならないその音を聞いたとき、清臣は躊躇うことなく女子トイレに入って行った。


細身の女だった。

振り向いた椿に驚いた顔をしたものの、慣れた手つきで紐を椿の首にかけた。

抵抗できなかった。

どうして?

前はこんなことなかったのに。

フラッシュバックするのは仁に突きつけられた銃口。

息が、できない。

自分ではどうにもできない死がある。

一度その恐ろしさを知ってしまったら、それ前に、足がすくんで動けなくなってしまう。

「お嬢!」

清臣の声がした。

清臣は一発、女の首の辺りに拳を入れる。

普通では聞かないような酷い音がした。

首を絞めていたものが離れて椿は自由になる。

だが、咳き込んで止まらない。

女を放って清臣は椿の側に寄る。

「大丈夫ですか?」

「うん。」

椿は咳の間に答える。

「ここ、女子トイレだよ。」

「なに言ってるんですか。そんな場合じゃないですよ。」

だんだんと落ち着いて、椿は清臣が背中をさすってくれていたことに気がつく。

お礼を言おうとして口をつぐむ。

女が動いたのが気配でわかる。

しかし、それよりも清臣の方が早かった。

どこから出したのか、銃口を女の方に向けた。

異国調の言葉で何か言う。

内容はもちろんわからないけれど、脅しであることは確かなようだった。

それからすぐに、ガタイのいい警備員が数名トイレに入ってきた。

女を取り押さえると、清臣を怪訝な目で見る。

また、外国語で清臣は何か言う。

警備員は訝しげな顔のままだったが、納得はしたようで、そのまま去っていった。

「立てますか?」

立ち上がるが、先ほどの緊張から急に力が抜けてしまう。

清臣はなにも言わずに椿を支える。

椿は弱々しい表情になると小さく呟く。

「私、臣がいないと生きていけないね。」

その顔には笑みが残っていたが、どこか悲しげな瞳をしていた。

何か言いたげなその瞳は、彷徨ってそして力無く一点に落ち着く。

俯くその顔に何を言えばいいかわからなくなる。

どうでもいい相手には……一向に顔と名前を覚えられない、覚える気もない女子生徒などには、気の利いたことはいくらでも言えるのに。

椿を前にすると、気持ちが言葉にならない。

出会ったときからそうだった。

いつも口をついて出る言葉は、思っていることとは少し違った。

彼女が傷つかないように、そっとその頬に触れる。

赤子のように柔らかくて滑らかな肌だった。

小さく震えて、一筋の涙が流れる。

椿は清臣の手を拒否しない。

ただ静かに涙だけがこぼれ落ち、清臣の手の甲を伝う。

「私、でも……」

その先は言葉にならなかった。

涙の理由が悔しさだということはわかった。

弱い自分へのやりきれなさ。

でも、それ以上に複雑な感情のことはわからない。

「それが普通でしょう。それでいいんですよ。」

清臣は不意に椿を抱え上げる。

椿は混乱して、抵抗しようとするが、清臣はびくともしない。

「それに、俺の仕事がなくなります。」

清臣は優しい瞳をしている。

「だからって、なんで……」

椿は清臣の肩をポンポンと叩く。

「お嬢が歩けないみたいなので。これも俺の仕事です。」

椿は顔を真っ赤にして、手で覆う。

おかげで涙は引っ込んだ。

「恥ずかしいよ。」

清臣はそのままトイレから出る。

トイレの外で待っていた興はその様子を見て思わず笑った。

笑い慣れていないせいで、鼻で笑ったようになったが。

椿はそれを聞いて顔をますます赤くして黙り込んでしまった。

後でその話を聞いた憂は涙を飛ばしながら、永遠に笑い続けていた。


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